憚りながらという気持ちになるのが鳥居をくぐる時で、それが本殿の前に立つとなおさらだが、たいていの人がそうではないだろうか。

また、初めてまともに見る神社はさらにそうで、しかも地図に載っていないとなればもっとだ。金刀比羅神社からどこを目指したかと言えば、岡山駅の北端から100メートルほどのところにある、大きな通りに面した道通神社だ。筆者が印刷したヤフーの地図では鳥居の記号が三つあって、南の子守神社、そして北に上がって金刀比羅神社、そこからほぼ真西の500メートルほど離れた道通神社に回って駅に向かう予定でいた。ところが、昨夜書いたように、ジグザグに碁盤目状の道を歩いていると、小さな、それでいて遠目に目立つ赤い鳥居が目についた。それが昨日の神社だ。その鳥居の前は車が1台通るといっぱいと言ってよう細い道で、そこを北に上がって左つまり西に折れるとすぐに京都木屋町の高瀬川を思わせるような小川がある。木屋町と違うのは夜の盛り場ではないことで、それもあって緑が多く、なかなかいい雰囲気だ。今調べると、
前回岡山市を訪れたのは5年前の春で、その時にこの小川沿いに立つ銅像が福武一二氏の表現したものであることを知った。その銅像の立つ場所までは300メートルほど南かと思いながら、細い橋を越えてまた狭い道に入った。というのはその道が最もその橋から近かったからで、またその狭い道の先に目指す道通神社がある。ところが、また不意を突かれた。狭い道は2,30メートルほどで、その先は広くなっていることがわかったが、そのちょうど境、四辻の角に来ると、すぐ左にまた赤い鳥居があるではないか。もちろん筆者の地図にはない。今日の2枚目の写真の左端に反射鏡が立つが、そこが狭い道と広い道の境と思えばよい。つまり、筆者らは写真の左端を奥から手前に出て来た。法随稲荷大明王とあって、「法随」が何を意味するのかわからないが、石の玉垣はなかなか立派だ。境内の奥の左手に小さな祠があって、2枚の写真ともにそれが写っているが、家内は先をさっさと行くし、境内に入るのが憚られてその祠の前には立たなかった。その代わりと言えば何だが、鳥居のちょうど中央に立って撮った。そのことは本堂の中央と鳥居のそれが一致していることや、狛犬の胴体が左右とも見事に同じだけ見えていることからわかる。筆者がちょうど中央に立つのは、神社にそれなりの敬意を表してのことで、実際には賽銭を投げて拝まなくてもその気分になるためだ。とはいえ、それは筆者の勝手で、神社は柏手を打って正しく拝まねば意味がないだろう。それはともかく、とても小さな神社なので、鳥居をくぐらなくても雰囲気は充分にわかる。割合背の高い木がいくつか生えていて、町中のアクセントになっている。熱田神宮や吉備津神社のような巨大な神社もいいが、庶民の住む地域にきれいにたたずんでいる小さな社というものも味わいがある。それに筆者は知らない町を歩くことが好きで、そういう機会が神社目当てで生じたというのは面白い。どこがそうだと言えば、知らない町の家並みだけでも印象によく残るのに、そこに神社が加わってなおさらその町が生き生きと蘇る。これがたとえば酒好きな人ならば、どこそこにいい飲み屋があるいう、飲み屋によって町を記憶するが、飲み屋はほとんどが10年や20年で潰れるか、新装される。その点、神社はもっと長生きし、しかもほとんど様子は変わらない。とはいえ、今日の2枚目の写真に写るように、すぐ隣りが別の建物になると、神社も影響を受けてたとえば木が枯れたり、思い切り枝が切り取られたりすることがあって、かつての印象と全く同じではなくなる。そのことを実感したことがある。筆者が小学生の頃、家から7,8分のところに銭湯があって、そこに母や妹らとよく通った。銭湯から200メートルほど離れたところに小さな社があって、赤い鳥居もあったと思う。また祠は柳の木で半分覆われていて、川べりであったので全体に時代劇の映画に出て来るような風情があった。先日何気なくその社のことを思い出してGOOGLEのストリート・ヴューで調べた。もちろん祠はそのままあるが、小さな鳥居も提灯も赤と黒で塗り分けた玉垣も、それに大きな柳の木もなくなっていることがわかった。川が埋め立てられた際に鳥居のあった場所が削られたからだ。おまけに周囲の家並みはすっかり代わり、時代劇にひんやりとした風情が完全になくなっていた。もはや憚りながらその前を通るといった雰囲気はなさそうだ。街が変わると、あまりに小さな社も影響を受けることの例だ。法随稲荷大明王はそうなならないだろう。