遡ってすべてが思い出せることはコンピュータにはあっても人間にはないが、それが欠点かと言えばそうとは限らない。嫌なことをいつまでも覚えていてはそのうち心身に異常を来す。

忘れることは必要だ。ただし、嫌なその相手といつまでもつき合う必要はない。それが無理な場合も多いことは知っている。だが、嫌なことを我慢し続けて人相まで悪くなって行くのはそれこそ嫌だ。どこへ行っても嫌な奴はいるから、我慢した方がいいという意見がある。それは時に正しいが、時にそうではない。結局自分で決めて行くしかない。それが出来ない時に誰かに相談するか、占いに頼るなど、昔から人間は変わらず、今後もそうだ。悩み事の相談は、昔は寺のお坊さんがやった。今は市役所に悩みを聞いてくれる係があるというし、またお金を払えばいくらでも相手にしてもらえる場所がある。占いに関しては今でも神社がかなりの部分を引き受けているが、それはくじで、真剣な悩みがあってのことではなく、面白半分の遊びだ。それでも真剣な悩みを抱えた人は神にすがろうとし、神社の境内の百度石を目指したりする。つまり、寺も神社も人間の心にとって必要ということだ。それにしても数が多く、どの神社にお詣りすればといいのか迷いそうだが、目立たない神社とそうでないところとがある。神社によほど関心があれば、こまめにあちこち訪れることになるが、普通の人は地元の神社専門だ。とはいえ、地元の最寄りの神社がさほど大きくなく、また人気があまりないとなれば、何となく御利益が少ないように感じるから、わざわざ電車に乗って人が多く集まるところに行きたくなる。宝くじと同じで、よく当たるという評判の店に行く人が多いだろう。筆者は神社の御利益をほとんど信じていないので、たとえば初詣はどの神社でもかまわないが、氏神の松尾大社に行くよりも、電車に乗ってもっと繁華な八坂に参ることの方が圧倒的に多い。それで大半の神社はいつもひっそりしていると思うが、筆者が知らないだけで、小さな目立たない神社でも地元の人がそれなりにありがたがって見守っているのだろう。そう言えばこんな話がある。以前に書いたと思うがまた書く。法輪寺の境内に昔稲荷の社があった。2年前までその石の鳥居があった。高さ2メートルほどの小さなものだが、石はまだあまり汚れておらず、欠けもなかったと思う。それがいつの間にかなくなった。鳥居のほかに祠もあったそうだが、それは長らく手入れをされないままで、かなり老朽化し、傾いていたそうだ。それで危ないと寺は思ったのか、撤去した。そして鳥居のみとなっていたが、祠がないのに鳥居のみというのもおかしい。そしてついには鳥居も処分された。祠がなくなって鳥居が健在であった年月はどれほどだろう。10年未満と思うが、その最終段階で筆者にある人から相談があった。自治会の人で、料亭を経営している。その主が自治会長である筆者に相談に来た。自分が全額負担して祠を新たに造るので、昔のようにその神社を自治会で世話してほしいと言うのだ。そのことを3,4回相談されたが、筆者個人で決めることは出来ない。費用はその人が持つとしても、今後の世話を自治会の誰がやるかだ。昔のようにわが自治会は商売をしている人たちが多くはなく、新参者が数では圧倒している。そうした人に、バス道路から100メートル以上も坂道を上がったところにある祠の清掃その他をしてもらえるとは思わない。なぜならその祠は伏見稲荷大社の末社で、新たに祠を造ると、また同大社に行くなりして末社の許可を得る必要もあるだろう。昨日個人の庭のような土地に稲荷社があることを紹介したが、たぶんそれよりもっと小さな社で、個人が建てるものと言えば伏見稲荷大社の許可は必要ないかもしれないが、商売繁盛を願うための社を造るうえ、初午の日には伏見稲荷大社に行かずとも、その法輪寺境内の末社で済ますことが出来るという便利さを思ってのことで、そうなれば伏見稲荷大社も黙っていないのではないか。

ともかく、考え始めると乗り越えるべき問題が多々あって、筆者はあまり真剣に考えなかった。そして、ついに石の鳥居が撤去され、その料理屋の主は筆者に道端であってもほとんど挨拶もしなくなった。主が筆者に持参した資料の中に、江戸時代からその末社があったことを示すものも混じっていたが、その主はそういう伝統が自分の代で途絶えることがさびしかったのだ。だが、伏見稲荷大社だけではなく、法輪寺にも許可を得る必要があるとその主は言っていたし、そのことを全部筆者がやらねばならない。当時そのような時間は筆者には見つけにくく、主には悪かったが、末社は復活しなかった。それで思うのだが、主が経営する料亭はかなり面積があるし、また庭、駐車場があるので、その一角に祠を建てればよいのではないか。それでは大勢の人が法輪寺沿いのバス道路を歩いてお詣りに来ないか。主が遠くを見るように懐かしがったのは、初午の日に嵯峨からもたくさんの商売人がその祠の前にやって来て、その人の多さは見ていて楽しいものであったらしい。もちろんその人波に釣られて一般人もお詣りしたし、そうなればそういう人は嵐山で食事する。つまり、店が繁盛するには末社を造るのが一番とその主は考えていたのだ。嵐山や嵯峨にはたくさんの店があるので、嵐山保勝会に相談でもすればよかったと思うが、自治会長を動かすと話が早いと考えたのだろう。だが、筆者は新参者の自治会長で、昔の嵐山の思い出がない。個人的には法輪寺境内に稲荷の社があれば華やかでいいとは思うが、その世話を自治会がするというのは筋が違う。かくて、伝統は少しずつ廃れて行く。神社がいつまでもあると思うのは間違いで、新たに出来たり、また消えて行ったりするものがある。小さな社は特にそうだ。さて、今日取り上げる神社は最近知った。右京中央図書館に本やDVDを2週間に一度借りに行っている。三条通りを西へ向かって自転車で走るが、昨日書いた個人の稲荷社のすぐ近くの三条通りから少し南に入ったところに今日取り上げる齋明神社がある。そこは三条通りと罧腹堤との間に挟まれた狭い区域で、嵐山小学校がある。2,3年の夏にその小学校に初めて行った。健康診断を受けるためだ。それは毎年8月にわが地元の嵐山東小学校で実施され、筆者はそこで受診するのだが、その年はうっかり忘れてしまった。それでも受診票はどこの小学校での健康診断に使える。それで地元の小学校の次に近い嵐山小学校を訪れた。その時のことは写真とともにブログに書いた。それはいいとして、その小学校の帰りであったと思うが、確か目立たない神社の前を通った。それが齋明神社だ。嵐山小学校の周辺は川沿いの狭い土地ゆえか、どことなく湿り気が多くて暗い。その雰囲気を最も湛えているのが齋明神社だ。また目立たないのは神社ではあるが、朱色が皆無であることだ。これは逆に言えば自然に溶け込んでいる。改めてこの神社の境内に入る気になったのは、自転車で三条通りを走っていると、最初の写真のように「愛宕山」と彫る石碑に木札「齋明神社大鳥居新調」を固定してあることに気づいたことだ。なぜ愛宕神社の石碑があるかと言えば、三条通りを東方面からやって来る人に、嵯峨や清滝へ行くには、その石碑を越えてもう少し西に歩き、渡月橋をわたらずに、反対に北へ向かうと自然に愛宕山への登山口があることを示すためだ。つまり、昔はそれだけ歩いて三条通りを愛宕山へと向かう人が多かった。そういう人は日帰りは難しいので、嵯峨の清涼寺門前の旅館に泊まったが、そういう旅館の経営者が愛宕詣りの客だけでは経営が成り立たなくなって行く危機感から、渡月橋南の土地を買い、そこに料理旅館を建てることにした。それが現在の渡月亭だが、となるとわが自治会の店はみな愛宕詣りとつながっている。話を戻して、愛宕神社の石碑の隣りに「神明神社」の細い石碑が立つ。これは齋明神社の別名だ。では横向きの木札はこの石碑にくくりつけるべきだが、地元の人たちにすれば遠い愛宕山より近くの齋明神社であろう。だが、この神社を世話しているのは果たして地元の人たちであろうか。たぶんそう思うのは、最初の写真に写る木札だ。それはどう見ても素人の手作りで、文字も上手ではない。「神明神社」の石碑は新しいようだが、これは「愛宕山」の石碑があるのでその近くであれば目立つとの考えで、昔の愛宕山詣りの人たちについでに「神明神社」にも立ち寄ってほしいという理由から建てられたものではないだろう。

ともかく、筆者はこの「愛宕山」の石碑は昔から何度も見ていたが、そこに「齋明神社大鳥居新調」の札が取りつけられているのがとても目立った。そして自転車を停めて写真の奥、つまり南に向かって入った。50メートルほど行くと右手に神社がある。新調された大鳥居は2枚目の写真だが、これは2,3日後にまた撮りに行った。というのは、筆者が最初に訪れた時、70代の地元の男性だろうか、ふたりが鳥居の下で長らく話し込んでいた。それが邪魔になり、日を改めることにした。そのふたりはたぶん神社を清掃するなどしているのだろう。境内は写真からわかるように狭い。それにかなり老朽化した雰囲気で、鳥居を新調したのも、境内を建物を順に建て直して行くための一貫ではないか。無人の神社で、どこがどのように管理しているのか知らないが、2枚目の大鳥居の左手、写真には写っていないところに玉垣の凹み箇所があり、そこが小さな地蔵尊の祠が南向きにある。それは地元の地蔵盆で使われ、地元住民が掃除をするなどの世話をしているはずだ。8月下旬になれば地元の子どもたちがそこに集り、おそらく神社の境内も使ってお祭りをする。となると、神社も地元の人たちが面倒を見ているだろう。だが、そういうことがあり得るかどうかだ。小さな地蔵尊の祠とは違い、この神社はそれなりに歴史がある。そういう神社を地元住民だけで世話して行くことは難しいだろう。だが、大鳥居は誰がお金を出して新調したのだろう。地元住民の有志だろうか。あるいは無人ではあるが、どこかの摂社になっていて、本社からの人物が定期的に掃除その他を行なうのだろうか。わが自治連合会には松尾大社はあるが、それ以外に神社はない。ところが嵯峨では寺も神社も多く、歴史の重みが違う。それに齋明神社のある区域は新興住宅地はなく、何代にもわたって住む人が中心だろう。そうなれば神社の境内を常にきれいにしておこうという思いの人は多いだろう。神社の由来についてはネットで簡単に調べられるのでここでは書かないが、「齋明」は「齋宮」に因んでいる。毎年10月に野々宮神社は天龍寺前の商店街が主催する「斎宮まつり」を開く。去年はそれを見た。まだ10数年しか経っていないお祭りだが、地元の若い女性が斎宮になって輿で運ばれる。となればこの神社は野々宮神社と関係があるのかと思ってしまうが、たぶんそのような気がする。さて、新調されたことを知らせる木札はまだ新しいものに見えるが、2枚目の写真のその鳥居は白木と言うには2,3年経っているような気がする。となれば筆者が木札に気づいたのはなぜ今頃か。それは詮索しないでおこう。この2,3年の記憶を遡ってもこの木札の記憶はない。それは関心がなかったからだろう。先月31日に愛宕山に登ったことで今日の最初の写真の「愛宕山」の石碑に目が行き、そして木札に気づいた。それはいいとして、関心を持つとにわかに見えて来るものがある。目は景色を隅々まで見ているようだが、それは見えているだけで、意識的に見つめるものはきわめて少ない。