迂回というのはおおげさだが、道を塞ぐ形で小さな社があるのでとても目立つ。今日取り上げるのは8月30日に家内と梅田に出かけ、東に向かって天神橋筋商店街まで歩く途中で見かけた龍王大神だ。

この神社を筆者が目の前でまともに見たのは5,6年前のことで、この社の東にある読売新聞社に京阪神では開催されない展覧会図録を買いに行った時のことだ。展覧会の会場に現金書留でお金を送っても買えたが、面倒くさい。電話すると大阪の読売新聞社のしかるべき場所でも買えるとのことで、それで早速出かけた。阪急電車で天六で下車し、それから南にひたすら歩いて目当ての建物に行ったが、先日家内と梅田に出かけた時、綱敷天神の次に龍王大神に行こうと考え、曾根崎通りに出てすぐ、神山交差点に出ると、南にその社が見えたのは当然だが、家内はその背後のスーパーを目に留めた。京都でも2,3軒あるライフというチェーン店で、梅田付近にはスーパーは珍しいから、早速そこを覗くことにしたが、筆者の記憶ではそこは読売新聞社関係の建物で、展覧会図録を買った建物があったから、ここ数年でスーパーが建ったことが意外であった。だが、記憶違いかもしれない。今も読売新聞社の建物はそのスーパーの裏手にあるし、ひょっとすればそこの1階で図録を買ったような気もする。還暦を越えた髪のうすい、眼鏡をかけた男性が応対してくれたが、国土地理院が販売する地図を入れるような大きな引き出しが並んだ収納箱の一番下の引き出しを引っ張り出すと、そこに読売新聞が主催する全国の展覧会の図録が1,2冊ずつ入っていた。目当ての図録を受け取ってすぐにその建物を出たので、記憶が曖昧になっているが、建物を出たところが龍王大神のすぐ近くであったことを覚えているので、やはりスーパーが建つ以前の建物ではなかったかと思う。それはともかく、スーパーが出来たのは喜ばしい。中に入ってみると、一瞬で西成の同じライフと雰囲気が一緒であることに気づいた。店内の構造が同じで、同じ商品を同じような場所に置いているからだろう。チェーン店はそういうものだ。ところが、西成店ではあった商品がなかった。家内もそれを思っていたらしく、結局違うものを買ったが、西成の店も今は品揃えが変わっているかもしれない。内事も半年も経てば変わる。神山交差点のライフは太融寺店というらしいが、その付近一帯は昔は太融寺の境内であった。それが核となる部分、つまり本堂を中心としたわずかな部分のみ残って、後はビルが建った。だが、昨日書いた綱敷天神のように、重要な施設はそのまま飛地として残すのが普通で、龍王大神もそれと同じで、元は太融寺の中にあったようだ。それでも現在の小さな社がなぜ残ったのかと誰しも不思議に思う。同じものが寺の境内の片隅にあってもあまり目立たないが、道を塞ぐ形であると、それだけで印象度が抜群に高まる。同じように道を塞ぐように残されている神社は日本中探せば多少はあるかもしれないが、大阪のような大都市ではきわめて珍しいだろう。そのため、スーパー・ライフにすればこの社が目印になってよい。このスーパーでも買ったものを食べられる休憩所があって、店内でコーヒーを買って家内とそこで一服したが、たくさん歩く場合はそうした休憩所はオアシスになる。猛暑の日であればなおさらだ。休憩室は建物の南端にあって、窓際で、そこから当日のデモの様子がよく見えた。ひっきりなしに行進が続き、休憩が終わって外に出てもまだ途切れない。それどころか、トラックに低音の響く大きなスピーカーを何個も載せて、若い男女がラップ的な掛け声で「アベは辞めろ、なめんなよ、ついでにハシモトも辞めろ」と連呼していた。迫力ある音だが、後ろに続く行列はおとなしい。デモとはいえ、60年代とは違って葬式の行列のようにしずしずとみんな歩く。警官に見守られている、あるいは監視されているためもあるが、ウーファの大型スピーカーでラップ風にシュプレヒコールをするトラック上の男女だけは異様に目立ち、また面白かった。みんながそれくらいの迫力を見せなければ、デモの効果は少ないのではないか。

龍王大神は北側に銀杏の大きな木がある。それがあることで神社らしいが、この木が道路拡幅の際に邪魔で切られようとしたところ、その作業に従事した人たちが不幸な目に遭ったらしい。それで社を残すことになったそうだが、太融寺境内には白龍大神が祀られているという。同じ神様は綱敷天神にもあったが、同天神社が太融寺と分離した時についでに持って来られたのか、あるいは後で持って来たのか、ともかく100メートルほどしか離れていないのに、白龍の社が南北にふたつある。では龍王はどうかと言えば、スーパー前にひとつで、三角関係のような形だ。というのは、白龍は女性、龍王は男性がお詣りするそうで、白龍と龍王は対になっているからだ。今調べると、綱敷天神の白龍の社は、白龍だけではなく、猿田彦の神も祀る。そのため、太融寺の白龍大神の社とは少し違うことになる。昨日書いたように、太融寺の前は何度か歩いたことがあるのに、境内には入ったことがない。そのため、先日はせっかくそのすぐ近くを歩きながら、その中の白龍大神の社を見ることがなかった。それが惜しいと言えばそうだが、昨日書いたように、筆者のデジカメの記憶媒体は20枚ほどしか撮影出来ない。そのため、当日は同寺を回っていれば、今日の写真を撮らなかったかもしれない。何しろ、天神橋筋商店街のスーパー玉出の前の空に上る満月の写真を撮るために梅田に出かけたようなもので、そのために最後は2枚分を残しておく必要があった。さて、龍王大神の祠をまじまじと見るのは初めてで、今日の2枚目は中に何がどのように飾れているかを確かめる際に撮った。銅製の小さな御幣が奥にあり、その手前には写真からもわかるように塩が盛られていた。たぶんプリンの小さなプラスティックの容器のようなものに塩を入れ、それを突き固めた後に取り出したものを逆さにしている。塩は清めには欠かせないものだが、縦断面が台形をしたこの塩の盛りは、白蛇がとぐろを巻いている様子の抽象化にも見えなくもない。毎日交換することはないと思うが、ガラス扉はよく磨かれていて、交通量のあるところなのに全体にとても清潔だ。神社であるので当然と言えばそれまでで、見守ってきれいに掃除する人があることを忘れてはならない。背後の御影石の玉垣はごく新しいものに見えたが、ひょっとずればスーパーが新たに建った時に新しくしたのかもしれない。それはそうと、昨日書いた綱敷天神が菅原道真時代は淀川沿いにあったのではないかとの考えだが、道真は福島で船を下りたらしい。ということは、現在の淀川より500メートルほど南を流れていたと思うが、あるいは道真は中之島の北側を流れる堂島川を下ったのかもしれない。道真時代に淀川がどのように流れていたのか、その痕跡を現在の大阪に見つけることは出来ると思うが、淀川河川事務所のホームページを見ると、昨日書いた明治時代の淀川下流の直線化以前の状態が簡単な図ながらわかる。それによると、現在の淀川の直線区間はもっと北に盛りあがった形、つまり現在の加島に食い込むように蛇行している。となると、道真が下ったのは現在の堂島川で、その福島付近で下船し、真東に2キロほど歩いて綱敷天神まで行ったことになる。またその途中にお初天神と呼ばれる露天神があるが、そこにも道真は立ち寄った。8月30日は同神社には行かなかったが、歯神社から南に迂回するのが面倒で、また梅田に出ればいつでもその付近は歩き、珍しくないと思ったからだ。江戸時代以前、淀川がどのように流れていたかは、現在の神社のある箇所を除外すればおおよそわかるのではないだろうか。あるいは川の流れを大幅に変える工事の際、邪魔になった神社を移設したことはあるだろうから、神社だけが昔から、そして今後も、同じ場所にあると考えてはならない。とはいえ、民家や店舗と比べると、同じ場所に同じようにある確率ははるかに高い。今日の3枚目はスーパー・ライフで休憩した後、その前で撮った。右端の緑は龍王大神の銀杏の木、奥には安保法案反対のデモの列だ。