脳細胞に記憶されることには限界があるか。人間は記憶能力の1パーセントほどしか使っていないと昔何かで読んだことがあるが、そのことは今はどう評価されているのだろう。

1パーセントしか使っていないのであれば、99パーセント使うと誰でもノーベル賞をもらえるような研究が出来そうに思うが、1パーセントしか使っていないことはそれなりに理由があるだろう。そこが人間の面白さとも言える。これはふたつのことを意味している。ひとつは1パーセントしか使っていないのではなく、誰もが100パーセント使っているのに、脳科学者の脳が1パーセントしか活動していないので、勘違いをしているということで、もうひとつは大半の人は1パーセントしか使えない絶対的な理由があるということだ。つまり、1パーセントしか使っていなくても、それで人間世界はうまく行っている。誰もが100パーセント近く脳を使っても何も変わらないか、むしろ社会は悪化する。ノーベル賞も考えもので、そのことはノーベル自身が最もわかっていた。せっかく人間に有意義なニトログリセリンの爆薬を手に入れたというのに、すぐにそれは命を抹殺することに使われた。科学は純粋なもので、それによる技術がどう使われるかは科学の知ったことではないという意見を科学者はよく言うが、思い上がりが激しい。それこそ脳を1パーセントしか使っていない。マッド・サイエンティストという言葉があるが、科学者はみなそういうところがある。話が逸れた。脳についてに戻すと、脳細胞は無数ではないから、考えや記憶には限界がある。つまり脳は物理的で、そうであるから限界のない霊的なものに憧れがある。大阪のお会笑い芸人が、霊魂が不滅なら、数十兆ものそれがこの空間にひしめき合っていて、それはどう考えても理不尽だと真顔でTVで発言していた。真顔であるがゆえに、その芸人の馬鹿さ加減を世間に示していたが、霊は物理でなく、数十兆個の魂が集まっても砂粒ひとつにもならない。そういうものとして霊を考えるべきで、そのことは人間が脳細胞を1パーセントしか使っていないということを思い出させるが、有限の脳細胞が無限の事柄を記憶したり思考したりすることが出来るかどうか。それはわからないが、脳細胞が霊魂は無限の数であると思えることは、脳にはそういう拡散への志向があるからだ。その拡散の志向はどの宗教にもあって、信じる神を広めようとする。これは霊を扱うゆえによく理解出来る。さて、今日は昨日の続きとなるが、岡山駅近くの金刀比羅神社境内の北端に並ぶ三つの小さな社についてだ。摂社や末社が複数ある場合は必ず横並びにされる。個々にお詣りするのが便利であるからで、縦に並ぶと序列があるようで神様に申し訳ないとの思いだ。三つ祠を並べるのではなく、長屋風の横長の祠をひとつ造ってもいいようなもので、先日書いたように筆者はその眺めが好きだ。だが、それは誂えする必要がある。今の時代の住宅は企画品で、工場製品と化している。小さな祠も同様にどこかが大量生産していると思うが、そのことを思わせるのが今日の写真だ。道路から見ると祠の背が見え、三つはどれがどれかわからない。前に回って狐や狛犬の置物の差は鳥居の扁額によってどの神を祀っているかがようやくわかる。これは手抜きとも思えるが、もともと日本の神は造形的にはきわめて簡素で、装飾を嫌う。ごてごてと飾りつけるのではなく、むしろほとんど何もない清々しさをよしとする。そうであるから、祠がどの神も同じ形であってもかまわない。重要なことは形ではなく、霊魂なのだ。そのため、たとえばひとつの稲荷社の社が風化してなくなっても一向にかまわない。いや、形あるものは滅びることを知っているから、大きな社であっても同じで、たとえば伏見稲荷大社が空爆ですっかり灰塵に帰しても、そのことで祀られる神が消えたのではなく、また同じものを建てればよい。それはさておき、昨日の2枚の写真を撮った後、気になって境内に入り、今日の2枚を撮った。三つのうち、境内の出入り口の石鳥居から最も近いものとその次のものを撮った。最初の写真は最も手前の稲荷社で、中央に鉄パイプを赤く塗った鳥居の柱が見えている。奥に筆者の方を向く道行く女性が写っていて、写真を加工して初めてその雰囲気を知ったが、多少気になる容貌だ。写り方がまるで祠に置かれた小さな人形のようで、一瞬驚いた。小さな人形は雨に濡れても大丈夫な磁器製の狐で、これは前にも書いたが伏見稲荷大社の参道の店で売られているだろう。2枚目の写真は春日社で、鳥居が錆びてひどい状態になっている。日曜大工が得意な人が休日を利用して塗り直すべきだ。東端には天満宮があったが、1,2枚目と同じ大きさと形の祠なので撮影しなかった。狭い境内ではこの三つでいっぱいで、数多くある神様をさらに祀るのであればもっと小さな祠にする必要がある。そういうものも企画品として売られているだろう。