瑕疵という難しい言葉は、思い出そうとして書いても瑕疵が生ずる。読めて意味がだいたいわかればよく、筆者は平気で間違った漢字の使い方をよくしている。誰も注意してくれないから、死ぬまで恥をかいていることを知らない。

人間とはどういうものだ。そう開き直るから、なかなか自分がしでかす瑕疵にいつまでも気づかない。そういう時、旅に出るといいかもしれない。自分を振り返ることが出来やすい。それが無理なら、そういう人とたまに話をすることだ。昨日に続いて今日は先週金曜日に東京からやって来た家内の昔からの友人Mさんと嵯峨を訪れた時に撮った写真を使うが、筆者も昔からMさんとは話し慣れているので、どんなことでも気安く話題に載せられる。あまりここで書くのはよくないが、Mさんが東京に住むようになったのはここ数年で、以前はずっと大分にいた。種々の事情で今は練馬にいるが、それもいつまでかわからない。京都に憧れがあるならば、いっそ京都に住めばいいと思うが、そうであればわが家のすぐ近くでもいいから、空家があれば教えてあげようかとも思っている。それはともかく、Mさんの近況を聞くと、同じように歳を取りながら、生活に変化が激しい人もあれば、筆者のようにさほどでもない者もいて、筆者は自分の経験の浅さと視野の狭さを痛感する。しないでもいい苦労はしない方がいいが、苦労を苦労とも思わない性格なら、いろんな経験を多くした方が得だ。これは先ほど地蔵盆の後の世話をしてくれた人たちのねぎらいの会で聞いたYさんから聞いた話だが、Yさんは筆者がガレージを月極めで貸している女性で、驚くべき変化に富む経験をして来ていて、筆者の10倍くらい密度の濃い人生だ。それは海外へ行くことが多いからと言えるが、その想像を絶する行動範囲の大きさと出会う人の数の多さは、自然とYさんの雰囲気に深い陰影を与えている。そして、Yさんと話をしていると、自分の小さな悩みが恥ずかしくなるように感じるが、それは前述したように、旅する人と話すだけでも自分を振り返ることが出来ることの実例だ。筆者は旅どころか、散歩も最近はあまりしないので、このブログが示すように話題の範囲が狭く乏しい。それでもこう思うことにした。先日書いたように、あまりの暑さで3階の仕事場を1階に移した。そうしてこれもそこで書いているが、同じ家の中でも部屋を変えるだけで気分が違う。となれば、もっと離れた別宅でもあれば、それはちょっとした旅気分になって、いつもとは違う気分になって自分を見つめられるかもしれない。先日の金曜日はMさん、家内との3人で嵯峨を回って渡月橋に戻った時、数か月前に出来た渡月橋南詰めの上流側にある喫茶店に入った。家内はそこは三度目だが、筆者は初めてだ。コーヒーが400円だと思う。その味はタリーズやコンビニ並みだが、横長の大きな、つまりパノラマの窓から見える渡月橋から北の景色が面白い。観光客の姿ばかりが目立つが、それも風情と思えばよい。その窓辺の席にパソコンを置いて文章を書くことが出来れば、別宅で書くよりもっと面白いことが脳裏に湧くかもしれない。また、そういうことはスマホやノート・パソコンがあれば出来るから、実際にそうしている人は少なくない。筆者はデスクトップのパソコンしか持っていないので、そういう喫茶店で文章を書くことは、夢想するだけに終わる。それでもその喫茶店に初めて入ったことで、その想像は現実感を持ち、そのことを思い出しながらこれを書いていると、その喫茶店で書いている気分になって来る。つまり、旅の効用だ。人間は同じ場所に留まることが出来ないが、そうであれば積極的に場所を変え、自分を見つめ、思考の方法も変えるべきだ。今日の写真にこじつけると、神様もそのようなことをしていると見える。

渡月橋北詰めの2,30メートル上流に、朱塗りの玉垣がある。渡月橋の下流側の歩道を南から北へ歩いていると、斜め前にそれがよく目立つ。車折神社の頓宮だ。これは普段は閉じたままになっていて、5月の三船祭りの時だけ車折神社から神様がやって来る。祭りを見物するために一時的に住まう神社で、神様も年に一度は旅をして気分を晴らすということだ。三船祭りは渡月橋上流に飾り立てた船を浮かべて、そこから平安貴族の衣装に身を包んだ男女が扇を川に投げ入れる。それを川岸の観光客は拾うが、ちゃちな扇ではなく、金銀を使った本格的なものだ。とはいえ、筆者は二度しかその祭りを見たことがない。毎年その日は電車やバスに乗ってほかの場所に行楽に訪れる。三船祭りは西京区側でも充分に見ることは出来るが、右京区のものだ。その思いが筆者をそうさせると言ってもよい。そうであっても、たとえばMさんのように遠方から客があると、嵯峨を巡るから、西京区側にはほとんど何も見るものがないと思っている。やや遠くに足を延ばせば苔寺や桂離宮があるが、予約制だ。それはともかく、Mさんと家内を20メートルほど後方にしたがえながら、昨日書いた毘沙門天を見かけ、その境内に入って写真を撮っていると、ふたりは筆者を残して先に行ってしまった。すぐに追いついたが、今日の2枚目の写真を撮っているとまた追い越された。これは写真の右下の石碑からわかるように、「愛宕野々宮両御旅所」だ。筆者はこの境内の中に入ったことがない。清凉寺の門まで徒歩1分といったところの西側にあり、広々としている。子どもたちが公園代わりに遊んでいる姿をよく見かけるが、それがいかにも昔から変わらぬ里の光景のようでいい。大きな朱塗りの鳥居の奥に拝殿か舞殿のような建物がひとつあるだけで、御旅所ではそれで充分なのだろう。お祭りの間、神様がこの境内に留まるので、頓宮と同じだ。このように大きな御旅所は珍しいと思うが、伏見稲荷大社の御旅所が京都駅の八条口から近いところにあり、それもかなり面積は大きい。「愛宕野々宮両御旅所」というのは、両方の神社の御旅所を兼ねているとの意味だが、それぞれのお祭りがあるのではなく、5月の嵯峨祭りでふたつの神社からの神輿は横並びに据えられる。また、この嵯峨祭りは筆者は見たことがないが、「風風の湯」のサウナ室でよく話をするOさんによれば、大覚寺へ自治会長は挨拶に行き、祭りに必要な竹はその境内で切らせてもらうらしい。つまり、嵯峨祭りは大覚寺の祭りのようなものであるらしい。その経緯の詳細は知らないが、それほど嵯峨では大覚寺は大きい。それに比べると愛宕神社も野々宮神社もごく小さく、祭りの実際の運営は地元の自治連合会がやるが、儀式としてのもろもろは大覚寺が実質的に力を持つのだろう。嵯峨祭りの時にはわが自治会では氏神の松尾大社での還幸祭があり、それで筆者が嵯峨祭りを見ようと思えば、自治会の役を下りる必要があるだろう。また、嵯峨祭りの規模と風格は松尾大社のそれを圧倒するものがあると聞いていて、そのことは「愛宕野々宮両御旅所」を見てもわかる。ただし、わが自治連合会が松尾大社の還幸祭に参加するのは、地元の子どもたちの小さな神輿のみで、大人が担ぐ6基の神輿の巡行はそれとは全くの別物で、嵯峨祭りに劣らない規模がある。そう言えばOさんは嵯峨祭りで神輿の担ぎ手はネットを利用して全国から募り、九州や東北から祭り好きが駆けつけると言っていた。松尾の還幸祭も同じようなもので、地元の祭りであっても、実質はよそ者の手助けが必要になっている。3枚目の写真は野々宮神社と愛宕神社の神輿が並ぶ様子で、嵯峨祭りの際に「愛宕野々宮両御旅所」で見られる光景だ。2枚目の写真は拝殿の隣りに白いテントがあって、大人と子どもが集まっている。これは地蔵盆の最中かその準備ではないか。そうでなくても、筆者のブログはもともと瑕疵だらけと開き直っておこう。