碁盤目状におおよそ道が走っている岡山市だが、JRの線路は斜めに走る。江戸時代はそこはどのようになっていたのだろう。

市内を南北に貫く旭川という大きな川は、駅から東に向かって1キロ少々のところに流れ、後楽園はその中洲のようなところで、細い橋をわたって左岸にある。岡山城は後楽園とつながっているとばかり思っていたが、今地図を見て驚いた。右岸にあって、城と後楽園の間に旭川がある。また城のある敷地からも細い橋があって、それを左岸にわたれば後楽園だ。後楽園の辺りは少しさびしい雰囲気で、あまり足を向けたくない。一度行けば充分といったところだ。それはさておき、碁盤目状の街路であるので、地図に記される次の鳥居の記号をたどるのは京都を歩くのと同じで、その道を選んでも距離は変わらない。そこで筆者はなるべく四辻ごとに折れて進むことを好む。それであえてと言うほどでもないが、狭い道を選ぶ。その方が車の往来を気にせずに済むからでもあるが、そう言えば駅から東、市電が走る大通りより北の街は車がとても少なかった。ということは静かだ。ありふれた街並みだが、高層ビルが見えないのが何とも庶民的でよい。先日書いたように、筆者は鳥居の記号を目指して時計回りとは反対にたどって最後は岡山駅に戻ることにした。それで昨日の金刀比羅神社の後は西に進み、何川と呼ぶのか、京都の高瀬川に似た小川に至るまでに細い道を北に入った。すると30メートルほど先の左手に赤い鳥居が見えた。住宅地の中の神社だが、1軒分を神社に充てているといった感じで、またガレージを神社に改造したような雰囲気でもある。その神社は筆者がヤフーで印刷した地図には載っていない。ということは、たまたま気まぐれに選んだ細い道を入ったことで遭遇したから、その神社が筆者を呼び寄せたと考えることも出来る。南北を走る細い道は20メートルおきに5,6本もある。そのうちの1本を何気なしに選んで赤い鳥居が見えたのであるから、やけに神社づいている。そう思ってどんどん進み、神社の前で今日の2枚の写真を撮った。鳥居の奥に祠がふたつ並んでいて、誰が面倒を見ているのかと言えば、神社を挟む両隣りの2軒が中心で、そのほかはこの細い道の両側に並ぶ20軒弱ではないか。どことなく私設神社の趣があり、由緒が気になるところだが、ガレージのような境内に入ると、その壁面に神社に関する貼紙があるのだろう。それでも中に入ってそうしたことを確認することが憚られる。鳥居はきれいに汚れを拭われているようだが、その柱の脇に石の置物があって、どことなく骨董屋の店先のような感じが漂う。北隣りが真言宗の寺だが、これがまた普通の家と何ら変わらず、ただ寺の名前を刻む小さな石碑がひとつだけ建つ。神仏習合時代に寺がもう少し大きく、その境内に神社もあったのかもしれない。寺が普通の小さな家のままということはあり得るだろう。わが家の近所に昔真言宗のお坊さんが住んでいた。寺を持たない、あるいは持つほどの経済力がなかったのか、ともかくお坊さんの資格は持っているが、普通の人と同じ生活をしていた。そう言えば語弊があって、高齢でも普通の人とは違う気迫が漂っていた。その人のように、お坊さんであるのに、寺がない人はたくさんいるのかもしれない。そしてそういう人の中から、小さな自宅を寺にする人があるだろう。街にお坊さんは必要で、お経を唱えてもらいたいとの依頼はある。それはともかく、気ままに歩いていて地図に記されない神社を見つけたことは楽しい。地図を頼りにそれに記される神社を巡るだけでも面白いが、それは予定をこなすことであり、意外性は乏しい。何でもネットで調べられる時代であるのに、地図を拡大しても神社の記号や名前が記されない社がある。そういうところが愉快だ。白竜天王は白蛇の神を祀るはずだが、そう言えばわが家にも白っぽい蛇が棲息しているようで、去年裏庭の洗濯機の背後に見かけた。筆者はあまり蛇は恐くないので、そのままにしておくが、白龍神社のマイ神社として裏庭に小さな祠を建てればいいかもしれない。それはいいとして、今日の写真の神社は、かつては白蛇が住む大きな樹木があったのではないか。高倉稲荷大明神の「高倉」はこの辺りの地名か何かであろうか。ふたつの社でよかった。これが3つも4つもとなると、狭いガレージ風の空間では横並びは無理だ。