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毘沙門天」の石碑より先に朱塗りの鳥居が目に入る。稲荷神社だ。先日投稿した個人の社かと一瞬思うが、新丸太町通りの西端にある目立つ場所で、児童公園のような趣がある。

ここしばらくは「神社の造形」と題して投稿しているので、鳥居を見かけると気になる。そしてカメラを持っていると何か特徴的なものがあるかと境内に入ってみる。昨日は午後1時に家内の中学生時代からの友人Mさんがやって来た。東京在住で、半年に一度は実家のある高槻を訪れ、時間があれば家内に電話をかけて来る。筆者も昔からよく知っているので、一緒に嵯峨を散策することにしたが、どこへ行くかはお任せで、筆者はどうせならと、鳥居本の奥の愛宕念仏寺の石仏を見に行こうと思った。そこは昔から気になりながら、まだ拝観する機会がない。わが家からは往復2時間かかるが、3人ともその時間も体力もある。結果を先に言えば、清凉寺から二尊院に回って渡月橋に戻って来た。空が怪しくなって来たことと、Mさんはネットで知った天龍寺の少し北にある和菓子店で菓子を買ったためだ。それは生もので、賞味期限は冷蔵庫に入れて3日だ。筆者は数年前にお土産で数個もらって食べたことがあるが、それは7月中旬に製造が終わり、今は甘夏ではなくグレープフルーツで代用したものが売られている。だが、甘夏を使ったものよりおいしいとの店員の説明であった。ともかく、Mさんはそれを買い、閉店の5時まで置いてもらうことにした。それが2時少し過ぎのことだ。そこから愛宕念仏寺まで1時間はかからない。それで充分にそこに行って5時までに店に帰って来られると思い、家内とMさんには同寺に行くとは言わずに、北に向かってまた歩き始めた。観光客が多いのはいつものことだが、竹林に向かう道を過ぎると、激減する。5時までに戻るとなると、なるべく早く歩いた方がいい。それで筆者はふたりより20メートルほど先を歩いた。JRの線路を越えてもまだバスが筆者らの右手を走るが、線路から100メートルほどで新丸太町通りの西端で、車やバスの大半は右に曲がってその道に入る。筆者らはそれを越えてさらに北へ進むが、新丸太町通りをわたると、正面に清凉寺の大きな門が見え、またその門前の参道は高層の建物がなく、とても風情がある。つまり、渡月橋から北に向かうと、JRの線路を越えて100メートルまでは商店街と言ってよく、歴史的な重みを感じさせない。もっとも、天龍寺前辺りはそうではないが、観光客の多さがまるで大都市の繁華街並みで、清凉寺の門前とは鄙びた味わいに雲泥の差がある。せっかく京都のよさを味わいに来たMさんであるから、どこでも変わらない観光客の多さの雰囲気をなるべく味わわせたくはない。それで筆者は先のMさんが和菓子屋で買った後はやや速足になって、新丸太町通りまで急いだ。線路をわたってから100メートルの道は、バスや車が来ると歩行者はそれを避けるためにかなり気を使うが、そのこともやや速足になった理由だ。新丸太町通りが目の前に見えた時、左手に朱色の鳥居が見えた。そこにそれがあることは昔から気づいているが、それ以上の関心は起こらなかった。それが最近の神社の写真の投稿によって、初めて境内に踏み込む決心をさせた。

玉垣で囲われた角地で、入ってすぐ右手に「開運毘沙門天」と彫った石碑がある。正面突き当りは鉄筋コンクリート造りの小さな御堂で、もっと手前の左手に朱色の鳥居がある。毘沙門天は仏教の武神で、これを祀っている寺をたまに見かける。「毘沙門天」というからには、鉄筋コンクリート造りの御堂の内部に毘沙門天が祀られているはずだが、いつどういう形でそれが公開されるのか、あるいは非公開のままなのか、わからない。それよりも奇異なのは、赤い鳥居があることだ。神仏混交のわかりやすい例であるのはいいとして、誰がどのように世話をしているのだろう。御堂の北隣りには地蔵さんの祠があり、また御堂と地蔵の祠の前には石仏が3,4個並べられていて、たぶん地蔵盆の際にはこの境内に地元住民が集まってお祭りをすると思う。つまり、地元に密着した聖なる区域で、縁起がいい場所と昔から言い伝えられて来ているのだろう。「開運毘沙門天」であるからには、商売繁盛の稲荷の社とは相性がよい。鳥居は3本で、どれも脚に寄進者の名前を墨書しているが、左側は「町内有志一同」とあって、町内で世話をしていることがわかる。これはお金を出す人とそうでない人がいることを示すが、先日投稿した「齋明神社大鳥居」に法輪寺の境内に稲荷社を復活させようという地元で商売をしている人の願いは、自治会長に相談するよりも、商店主の集まりで議題にすべきであった。だが、それをしても聞き入れてもらえなかったので、自治会長にと話が回って来たとも筆者は耳にした。いずれにしろ、地元の有志が集まれば実現可能な問題であったが、嵐山地区は嵯峨地区よりもそういった有志が集まりにくいことが、今日の稲荷社の鳥居からわかる。実際そのとおりで、嵯峨に比べると嵐山は面積が狭く、その分住民が少ない。さらには嵐山の住民の大部分は新参者だ。「嵐山村」という言葉がその新参者から発せられることをたまに聞くが、それは古くからの住民が大手を振る村社会であるという意味と、嵯峨に比べると悪い意味での田舎であるという意味を含む。歩いてみるとわかるが、嵐山は小さな家が多く、新興住宅地が大部分を占める。そういう地域でも有志が集まって神社を世話することはあり得るが、生活するのに精いっぱいで、有志一同が鳥居を寄進するとなると、そうした人たちは陰で何を言われるかわからない。そういった地域の差が、清凉寺門前の一画を占めるこの開運毘沙門天の境内にある稲荷社からわかる。嵐山地域にはこのような小さな社はない。ところで、この稲荷社は吉崎稲荷という名前だが、吉崎は地名であろうし、いったいどこにあるのだろう。伏見稲荷とは別系統の稲荷社であるのかどうか、京都ならばみな伏見稲荷かと思っていたが、そうでもないようだ。稲荷と言えば狐で、祠の前にはその像があるかと思って正面に立つと、それが見当たらない。これは吉崎稲荷は狐とは無関係であることを必ずしも意味しないが、稲荷の造形もさまざまで決まりはないということなのだろう。その代わりと言えば何だが、境内で目についたのは2枚目の写真の直径1.5メートルほどの円形だ。地面を煉瓦で丸く囲い、これが何かわからない。木が植わっていた可能性が大きいと思うが、それにしては円形の内部はきれいで、根の痕跡がない。手前に子ども用の鉄棒が一基あって、子どもの何らかの遊び場とも考えられるが、円の内外は同じ土で、どういう遊びに使えるだろうか。境内は北と東が道路で、その角に近いところにこの円形があり、やはり大きな樹木が立っていたのではないか。それがなくなったことで車がやって来ることの見通しがよくなったに違いない。それは、この円形から数メートルの、道路が交わる角に交通安全のための丸いミラーが取りつけられていることからも言えそうだ。つまり、境内は子どもの遊び場になっていて、子どもが道路によく飛び出す。その際大きな樹木があれば、子どもにはその向こうからやって来る車が見えない。そこで生活に邪魔なので伐採したのかと言えば、それは罰当たりな行為であるから、暴風で自然に倒れたのだろう。そのことで境内がすっきりし、もう木を植えないでおこうと決めたのであろう。道路が交わる角に「飛び出しボーヤ」の看板が設置されていてもよさそうだが、おそらく今はもう子どもはここでは遊ばない。バスや車の通りが多いとなれば、もっと安全なところを親や学校は推奨する。そしてそのような場所はもう少し北に行くと、同じく左手にある。それはともかく、今日か明日は本来ならば「○は○か」と題して投稿するのが恒例になっていて、そのことが脳裏にあったので今日はこの神社を取り上げたとも言える。ただし、昨日たまたま家内と家内の友人との3人で清凉寺方向に歩いていて見かけたもので、思わぬところで神社の造形が筆者のブログの他のシリーズと関連づいた。これも「開運」の御利益ということか。3枚目の写真はGOOGLEのストリート・ヴューからで、煉瓦で囲った円形が見えている。