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●神社の造形―一童社
団子の黍は吉備のことだろう。岡山名物はきびだんごということで、吉備津神社前の土産店にも売っていたようだが、結局買わなかった。



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団子と言えば近鉄八木駅で売られているきな粉をまぶしたものが真っ先に思い浮かぶ。これまで二度食べただけだが、ひとりで一箱を食べたいと思うのはそれだけだ。今調べると「だんご庄」という店だ。八木は遠いうえに用がないので降り立ったことがないが、隣家の奥さんのお姉さんが住んでおられて、10年ほど前にお裾分けで少しいただいたことがあって、その時にものすごくおいしいと感想を言うと、1年経った頃に今度は一箱まるまるお土産として持って来ていただいた。その団子と似た商品が近鉄奈良駅で売られているのを見たが、たぶん味は違うだろう。「だんご庄」は橿原神宮の近くで、同神宮に行くついでに立ち寄ることが出来る。橿原神宮は小学4年か5年の遠足で行ったことがあるが、昭和30年代の大阪市内の公立小学校は遠足では必ず橿原神宮、修学旅行では伊勢神宮へ行くのが習わしであったはずで、それが70年代になってからだろうか、学校が国家神道の代表のような橿原神宮や伊勢神宮と関係するのはいかがなものかという意見が出て、それからは両神宮には行くことはなくなった。では寺ならいいのかという問題もある。奈良の大仏を見に行くことは今でも大阪の公立小学校では遠足にあると思うが、寺社を外せば残るは美術館か科学博物館になるが、今はどうなっているのか。それはともかく、筆者は橿原神宮には小学生の遠足で一度行った切りで、しかもその記憶はあまりいいものではない。伊勢神宮はそうではなかったが、二見ヶ浦を見るなど、海辺で開放的な印象があったからかもしれない。その点、橿原神宮は何も見るものがないような気がした。小学校や中学校の遠足で神社に行くのであれば、菅原道真を祀る天神さんがいいだろう。だが、今ではそれも神頼みで成績がよくなるのかとPTAが文句を言うかもしれない。小中学生の遠足や修学旅行で神社にお詣りすれば、大人になっても神社を忘れないのではないだろうか。それがいいことかわるいことかと言えば、たとえば小中学校はキリスト教系の私学に行く子どももあって、彼らは大人になって神社に詣ることに積極的でないか、あるいは否定的になるのではないか。かといって教会に日曜日ごとに行くかと言えばまず絶対にそれはない。公立の小中学校に通うことで寺社により馴染む大人になるとは限らないかもしれないが、祭りや盆踊りといった行事によって神社や寺の存在を無意識のうちに心に刻むであろうし、そのことは手を合わせて拝む、祈るということを思い起こさせるだろう。キリスト教もそれは同じだが、教会の数は圧倒的に寺社より少ない。筆者が最近神社を片っ端から訪れて写真に撮っているのは、単にこのブログのネタのためと言ってよいが、それでも小中学校の遠足で訪れた神社が影響しているとは多少は思う。義務教育で経験することはその後の人生をかなりの部分で決定づけると言えば反論する人も多いと思うが、子どもの頃の経験はけっこう一生を左右すると筆者は考える。最近あちこちの神社を回っているのは、これまで存在に気づきながら中に踏み込まなかった境内を改めて経験しておこうとの考えで、それは無料であるからでもある。寺は拝観料が必要なのに、神社はなぜか無料だ。それで神社は寺とは違って慎ましい雰囲気をモットーとするのかと思ってもみるが、寺の場合は拝観出来ないところも少なくない。そうそう、梅津には長福寺がある。そこは拝観禁止のはずで、筆者はその境内を知らない。そのすぐ近くに住んでいたことがあるし、今でもそのすぐ近くをしばしば通るのに、本堂の高い屋根が塀越しに見えるだけで、門の位置も知らない。たぶんあそこかと思うところがあるが、いつも閉まっていてまるで刑務所のような陰鬱さが遠目にも感じられる。不思議なのは、境内はかなり大きいようであるから、経営が大変と思うが、観光客に見せる文化財に乏しく、また檀家との関係で見知らぬ人にやって来てもらうのは迷惑なのだろう。そこが神社とはどうも違うように感じる。
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寺は墓地があるのがだいたい普通で、それが重要な収入源になっているだろうが、墓は個人のものであるから、観光客があまり騒がしくやって来ることは、墓を持っている人たちは気分がよくない。寺と神社の大きな違いはその墓の有無で、神社はそれがないから寺のように経済状態には恵まれないだろう。神社になぜ墓がないかだが、これは穢れの考えによる。死体は腐敗して菌を撒き散らすから、今のように死体を焼くのならいいが、土葬の時代では忌み嫌われる。そこで仏教では死者を成仏させるとして、墓地を境内の一画に用意したが、そうなると死者の遺族は墓参りをし、そのたびに寺にいくばくかの金を支払い、神社とは違って経済的に困らない仕組みが得られたのだろう。話を戻して、神社の境内を訪れることが無料であるのは、寺ほどに見るべきものが乏しいからというではない、昨日書いた吉備津神社の本殿は国宝で、それが無料で間近で見られるというのは何とも贅沢な気分でありがたい。また先ほどホームページを見ると、毎月1日は朝の6時から8時だったか、その本堂の中に入ることが出来るらしい。ひとり300円を支払うが、それで国宝の中を経験出来るのであれば安いものだ。神社の収入源は、結婚式とは七五三、あるいは厄払いをしてもらうなどの加持祈祷だが、これは寺でも行なうから、神社はどのようにして維持管理が出来るのか不思議に思ってしまう。賽銭は商売繁盛の神でない限り、そう多くは集まらないだろう。国宝があるからといって国がその補修のための費用を全額出してくれるかと言えば、そんなことはないはずで、吉備津神社の本殿はどのように修繕をしているのかと思う。さて、本殿の奥へとさらに丘を上って行くと、今日載せる写真の一童社がある。建物は本殿を見た後では何とも貧弱で美しくもない。最初の写真のように、社の前に絵馬を吊り下げる設備がある。3枚目の写真からその全体がわかるが、学芸会のために学生が造るような道具の安っぽさで、背後の国宝の本殿とはまるで似合わない。だが、たくさん訪れる人がいて、絵馬の売れ行きを見てこれほどの大きなものが必要になって来たのだろう。絵馬は2,3種類の絵柄があって、最初の写真にあるように、桃太郎の顔を大きく描いたものがなかなかよい。一童社は国学者がお詣りするなど歴史のあるものだそうだが、昔の社はもっと形が違ったのではないか。鳥居がないのが不思議だが、その理由はわからない。社の向かって左に小さな赤いものがいくつか見えている。これは訪れた人が持参した張り子の達磨で、なぜそれが持って来られるのかもわからない。やって来る人はみな受験がうまく行きますようにとの願いのためで、天神さんと同じ御利益がある。達磨はたぶん入試に受かった時にもう片方の目を入れ、両眼揃ったものを持って来るのではないか。菅原道真を祀るのであれば、天神さんの土人形という気がするが、日本各地にあるその土人形は、試験に受かれば神社に納めるというものではなく、子どもが賢く育ちますようにと願う親心による一種のお守りで、家に飾っておくものだ。絵馬の桃太郎の絵柄は吉備津神社内の社であるので当然だが、桃太郎は知恵によって鬼退治をしたのであるから、天神さんと同じように学問に関係しているというのだろう。最初の写真には鬼の上に跨る桃太郎を描く絵馬も見えているが、天神さんとは違って力も勇気もあるということで、童はみな桃太郎のように育ってほしいとの思いだ。3枚目の写真の絵馬飾りには「明るい門出、勝利はわが手に! 栄光への旅立ち!」と大きく書かれ、受験だけではなく、入社する人もお詣りするのだろう。社との間に枯山水の島らしきものがあって、そこに短い石橋が架かっている。島を取り囲む茶色の杭はコンクリート製と思うが、この島はなくてもいいものではないか。あるいは社は石橋の向こうにある神の領域で、石橋が鳥居の代わりをしているのかもしれない。絵馬飾りは20年も持たないと思えるが、老朽化すればまた別のデザインで造るだろう。
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by uuuzen | 2015-09-21 23:59 | ●神社の造形
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