杼の形をした大きな石像が祠の前の両脇にあって、これはすぐに織物に関する神を祀るとわかったが、さすが西陣織の地元にある神社らしい。織姫社と呼ぶ。

今日の最初の写真はその正面を向いて撮っただが、向かって左の杼は樹木の枝に半分隠れ、これは手入れが行き届いていない。その杼形の石像は赤茶色の石で、まだ新しいもののようだが、設置場所からして燈籠かもしれない。2.5メートルほどの高さがあるのではないだろうか。ミサイルか大砲の弾に見え、その一種異様とも言える威容に、祠の前に近づくことが憚られた。祠もまた扉の金具が金色に輝き、たぶん西陣織の業者が寄進したものと思うが、太秦の
蚕の社にある養蚕の神を祀る社に比べるとはるかに豪華で、西陣織の業者がわざわざ太秦に詣でることがない現実がわかる。今宮神社は本殿の東側に多くの小さな社があって、たぶん10以上だろう。これはいつかまとめて写真を載せるつもりでいるが、たくさんの神をまとめて祀った長屋的社があって、今宮神社のそれは8つ社が一体化している。筆者はこの連棟の社を見るのが好きで、それは多くの神様が平等で仲よく並ぶからだ。狭い日本の合理的な考えで、そういう複合社がいつ頃から出現したのか知らないが、日本の文化住宅はそれを真似したものだろう。もっともそれ以前に江戸時代やそれ以前は庶民は長屋に住んでいた。その方が建物も頑丈で、地震に強かったからでもあるだろう。長屋的社はお詣りする人がどれか迷って困るという欠点があるが、熱心にお詣りする人があるのだろうか。今宮神社ではだれもがまずは本殿を拝むが、ずらりと並ぶ小さな社は賑やかなことと思う程度で、また本殿に祀られる神様の部下のような感じもあるが、たくさんの神を同じ場所にまとめて祀ることに、和を以って尊しとなすの精神がある。今宮神社の起源は八坂神社と同じく、疫病が流行ったからで、京都は狭い盆地に多くの人が住み、上下水道のない時代は衛生状態がきわめて悪く、夏になると疫病はよく流行ったのだろう。創建は紀元1000年頃で、それほど古くないが、それを言えば建勲神社はもっとそうだ。そうなると昭和や平成になってから新しい神社が出来たかどうかが気になるが、そういう話は聞かない。ということはもう神社の時代ではないということになりそうだが、正月の初詣の盛況ぶりを見ると、今後も有名な神社は経営は問題なさそうだ。今宮神社は氏子の範囲がかなり大きいようで、また楼門の立派さを見れば、廃れることはまずないだろう。だが、神社が廃れて行くことがあるかどうかとなると、ないとは言い切れないのではないか。廃仏棄釈によって仏教はほんの一時期危機に陥ったが、その反対の廃神があるかとなると、国が続く限りはあり得ないだろう。国が貧しくなっても、神社はもともと質素なたたずまいで、経済力に応じた社を建てればいい。疲弊していた熱田神宮を見かねて信長は援助したというし、金がなければないでやって行くというのは神社も寺も一般家庭も同じことだ。それはそうと、今宮神社、八坂神社、松尾大社のように、氏子の範囲がとても大きな神社は今では広域避難場所にも使えそうなほどの広い境内を持ち、大きな寺と同じように筆者が不思議に思わないでも経営は成り立っているが、この2か月ほどの間、ほぼ毎日神社を取り上げながら思うことは、小さな神社であってもそれは神社であって大きな神社とは変わらないということだ。それで境内の大きさの大小に関係なく、1日でひとつの神社と決めているが、今日は昨日に続いて今宮神社の境内の写真を載せるので、内心あまり気持ちはよくない。そこで思うのは、前述した部下云々だ。神戸の生田神社もそうであったが、大きな神社の中には末社、摂社がある。それらは本殿に祀られる神とは関係がないので、部下とみなすのは間違いだろう。したがって、同じ今宮神社の境内であっても、それぞれの社を撮影すると、その個々の神社を今宮神社そのものと同じように、このブログでは1日を費やすことが出来るが、末や摂がつくと、どうしても副の印象が先立ち、それで部下かという思いもする。だが、今宮神社のたくさんの小さな社は末や摂ばかりではないだろう。たとえば織姫社だが、これの本社はあるのだろうか。そう考えると日本の神はあまりに種類が多く、その関係など、よほどの神社マニアでなければわけがわからない。ともかく、織姫社は京都らしく、それで今宮神社の中にあるが、個別に取り上げることにした。

さて今日の2枚目は祠は樹木に隠れてほとんど見えないが、それは真横から撮ったからでもある。木製の朱塗りの燈籠や玉垣がやけに目立ち、境内でもよく目を引く。こういう神社はだいたい稲荷社だが、何と織田稲荷社と言い、織田信長を祀る。信長と稲荷とどういう関係かと思うが、正しくはこの社は稲荷社と織田稲荷社がふたつあって、前者は伏見稲荷と同じ神を祀るので末社となるが、後者は西陣の信長の墓所の阿弥陀寺外が移転した後の土地にあったものを、30年ほど前に現在のところに移したとのことだ。小さな社はこのように引っ越しがたまにある。その転々とする間に廃絶になるものもあるかもしれないが、そこはこの今宮神社のような大きな神社の片隅に組み込んでもらうということで対処しているのだろう。行き場のなくなった神様を捨ててしまうことは罰当たりなことで、移転してでも祀ろうというのはなかなか見上げたことだ。だがそれもお詣りする人があってのことではないか。信長の墓所があった寺が移転したというのも、珍しいことかと言えばそうではない。寺の移転はけっこうあるようで、そのいい例は岡崎の京都会館付近にあったたしか勝の字がつく6つの寺だ。それが全部移転した。四条大宮交差点の西北にあったいくつかの寺も昭和30年代以降に移転したし、神社と同じように小さな寺は区画整理で簡単に移動させられる。また寺に神社があることは珍しくないが、寺の移転後にその神社も持って行けばいいようなものの、今では寺は神社の面倒をよほどのことがない限り見ないだろう。それは地元住民が祠の世話をするなど、まめに動いて神社を荒れた状態にしないことがまず条件で、そうでない場合は寺としても土地を占有されるだけで迷惑だろう。それで寺が移転した後、神社は取り残され、やがてその世話をする人もいなくなれば、移転先を考える必要が出て来る。織田稲荷社の場合、もともと西陣にあったから、その地域を氏子に抱える今宮神社に移設しようということに話が決まったはずだ。それにしてもこのふたつの社のある区画は朱色がよく目立ち、境内によい風情を与えている。写真を社の横から撮ったのは、桂昌院のえらく若い顔を彫ったレリーフがあったからだ。なぜそんなものがあるのかと調べると、桂昌院はこの神社の近くで生まれたらしい。親の出自には諸説あって、身分が低かったのではないかとの意見が多そうだが、その中で西陣織をしていた家の娘というのがある。地元としては歴史を飾る有名人を輩出したというその摂は大歓迎で、それでレリーフを造って歴史好きの観光客を喜ばせようとしたのではないか。ま、どのような生まれであっても、この付近であることは確かなようで、それだけでも境内に記念碑を設置することに反対する人はいないだろう。3枚目の写真は楼門を向きつつ、足元の縄で区切られた白砂を敷き詰めた箇所が何かと思って撮った。そのほかに収めたかったのは狛犬の台座を支える4体の邪鬼だ。小さなものだがそれが獅子とその台座を支えているのであるから、力学的に計算された造形だ。この獅子が向く先にある石燈籠と楼門の間に小さく男性が写っている。実はその姿を収めるためにシャッター・チャンスを待った。この男性は70代後半だろう。ノートルダムの鐘突き男のように、境内を掃除する人だ。筆者をかなり不機嫌そうに半ば睨みながらせわしなくあちこちを箒で掃くなどしていたが、こういう老人はおそらくどの神社にもいる。また必要だ。いつもきれいに掃き清められている境内を訪れる人はあたり前に思っているが、実際は目立たない人が毎日その作業に従事している。高齢者は暇であるからちょうどいいし、また掃除は気分がよいし運動にもなる。それに高齢になると、信心深くなる場合が多いのではないか。『境内を汚す者はわしが承知せんぞ!』。そのような空気がその老人から発散し続けていた。