ドイツ文化センターで古蔵書放出があった12日の土曜日、たくさんの本を両腕にぶら下げて妹の家に行った。

京都の街中は警察の警備が厳重で物々しかったが、さきほどのニュースでようやくブッシュ大統領が今日京都にやって来て金閣寺などを拝観したことを知った。つまり、4日も前から京都は準備していたわけだ。それはさておき、妹宅で本を置き、昼を御馳走になったすぐ後、工芸繊維大学の門の前まで車で連れて行ってもらった。『紙は今-2005』という展覧会が13日まで開催中で、出かけるならばドイツ文化センターに行く12日と前もって決めておいた。妹宅から工芸繊維大学までは車で10数分といったところで、京都市内の北の方面にある。この大学では9月に、今年と来年の「日本におけるドイツ」の行事のひとつとして、ルイージ・コラーニ展が開催されていて、それもつごうがつけばと思っていたが、結局行くことはなかった。若冲忌で出会った岡山のおばあさんは、筆者とJR伏見駅で別れた後か、その翌日、同展を見に行ったのだろうか。ところで、ドイツ文化センターでの古蔵書放出ではこのルイージ・コラーニ展の分厚い図録の新品が10冊ほど積まれていた。それのみは200円ではなくて、特別価格の500円となっていた。重いなと思いつつ、どんな展覧会だったか興味もあったので1冊買ったが、まだ妹の家に置いたままだ。京都工芸繊維大学はちょっと変わった感じの学校で、昔からここにはヨーロッパの19世紀末から20世紀初頭にかけてのたくさんのポスターが所蔵されていることはよく知っている。たまにそれらは他の場所での展覧会に貸出しされ、見ることがある。そのほかにこの大学に関しては、染色作家でここを卒業したり、あるいは筆者の知り合いのかなりの年配者にも卒業者がいるが、その人は染料にかなり詳しく、また趣味でも染色を長年続けている。今はそうした染色の実技をどの程度教えているのかは知らないが、繊維に関する、あるいはそこから派生する事柄について学べる学校なのだろう。そういう意味からすると紙の展覧会が開催されるのは筋が通っている。紙もまた繊維であるからだ。
門の前で車から下ろされ、中に入るとすぐに大きな看板があって、展覧会が開催されている建物の位置がすぐにわかった。だが、現在地の印があるにもかかわらず、方向感覚が悪いため、どっちへ向かって進めばよいかさっぱりわからない。すぐ後から10人ほどの男の先生たちが談笑しながら門を入って来た。そのうちのひとりに尋ねればよかったが、みんな一団となっているためそういう雰囲気ではない。そのすぐ後に学生らしき若い女性がひとりやって来た。彼女を早速つかまえて場所を聞いた。すると「そこまで行きますので…」と恥ずかしそうに答える。小柄で利発そうな女性だ。ちょうど同じ場所に用があるらしくてよかったと思い、銀杏など紅葉が美しい校内を3分ほど一緒に歩いた。「紙の展覧会ですね?」「ええ、少し興味がありまして」「何かそういう関係のお仕事ですか?」「ま、紙は使いませんが、染色をしています」「キモノですか?」「ええ、キモノとかほかにもいろいろと」。こんな具合に話はずっと続いたが、ある建物の前に来た時、「そこです」と言って、指で示してくれる。彼女もそこにてっきり用があると思っていたが、そうではなくて、来た道をまた真っ直ぐ戻って行った。説明するのが面倒、それに一緒に行った方が迷わないであろうと思ったのだろう。短い会話の中で聞くところによれば、建築デザインやインテリアを学んでいるとのことだった。校内は学生の姿は他に皆無と言ってよく、彼女に会わなければまだうろうろしていたろう。ふたりが歩んで行った方向は、筆者がこっちだろうと思ったのとは直角方向に違っていたからだ。中に入って入場料を払うと、すぐにそこは展示場だ。思ったより作品は少ない。少々がっかりしながら、紙で作られた大きな彫刻といった作品や、日本の料紙のように染まった紙を継いでデザインした本やオブジェなど、簡単に言えば和紙素材による現代美術があった。一巡するのはすぐで、これだけかと思っているとそうではなく、2階へ上がる階段が奥にあった。そして階段の壁には大きな石版刷りの前述したポスターが6、7点にかかっていて、段をうえに行くたびに違った作品が現われる。どれもなかなか面白い。最初の作品は有名なポール・コランのもので、『マダガスカル災害支援大集会』というタイトルだった。海を表現する青の地の中に子どもを抱いた黒人の男が中央あたりの波間で厳しい表情の横顔を見せている。いつ描かれたものかはわからないが、1930年前後だろうか。ポール・コランと言えば、アメリカ黒人のダンスをモチーフにした仕事が即座に連想されるから、このポスターも黒人を描いている点でその延長上にあると言える。マダガスカルで当時大きな津波があったのか、植民地、オリエンタリズム、集会に深く関係する組合運動といったものをこのポスター1枚から感じられ、去年末のスマトラ沖地震での大津波の場合と比べると、今はそうした芸術作品として残るものが果たして作られているのかどうかと思った。それを言えば、今は画家の原画を印刷するポスターの時代ではなく、写真のイメージの時代であって、先月立命館国際平和ミュージアムで見た『世界報道写真点2005』の大賞作品の写真を思い浮かべればいいのであろう。
話は前後するが、入場時にこの展覧会用のうすいパンフレットをもらっていることに後で気がついた。それは8ページあって、筆者がしたメモのほとんどを網羅しているから、入場時にすぐにパンフレットの中身を確認すればメモの必要はなかった。ま、れでもこうして書いていて、やはり参考にするのは自分で書いたメモだ。パンフレットによればチケットを買ったホールは「エントランスホール」で、そこで出品していた日米の計7人の和紙作家の名前と経歴が載っている。だが、作品の名称の記載はない。やはりメモしていてよかった。Lynn Suresの作品は経本仕立てになっていて、タイトルを訳すと『ミンガスと直立猿人との間の弁証法のヴァリエーション』というものだ。ジャズのムードに溢れた、そしてドイツ表現主義を思わせる荒々しいタッチのカラフルな木版画が印象的であった。工芸繊維大学卒の伊部京子は有名な和紙作家だが、楮の繊維に柿渋や松煙、雲母、墨を使用した黒々とした大小のパネルを6点並べていた。天然素材をいろいろと混ぜて使用し、独自の味わいを表現しているのはわかるが、同じ素材を使用すれば誰でも同じような味になるであろうし、造形的には特に印象に残らず感動もない。米山和子は吉野和紙に絹糸を若干使用して立体のテディ・ベアを漉いていた。どのようにして作ったのかよくわからないが、紙による彫刻作品の点で意表を突かれる。また「少女像」と題して別の3点があったが、これも衣服の襞の表現など、女性にしか出来ないような感覚がよかった。さて、手元には1983年に京都国立近美で開催された『新しい紙の美術-アメリカ』の図録がある。この展覧会でかなり気に入った作品があった。Sirpa Yarmolinskyの『ジュラ紀の風』と題する3点揃いの壁かけで、ざっくりとした毛糸の編物の部分をそのまま大きく拡大したような形をしており、全体的に黒を主にする中でピンク色がきらきらして美しい。この図録にはその後入手した和紙関連の展覧会チラシがたくさん挟んである。ざっと数えると10数枚ある。適当に拾って年代順に並べれば、『紙の世界』『今立現代美術紙展’95』『国際「紙」造形展』『生まれ変わる造形』『19世紀の和紙展-ライプチヒのコレクション帰朝展』などあるが、思いのほか和紙を使用する造形作家が多く、公募展、個展もよく開催されていることがわかる。エントランス・ホールの和紙作家も伊部を除けば、『新しい紙の美術-アメリカ』以降この20数年の間に和紙を用いて作品づくりをしている。和紙の歴史は非常に長くても、それを個性的な造形作品に利用する動きは比較的歴史が浅い。和紙は軽いし、またプラスティックのように可塑性があるため自由な造形がたやすく、大きな作品を作りやすい。また、作品が小さくても、たくさん数を揃えてインスタレーションに用いることも出来る。そのため和紙を使った芸術は範囲が広く、とりとめもないような印象を与える。和紙そのものは布以上に長年保存が可能と言えるが、何分軽いので、たとえば前述した「少女像」のような立体は頑丈な箱に入れて保存する必要があるのではないだろうか。どんな作品でも箱に入れて保存はするとはいえ、あまりにも脆くてはかない素材であるから、木や石の彫刻のような風雪にも耐えるという印象かは遠い。一方では紙は日常にふんだんに消費されているため、和紙の立体ないしパネル作品を見ても、意外な面白い印象はあっても作品として価値が高いとはあまり思えない。その点、和紙を使った本やその形に属したものであれば収容にもかさばらないから、前述の経本仕立ての作品などは印象に強く、ほしいとも思わせる。新装オープンした心斎橋そごうの玄関を入ってすぐ真上に見える和紙製の大きな彫刻風の吊り飾りは、半分は照明をかねていて、その点において邪魔なものには見えずに好感が持てるが、ただ和紙による大きなオブジェとなると、まだまだ作品としての訴求力が弱い。結局のところ、和紙作品は昔から日常的によく使用している物のそのままの延長上、つまり本や行灯といったものにおいて新傾向を発揮したものが人々にはすんなり受け入れられやすいと思う。2階の会場には和紙を使用した照明器具は今回もいくつか並んでいた。可塑性に目をつければ、和紙はどんな形にもなり、しかも手である程度自在に形を変化させられるので、手っ取り早く、しかも目に温かく優しく馴染むライトを作ることが出来る。これはまた和紙の透過性を重視した物づくりでもある。
2階のまず前半の会場は、全く予期していなかった展示であっただけに来てよかったと思った。それは日本の手漉き和紙の総覧といった内容で、各地の和紙が系統立てて額に収められてびっしり壁面に並んでいた。これはめったにない機会で、こうした展示が常設でいつでも誰でも見られるような環境がほしいものだ。地方に行けば和紙を売っている場面にしばしば出くわすが、日本全国の代表的な手漉き和紙が一堂に見られる場所はどこにもないのではないか。和紙についての本もあまり多いとは言えず、あっても和紙を図版で見ては意味がない。本物の手漉き和紙をたくさん集めた限定豪華本がかつてあったことは知っているが、それは一般的には手が出にくい高額の古書となっている。そのため和紙についてはなかなか実物を間近に見て知識を深める機会がない。京都には和紙を扱う有名な店がぽつぽつとあるので、そうしたところに行けばそれなりに実物を見て買うことも出来る。だが、日本中でどういう特徴あるものが作られているかまではわからない。2階のこの日本全国の和紙の展示は、「-日本の心-2000年紀和紙總鑑」と題して2006年春に刊行が予定されている見本帳の内容をばらして額に入れたものだ。パンフレットから引用すると、蒐集範囲は日本全域の産地および個人で、内容は1、素紙(産地を代表する紙(生漉に限らない)、各紙で復元可能の紙)、2、漉き模様紙(紙を漉く過程における加工紙)、3、加工紙(乾燥した後に加工した紙)、4、機械漉き和紙となっている。全部で1070点、仕上げ寸法は300×200ミリで和綴じだ。これは空前の規模のもので、これだけのものを企画して作るのは何年も要するだろう。この本以前に有名なものは、先に少し触れて今回も出ていた「手漉和紙大鑑」がある。これは昭和48、9年のもので、すでに30年も経っている。この日本全国の和紙展示の部屋には和紙に関する文献も展示されていて、当然のごとく、柳宗悦の雑誌「工芸」が何点が並んでいた。やはり柳は別格の風格があるし、「工芸」は和紙芸術そのものの塊に見える。染色研究家で有名な上村六郎の「日本の手漉」という2冊本は初めて知るもので、「和紙研究」という1939年から1984年という長い年月発刊され続けた17冊の雑誌も興味深かった。寿岳文章は和紙では有名だが、町田誠之助という人が和紙に関する本を何冊も著しているのは知らなかった。これらだけが和紙の研究ではないと思うが、それにしてもやはりあまりにも少ないと思える。
2階はさらにぐるりと回廊を巡って奥の部屋に展示が続いていた。途中で竹紙の作品のまとまった展示があった。竹紙は水上勉が復興したことでよく知られるし、それを専門に展示する画廊が京都の寺町二条にあるが、ここでは10年ほど前に水上に教えを受けた京都府乙訓の八幡幸子、崇典の親子が作ったさまざまな竹紙とそれを利用した書の作品があった。竹紙はかなりごわついて使用しにくい感じがあるが、それを逆手に取って野趣に富む雰囲気を出せる強みがある。さて、あまりにも盛りだくさんな展示内容で、ここには全部書き切れない。にもかかわらず会場は筆者以外に4人が入っていたのみだ。興味のある人だけ見ればいいのだろうが、いつものことながらもったいないと思う。2階奥の会場はまず「宇宙の紙」というコーナーがあった。これは1983年にアメリカで実験されたことの内容を示すものだ。宇宙でで紙を漉けばそれは地上で漉いたものと比べて質がどうかと疑問を持った青年がいて、それを受けてスペースシャトルの中で実験が行なわれた。結果として無重力の中で作った紙の方が繊維の浮沈のばらつきと度合いが少なくて良質の紙が出来ることがわかった。次の部屋は「紙の現代から未来へ」と題して、「紙とデザイン」、「高機能紙-こんなところにも紙が活躍-」のふたつのコーナーに分かれていた。前者はコンピュータによるグラフィック・デザインに積極的に和紙を使用してデザインに奥行きを与えようとする人々の作品の紹介で、後者は自動車に使用される耐熱性機能紙、エアーフィルターやオイルフィルター、ポリエステル繊維を用いた1平方メートル当たり5グラムという世界で最も軽い紙、廃棄繊維を用いた紙、バイオパルプ繊維といった商品の実物展示となっていた。予想以上に紙はあらゆる分野で使用されていて、またさまざまなタイプのものが開発されていることがよくわかった。ところで、牛乳パックを溶かしてその繊維で紙を作るちょっとした道具を20年近く前に買った。一度使用したきりそのままになっている。それをもっと本格化し、さらに独創的な造形精神があれば、和紙造形家のような仕事が出来るであろうことはよくわかる。だが、昨日書いた截金と同様、和紙造形もかなり特殊で、楮の繊維から扱って立体作品を目指すとなると、和紙作りの現場に逗留し、そこで実際の和紙作りの基礎から学ぶ必要がある。つまり、片手間では無理ということだ。その意味で言えば、手漉きの和紙1枚でも人手がちゃんとかかっていて、紙は大切に使用しなければという思いに改めてかられる。明治以前の日本の絵はみなそんな手作りの和紙に絵師が描いたが、絵は紙と縁が深く、機械作りになって紙は味気なくなった、あるいはもはや紙を必要としないデジタルな時代というものは、絵もまたすでに同時に死んでいるのではないかと思わないでもない。さて、この展覧会が「2005」となっているのは、また定期的に開催される可能性を示すものかどうか知らないが、現時点でのあらゆる紙の先端の状況を把握するにはまたとない機会であった。