人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●当分の間、去年の空白日に投稿します。最新の投稿は右欄メニュー最上部「最新投稿を表示する」かここをクリックしてください。

●神社の造形―建勲神社
られているのは戦に関係のある神様かとずっと思って来た。それが境内に入って織田信長を祀ると知って驚いた。いかに筆者が無知であるかを思い知ったが、それほど神社に関心がないということでもある。



●神社の造形―建勲神社_d0053294_1563847.jpg

それにしても不思議な気がする。8月28日に名古屋に行き、帰りの電車の窓から岐阜駅前の織田信長の金色の像を見て、何となく信長に思いを馳せた。京都では本能寺に墓があるが、そのほかにも各地に墓としてよいものがある。それだけ人気があった武将ということだが、京都の文化博物館の庭には信長が礎石に使った石仏がたくさん並べられていて、仏を恐れなかった様子がわかる。仏教嫌いであったのは、それまであまりにも仏教が力を持っていたからだ。権力を志向する者は同類を排斥する。信長が石山本願寺つまり現在の大阪城がある高台の土地にあった寺を攻撃したのは有名だが、難攻不落で、信長は武力では勝ち取ることが出来なかった。それはともかく、信長が仏教に対して無茶をしたように思うのは、当時の仏教の勢力を知らないからであろう。石山本願寺の浄土真宗は今でも巨大な組織だが、明治時代は日本が戦争するために軍艦その他の費用が乏しい時に、それを援助したのが新宗で、その代わりに政府にキリスト教を日本に広めないように約束を取りつけた。金は天下の回り物なので何がどうつながって事が起こるとは簡単には言えないが、日清日露を戦えたのは、新宗が出した金の力で、これを傍目に見ると、仏教が戦争に加担したことになる。ま、それはいいとして、信長が弾圧した程度で仏教は廃れなかった。相変わらず生臭い坊主はなくならず、江戸末期にはそれが頂点に達していたのではないか。新宗でなくても僧は結婚出来るようになり、そのことが堕落につながったと言えばこれも無茶な意見かもしれないが、信長ならどう言ったことか。命を張っている武士ならわかるが、僧侶が普通の人と同じように金儲けに走り、女も抱いて煩悩にまみれるとなると、これはあまりに自分に甘い態度と見られても仕方がない。信長はそういう仏教の腐敗も我慢ならなかったのだろう。では神社に対してはそうではなかったかと言えば、熱田神宮では壁を寄進しているから、仏教ほどには嫌っていなかったのだろう。それに神社は元来素っ気ないもので、清貧の言葉が似合う。そういう存在であるから、神社は寺に飲み込まれたような形になって生き長らえて来たところがある。それが明治の廃仏棄釈でがらりと様子が変わるが、それも一時の嵐で、すぐに寺は息を吹き返す。それはさておき、船岡山にある建勲神社は明治天皇が命じて信長を祀ったもので、なぜ明治天皇がそうしたかと言えば、信長のファンであったということになるが、なぜファンであったかは、やはり信長が仏教を弾圧し、神社を大事にしたからかと勝手なことを考える。明治天皇は神様として持ち上げられたが、そうなると後で入って来た仏教に関してはあまり快く思っていなかったのかもしれない。だが、まさか信長のように仏教を懲らしめるという態度を取ることは出来ない。明治天皇は京都から東京に移住するが、そこで思ったのは家康の威力ではなかったか。京都や大阪にいてはあまりわからないが、東京では日光東照宮が観光地として人気があるだろう。筆者は20年ほど前に東照宮を訪れたが、今でもTVではよく東照宮が映り、その人気ぶりには瞠目する。家康が神様としてあれほど盛大に祀られているのに、信長はどうか。秀吉は豊国神社があるが、没後すぐに出来たものがそのまま続いているかと筆者は思っていたが、家康の考えで廃絶され、朽ち果てるままにされたという。それを見かねた明治天皇がまた復活させたもので、建勲神社とは京都の上と下とで対になっている感がある。これが船岡山に秀吉、南に信長では、信長の霊は怒るだろう。そこはうまくしたもので、信長の方が高台にあって京都市内を見下ろしている。それはともかく、建勲神社の写真を今日は3枚載せるが、2枚目は拝殿から本殿を真正面に見ている。同じ場所から180度振り向いて撮ったのが3枚目で、右奥の出入り口に立って本殿を向いたのが最初の写真だ。筆者が訪れた時は人影が見えず、いかにも霊的な場所という感じがした。人生50年云々と彫った石碑があり、これは信長が舞った時の歌らしいが、実際は50前に死んだ。だいたい大きな仕事をする人は早死にで、長生きしたので素晴らしい業績を残したという話はあまり聞かない。もちろん高名な人で80代、90代で死ぬことは多いが、その人らしい仕事はだいたい40代か50代で成し遂げている。
●神社の造形―建勲神社_d0053294_1565797.jpg

 それはいいとして、昨日取り上げたふたつの社は建勲神社が明治に出来る以前からあったもので、また当初の建勲神社は麓にあって、35年後の明治43年に山頂に移したと同神社のホームページに書いてある。その麓にあったという場所がどこかだが、昨日載せた最初の大鳥居の奥の左手当たりでは土地が狭いので、もう少し上か。その頃の写真は絵はがきになっているだろう。さて、写真を撮ってから北大路通りに出るつもりが、同じ道を引き返すのは嫌で、3枚目の写真で言えば右端中央ほどのところにある石段を下がった。下り切ると舗装されない山道で、右手は信長を祀る本殿の方向で、まるで山道の鬱蒼とした雰囲気が漂い、そこに踏み込むことは憚られた。たぶんずっと先では行き止まりになっているのではないか。人を拒むようなそういう雰囲気があった。写真を撮っておこうかという気にさせたが、目に焼きつけるだけでよいと思い直した。写真を撮れば霊が映るような気がしたからでもある。また、愛宕山や比叡山ではならわかるが、市内の小高い丘にそのような山道があることがとても意外で、筆者が見た光景はたぶん1000年前と全く同じと言ってよい。では左手はどうかと言うと、そこはまだ先に道が続いていて、どこかにつながっている雰囲気があったが、どこに出るかわからない。それよりも確実に地上に下り立てる方がよい。そこで長くて急な、そして幅の広い石段を下り立ったその場所から少し左手に行ったところにあるさらに下に向かう石段を下りた。そこから100メートルほど真っ直ぐ歩き、四辻に出た。どう歩けばいいかわからないが、どちらに曲がればいいかと迷った時はたいてい筆者は右を選ぶ。これは手の右利きと関係があるだろう。右に折れると少し上り坂の道路で、それがどこへ向かっているのかわからない。300メートルは歩いたか。するとバスが走っているのが見えた。北大路通りに出ようと思ったのに、歩いたのは鞍馬口通りで、バス停で言えば5つも逆戻りしてしまった。石段を下り切った時にも四辻があったが、とても狭い道で、その左右をどちらに向かっても行き止まりになるような気がしたが、実際はそうではなく、船岡山の麓の形状に沿った道があって、それを右に進むと、鞍馬口通りを歩くよりも千本通りをかなり北側に出られた。ま、こういうことは後で地図を見てわかったことで、初めて歩く道は不安でまた迷うものだ。船岡山に小さな美術館や博物館があればもっと人が訪れて明るい雰囲気になると思うが、現状はどこか陰鬱で、なるべくなら近寄りたくない気がする。これはそれだけ自然が保たれていることでもあって、その意味では貴重な場所だろう。外国人観光客が押し寄せている京都だが、船岡山は見るべきものがない、また何かおいしいものを食べさせる店があるということもないとして、ガイドブックにはほとんど紹介されていないのではないか。そういう京都もあるというところが京都の奥深さで、観光客に溢れ返る場所は何となく薄っぺらい気がする。きっと観光客もそのように思っているのではないか。
●神社の造形―建勲神社_d0053294_1571031.jpg

by uuuzen | 2015-09-15 23:59 | ●神社の造形
●神社の造形―義照稲荷神社、稲... >> << ●嵐山駅前の変化、その378(...

 最新投稿を表示する
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2025 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?