笠木と島木が一体化したものが太平洋を越えてアメリカ西海岸に漂着したニュースがあった。現地の日本庭園にその鳥居の一部が横たえられている映像を2,3か月前にTVで見た。

東北の大震災で海に流れ出たものが何百日も要してふたたび陸地に着いたが、磯良の神のように鮑や牡蠣がこびりついておらず、あちこちに傷がつき、また抉れている箇所もあった。長さは10メートルはあったと思うが、元の神社に返却されても、再使用が出来るだろうか。それにしても木であったのでアメリカまで浮きながら到着したが、石なら割れて使いものにならない。木でも石でもかなりの重さになるから、地震で鳥居が倒れないように柱の土台をしっかりと固めておいてほしいが、倒れてその下敷きになっても人が怪我をしないように、柱を中空にして軽くするのはどうか。石なら仕方がないが、他の素材がもっとあっていいかもしれない。さて、吉備津神社で撮った写真を今日も紹介する。まだ数日分はあるが、ほかの神社の紹介が先だ。昨日紹介した一童社のすぐ近くに、今日の最初の写真の石の鳥居があった。笠木に相当する部分、すなわちてっぺんに小石がたくさん載せられている。これは縁起かつぎで参拝者が置くのだろう。あまり見栄えのいいものではなく、神社がさっさと処分すればいいように思うが、定期的にそうしているだろう。この写真は鳥居をくぐって振り返って撮った。そしてまた鳥居の外すなわち一童社に戻り、そうしてその境内を去る時に2枚目の写真を撮った。鳥居の向こうに入ったのになぜすぐに出たかと言えば、理由がある。そのひとつは鳥居の前に立ってその写真を撮ろうとした時、筆者の目の前に若い男性が早足でやって来て、気分がそがれたからだ。その人を避け、そして交代する形で鳥居の向こうに進みかけたが、社が見えない。そこで思ったのは、この鳥居は一童社のもので、鳥居の向こうには何もないかもしれないということだ。筆者はすぐに祠があると思ったが、見えるのは山道で、それを筆者の後ろから見た家内が、行くのは止そうと言った。電車の時間があるから、そう遠くまで行くことは出来ないと筆者は思い直し、それで最初の写真を撮っただけであった。吉備津神社のホームページを見ると、この鳥居の奥は50メートルほど先に岩山宮がある。先の若者はそこまで行って帰って来たのだろう。岩山宮は初めて聞く。吉備国の地主神を祀るとのことだが、地主と言えば京都の清水に有名な地主神社があり、それも山の地主神を祀るのであろう。ホームページにある写真を見ると、岩山宮の祠はこじんまりとしているが、屋根は瓦葺きでなかなか立派だ。また祠のすぐ前に鳥居がなく、やはり今日の最初の写真の石鳥居はこの社のためのものだろう。ということは参道が地道で50メートルほどもあって鳥居からは祠が見えず、地主神というのがとても雰囲気に合っている。名前のように付近は岩山なのかどうか、そうだとすれば豪雨が降っても土石流の心配はさほどないだろう。それはともかく、筆者の脳裏には鳥居の奥の山道があるが、その奥の祠を見ておらず、今日の投稿は没にすべきだが、ま、せっかく訪れた有名な神社であり、投稿に3日を費やすのは多くはない。2枚目の写真は本殿の奥に少しだけ下界の町並みが見えているが、それほど高いところに上って来た気がしないので、これは意外であった。一昨日の投稿の最初の写真に写る神社名を刻んだ石柱の文字の揮毫は犬養毅で、その名前が裏面の下の方にあった。彼の銅像が参道の松並木から100メートルか200メートルほど離れたところにある。駐車場の近くで、車で訪れる人にはすぐにわかるのだろう。筆者らは時間がなく、その銅像の奥に朱色で目立った社に行きたかったが、断念した。犬養は地元の庄屋の息子で、遠い祖先は吉備津神社の神の随神とされる。ま、故郷から偉人を輩出し、その先祖も含めて代々吉備津神社に援助を惜しまなかったので、銅像を建てて顕彰しようということだ。家内は政治家の故郷については筆者よりはるかに詳しく、吉備津からは有名な政治家がよく出ていると言う。全国的に有名にならずとも、金持ちであれば寺社にぽんと1億円ほど寄附する人があって、先日の家内の父の月命日に家内の実家の寺の住職がそんな寄附があったことを家内らに話していたそうだ。