刑は形に形が似ているが、「つくり」の形は鳥居にそっくりだ。手元の『漢字の語源』を繙くと、鳥居とは関係がないことがわかる。ではどういう形が元になっているかと言えば、説明がややこしい。

篆文は「井」の形だが、井戸の井ではない。またもうひとつ篆文があって、「干」をふたつ隙間を開けて横に並べた形で、ともかく鳥居とは関係がない。中国に鳥居がないのでそれは当然だ。それはさておき、神社には鳥居がつきもので、寺よりわかりやすい。鳥居をくぐって境内に入らずとも、そこに特別の場所があるという目印になって便利だ。韓国では十字架の赤いネオンが高いところで光っているが、そこにキリスト教の教会があることを夜間でも遠目に知らせる。神社は教会のように大勢の人が日曜日ごとに集ることはないし、また夜は人が出入りしないので、電気の時代になっても韓国のキリスト教の教会のように鳥居型の赤いネオンを空高くに掲げる必要はない。そう考えると、神社は奥床しいか。ヨーロッパではキリスト教の教会は町の中で最も高い尖塔となって人々の生活の中心を占めて来たが、神社は今では高層マンションに見下ろされ、日本の神がキリストとはいかに違うかを思う。卑近と言うのは当たっていないかもしれないが、あまりに神の種類が多く、人々にとってはあってもなくても同じ、つまり普段はほとんど意識しない存在になっている。神棚のある家は別かもしれないが、あってもそれはだいたい仏壇より目立たない。それは造形的に面白いものが少ないからではないか。鳥居のほかに神社を特徴づけるものが何かと言えば、最も大事なものは御神体だが、それはたいていは見せないもので、昨日触れた奈良の三輪神社では三輪山が御神体で、鳥居からそれを拝むが、となるとどの神社も共通している造形は鳥居のみということになって、その鳥居は通りに面しているから、人々はたとえばマクドナルドのMのロゴマークのように、普段神社に気づきながらも意識に留めない。まだコンビニやスーパーの方が賑わうし、生活に密着しているが、だからと言って神社が全部なくなっていいというものではない。普段必要のないものはどんどん捨てるべしという整理整頓術を言う人があるが、どんなものでもそう簡単に割り切れるものではない。普段は必要はないが、ごくたまに必要になるものは大切で、そういうものはだいたい高価で、そういうものを持っていることによって自分は特別と感じることが出来る。そういうものは社会的にも必要で、それが図書館や大学といったものと考える人が今は多いだろうが、より古い歴史を持っているものとなると、寺社になる。それはさておき、名古屋市内の神社、今日は昔から気になっていた若宮大通りの名前の元になった若宮の社だ。若宮大通りは幅が100メートルあるとされる。それほど広い道路は京都にはない。大阪の御堂筋ももっと狭いのではないか。名古屋市内はこの大通りによって隔てられる街区がそれぞれ個性的であるのだろうか。筆者はそこまで知るほどに大通りを挟んだ東西南北を隈なく歩いたことがない。だが、今回の名古屋行きでは矢場町の交差点の南西の大須商店街のある街区はかなり縦横に歩いた。とはいえ、次に名古屋を訪れた時に南東の街区を歩くかと言えばたぶんそうしない。商店街好きな筆者はどうしても繁華なところに足を向ける。それで今回は熱田神宮を見た後は、若宮大通りの「若宮」を訪れることにし、ネットで地図を調べて印刷しておいた。それは大須商店街でマップをもらったので、ほとんど見ずに済んだが、どの道をどのように歩けば最短距離になるかの目安はつけられた。昨日書いた三輪神社を見た後、少し北上して若宮大通りに出て、信号をわたって西に向かった。その道を歩くには初めてだ。その先の右手には名古屋市美術館があって、たぶん10回は訪れているが、そのうち半分ほどは車に乗せてもらい、もう半分は地下鉄の大須観音駅で下りて北上していた。若宮の社を地図で調べた時、もっと遠くにあると思っていたのが案外便利なところに位置していることが意外であった。また、市美術館の東にあることも意外で、美術館に何度も訪れているのに、神社には全く気づかなかった。それほど筆者にとって神社はどうでもいい存在であったということだ。そのことを反省するというのではないが、今後はその土地の最も古くからある神社にはなるべく訪れるようにしたい。さて、若宮の社は「若宮神社」という名称かと思っていたが、「若宮八幡社」だ。八幡と言えば、京都八幡の石清水八幡宮が何年も前から気になりながら訪れていない。家内の姪がその神社が大好きで、毎年初詣に行っている。八幡の背割り桜は有名で、それは数年前に見に行ったが、山の上にある石清水八幡宮はケーブル・カーに乗るなど、嵐山からは多少不便な方向にあり、行くとなれば筆者が好きなついでは無理で、丸1日を費やす必要がある。話を戻して、八幡宮と言えば太秦の八幡菩薩を先日取り上げたが、武運の神様とされる。大分に昔行った時、宇佐神宮に車で連れて行ってもらったが、それが総本社らしい。もっとじっくり見ておけばよかったが、あまり印象に残っていない。名古屋の若宮八幡社は若宮大通りに面して境内は大きい。最初の写真は若宮大通りの歩道から中に入って撮ったものだが、歩道際から社までは50メートルはある。また写真の本殿の左手には大きな鉄筋コンクリートの八幡会館があって、昔の境内はもっと広々としていたであろう。どの神社でもそうだが、境内の一部を駐車場にしたり、また切り売りしたりして民家が建つなど、経営が難しい。そう言えば先日のTVで京都の下鴨神社が、式年遷宮の費用が足りず、糺の森の一部にマンションが建つと言っていた。世界遺産の下鴨神社でそうなのであるから、それ以外の神社では推して知るべしで、若宮八幡社が本殿より目立つ鉄筋コンクリートの会館があっても仕方がない。それはいいとして、本殿の左右は鬱蒼とした樹木が生い茂り、どことなく人を近づけない雰囲気があった。実際そのとおりで、筆者ら以外は誰も境内にいなかった。本殿正面に立って最初の写真を撮ると、足は自然と右奥に向かう。なぜなら左は会館のビルだ。本殿の右隣りに2枚目の恵比須神社があった。摂社や末社が多そうで、また2枚目の写真からは奥に赤い幟旗の列が見え、稲荷社もあるようだ。そしてそこに向かったことは明日書く。