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●『雅美と超俗 琳派と文人画派』
13日に行って来た。阪急沿線の大阪から西に行くからには、この展覧会だけでは交通費も出かけ直す時間ももったいので、帰りに尼崎に立ち寄ってもうひとつ『村上善男展』を観る計画を立てた。



●『雅美と超俗 琳派と文人画派』_d0053294_16251441.jpgこの『雅美と超俗』は今竹七郎展を観た後に行く予定であったが、その日は以前にこのカテゴリーに書いたように、豊中の西福寺に立ち寄るだけで精いっぱいだった。逸翁美術館は阪急1本でいいが、尼崎は阪神電車が便利で、結局大阪まで出て、阪神に乗り換えて行った。それについては明日書くことにして、今日はまずこの展覧会から。逸翁美術館は1年半ぶりだ。去年の早春展として開催された『呉春と景文』は、逸翁こと小林一三が愛してたくさん蒐集した呉春のコレクションの逸品を中心に見せるもので、呉春ファンにはまたとない機会であった。だが、呉春ファンはどれほどいるのだろう。逸翁のまとまったコレクション以外にたくさん所蔵している機関を知らない。また呉春に関しては文献や画集が大変少なく、今後再評価が期待される。景文は呉春の異母弟だが、呉春の小粒の感じがあり、さらに研究は進んでいない。ふたりは四条派の始祖であるにもかかわらず、この扱いはとてもさびしい。一方、呉春の師の蕪村はますます評価が高く、江戸時代最大の芸術家という評価もあるほどだ。全くうなずけることで、そんな蕪村が大阪出身でしかも京都に死んだことは何だか身近に感じて嬉しい。2年前の大晦日かその前日だったと思うが、息子のまだ慣れない運転で蕪村の墓のある修学院の金福寺に行った。とても寒くて空は鈍色をしていて、修学院あたりでは日陰では雪が積もり、道は凍っていた。それに道が狭くて急な坂が多く、金福寺に辿り着くのにかなり往生した。道がわからなくなって3、4人に訊ねたが、最後は銀色のベンツに乗った若くて美人の女性に親切にも寺近くまで誘導してもらった。寺には他に誰も客はおらず、ひんやりとしていたが、茅葺きの芭蕉庵は蕪村が芭蕉を忍んでよく利用したころで、その芭蕉庵から見下ろす京の町はいつもよく知っているところとは全然違うように見えた。金福寺は幕末の村山たか女が晩年死ぬまで住んだ場所でもあり、境内は全く江戸時代そのものだ。蕪村ファンでなくても一度は訪れる価値がある。
 寺には蕪村の立派な墓があり、その左付近に呉春と景文のやや小さめの墓がふたつ並んでいる。それを見ると胸に込み上げるものがある。確実に生きて描いて詠んで逝った天才たちの魂がここにあり、しかも弟子たちがそれらの師を敬愛し、このような立派な場所に墓を設けたことは美しい。人間でなくてはそんなことはしない。江戸時代において、蕪村と呉春の師弟関係ほど美しいものはないと思うが、このふたりを軸にした映画や大河ドラマがなぜ制作されないのだろうか。それほどに文人画家や俳諧師の生涯など一般には関心が持たれていないのだろうが、だからこそ啓蒙的にそうした人間関係に光を当てるドラマ、あるいは小説があってよい。司馬遼太郎に呉春と蕪村の関係を少し描いた短編があるが、あれほどではとても深みが足りず、誤解も与えかねない。日本はだいたいにおいて芸術家の生涯を描く映画やドラマは少ないが、大衆が歓迎するものを提供することが監督の務めであると言いたいのであろうが、それは単に観客に迎合しているだけの話で、もともとTVのヴァラエティ番組に盛んに登場する映画監督などに文人画などがわかるほどの頭がないだけの話だ。話が脱線しているようだが、そうでもない。この展覧会のタイトルは『雅美と超俗』であり、前者は琳派、後者は文人画を指しているが、蕪村はつまり超俗ということで、そのことからも俗なドラマ化など最初から拒否していると言うべきだろう。この俗ということに関しては芭蕉と蕪村とでは考えが少し違っているが、芭蕉が俗に還れと言うのに対して、蕪村は芭蕉以降の俳句があまりにも卑俗でつまらないものに堕していたのを、それでは駄目だと超俗を唱えた。俳句は貴族的な和歌に比べて庶民的な雰囲気が強いが、わずか五七五の文字の中に一見同じように詠んでも俗に陥らないというのは、それだけ精神が高いからだ。蕪村の本質を知るには俳句もそうだが、絵も同時にその精神を深く込めていて、両方を行ったり来たりしながら何度も鑑賞するしか蕪村の格の核に近づく方法はない。だが、俳句は本でどうにかなっても、絵は実物を観るためには美術館に足を運ぶ必要がある。ところが蕪村の名品はいつもどこかで常設されてはいない。むしろなかなかまとまって観る機会がない。文人画を理解するのは若冲の絵を楽しむのとは全く違う感覚が必要で、最初に観ても即座にその味が理解出来るという質のものではない。むしろほとんど関心すら湧かず、そのまま素通りしてしまう。それは蕪村の絵がもはや時代遅れだからか。そうではない。それだけ超俗であり、俗な見方でいる限りは蕪村は心に何ら入って来ない。
 今回の展覧会の目玉は、チケットやチラシにあるように、「蕪村 幻の世界初公開」と題した「五老酔帰図」の大きな掛軸だ。この1点を観るために筆者も出かけた。逸翁美術館の企画展は図録が制作されないことの方が多い。今回もなかった。そのため「五老酔帰図」のカラー図版はチケットやチラシでしか確認することが出来なくなっている。それにどういうわけかチケットやチラシでのこの絵の図版は部分図で、落款印章は見えなくなっている。何だか出し惜しみしているようで腑に落ちないが、会場では鉛筆で全体を簡単にスケッチして来た。この作品は昭和7年の「穴水家入札目録」やそれから転載した現在刊行中の「蕪村全集」のその第6巻に写真図版が掲載されているだけで、実物の存在は確認されていなかった。それがこのたび初めて公開になったのだが、ずっと逸翁美術館が所有して来たのか、あるいは一度行方不明になってその後発見された時、画商が逸翁美術館に持ち込んで売りつけたものだろうか。その点に関しては明らかにされていないが、保存状態は完璧で、実に名品と呼ぶべきおおらかで優しい空気をたたえていた。蕪村の大きさが今さらに忍ばれるものであった。ほとんど絵の上部の中央に「謝春星清写」という落款とその真下に白文方印の大小ふたつが捺されている。この落款の位置はとても珍しい。ほとんど同じような例を見たことがないが、それほどに蕪村は自信があった作品なのだろう。不必要な筆致や色は皆無で、上方の掛軸幅5分の3の空間は広過ぎず、また狭過ぎずにちょうどよい。山道を来て、崖を背後に遠くの景色を眺めやっている古老の表情が品がよく、しかも豪胆な感じもあって絶品というべき描写だ。古老はきっと景色を観ながら心に詩を思い浮かべているに違いないが、それを蕪村は俳句で詠み、しかも全く独自の闊達な筆跡で書くことも出来たから、何という才能だろう。蕪村は筆者にはまだまだ遠い存在に思えるが、知れば知るほどこの世界が楽しくなって来るような、何とも言えない愉悦がふつふつと湧き起こって来る。今回はこの作品の真向かいに有名な「闇夜漁舟図」があった。図録の表紙に取り上げられるほどの名品で、この作品にある温かさと優しさ、懐かしさは呉春にはない。だが、芋銭には似た味がある。どこか漫画的な印象は、俳画が略画の点で現在の漫画とは大いに関係しているからだが、この作品に関しては、墨の濃淡の扱いが完璧で、かなり高度で繊細な水墨の技術が駆使されていて、略画などとは到底言えない。蕪村はこれら2点のほかにいずれも有名な「松林帰樵図」「移石動雲根図」が同じく第2室にあり、また別の作風を比較することが出来た。また離れの第5室には重要文化財の「奥の細道画巻」が展示されていた。これは上下巻を会期中4回に分けて順に公開されていて、ガラス越しではあるが、墨の滲みのある筆致を眺めていると、画集では感じられない生々しさがあった。それは紙の質感が目に心地よいからでもある。和紙の均一でないざらつき感は光沢のある洋紙に印刷したのでは全然再現されない。帰宅してから同じ絵を画集で見たが、墨の滲みもすっかり違うように思えた。
 逸翁美術館は池田駅から山手方向になだらかな坂を上がって行ったところにあるが、落ち着いた家のたたずまいが続く閑静な道を進むと右手に江戸時代そのままの大きな屋敷の木の門がある。内部の庭がすぐに見えるが、紅葉の季節でもあり、去年行った時にも増して庭の雰囲気がよかった。鑑賞の途中で庭に出た。桜の葉がたくさん苔のうえに落ちていて、形と色のよいものをひとつ持って帰るつもりでしきりに探した。それでも気に入ったものはなかった。茶室では茶の接待が500円で行なわれていたが、先を急ぐ方が大事なので、そそくさと館内に戻った。展示室となっている本館の建物は洋館だが、別に和室や茶室もある。美術館としてはあまり大きくはないし、またプライヴェートな感じがするところがコレクションにいかにも似合っていてよい。池田に関係の深い呉春の作品が多くここにあるのは呉春にとっても幸福なことだろう。蕪村の作品は伊丹の柿衞文庫もかなり所有しているが、やはり蕪村は関西の画家ということか。蕪村を観ただけで後はどうでもよいという気もしたが、少し触れておこう。第1室は俵屋宗達の2点、光悦の書2点と黒楽茶碗があった。細見美術館を連想したが、こっちの宗達の方が断然よい。光悦の色紙は「秋風のたなびく雲のかへまよりもれつづる月の彩ぞさやけき」と書いた色紙と、定家の秋を詠んだ和歌を書いたものがあって、いずれもいかにも季節に合っていていた。第2室は前述の蕪村のほかに大雅の、秋の歌を詠んだ懐紙が出ていて、これまた秋期展に合わせた内容だ。第3室は、吹き抜けになっている第2室突き当たりの階段を上がった2階奥にあって、光琳の茶碗と3点の絵、チケットにもある乾山の向付や茶碗などが中心になっていた。第4室は第2室のすぐ隣の部屋だが、玉堂、木米、竹田、海屋、文晁、米山人ら文人画の絵や陶磁器がガラスケースに収まっていた。ここは玄人受けするコーナーと言ってよい。竹田の「南窓帖」はほとんどはがき大の絹本に描いたミニアチュール作品で、それらを経本仕立ての台紙に貼りつけてあった。これは実物を楽しまなければ本当の味がわからない作品の見本と言ってよく、竹田の意外さを見た気がした。「南窓帖」に見られる竹田の印章は縦長の楕円形の中に左右対称になるように「竹田」の2文字が彫られているが、その2文字がちょうど笑っている人の両眼と口に見えて、これはあえて竹田がそのように彫ったと思えたが、もしそうだとすれば何という茶目っ気だろう。竹田の作品をたくさん並べた展覧会は2、3度観ているが、なかなか心にすっと入って来ない画家だが、少し見直す気になったほどだ。米山人は特異な存在、海屋はなぜか気になる存在といったように、興味がある文人画はあるが、肝心の作品にあまり接する機会がなく、なかなか興味も深まりにくい状態にある。第3、4室と隣合って図書室兼休憩室があって、ここから庭に出入り出来る。図書は申しわけ程度にほんの少々ある程度で、これは少し恥ずかしい。今の数倍の本はほしいところだ。休憩室には自動販売機があって、清涼飲料水が買えるが、これはこの風格ある美術館の雰囲気からして少し意外だ。大阪らしい、あまりお高くとまらないサーヴィスと言えるか。だが、小林一三は関西出ではなく、山梨の韮崎出身だ。第5室は前述したように、洋館建ての本館からは少し離れたところにある平屋の建物だ。売店と展示室がある。大きな屏風を展示するのにちょうどよい幅広い展示ケースが部屋の突き当たりに、そして部屋の中央には長い絵巻物の展示に便利な、長く平たい、そして背の低いケースがある。抱一、其一、是心、梅逸、そして先に書いた蕪村の「奥の細道画巻」が展示されていたが、抱一は6曲1双の水仙を描いた銀箔地の屏風があった。丈はあまり大きくない。初めて見るもので、いかにも抱一らしい絵だ。だが、琳派系の絵師なら誰が描いてもあの程度にはなるであろうし、特筆すべき作品とは言えない。雅美よりもやはり超俗にこそ今回は焦点が当たっていた。
by uuuzen | 2005-11-19 23:58 | ●展覧会SOON評SO ON
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