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●神社の造形―櫟谷宗像神社のしゃもじ絵馬
を据えればそこが神聖な場所になると考えるのは本末転倒だ。清らかな水が涌き、自然が豊かに保たれている場所がまずあって、そこに神の息吹のようなものを感じるから、穢してはならじと祠を立てて拝む。



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これはかなり以前に書いたが、戦時中日本軍の兵士が南方の島に小さな祠を建て、そこを何とか神社と命名した。占領した場所なので、早速それを主張するために日本の神を祀ったということだ。祠を持参した兵士たちはさぞかし満足であったろう。だが、そこには望郷の思いが強く潜んでいたはずで、異郷の地に故郷らしさを感じたかったのだ。その祠は間もなく爆撃で跡形もなくなったが、日本軍は本当にそこを聖なる場所とすることがふさわしいと思ったのであろうか。ただの領土の主張であれば、神様も舐められたもののような気がする。何しろ神軍であるから、行くところすべて神の加護があり、祠を建てまくって行こうと思っていたのではないか。戦争に関するTV番組が毎晩放送されているが、兵士が祠を持って行ってまず据えたといったことがTVで放送されたことを見たことがない。さすがにまずいと思っているのかもしれないが、神軍の意識を多少でも理解するのは役立つ行為ではなかったか。去年だったか、兵庫県立美術館で戦前の日本から美術教育を受けた中国や朝鮮の学生の作品展があった。図録を買っていないので調べられないが、中国か台湾か忘れたが、ちょっとした丘陵を右手に描いた風景画があって構図など印象深かった。その丘陵地に日本は神社を建てたらしい。当然戦後はそれが破壊されたが、代わってその土地の聖なる何かが祀られた。日本はその土地にまつわる聖なる歴史を知ってあえてそこに神社の祠を建てたのだろう。それはその土地を併合して日本化するのは最も効果的な方法であるからだ。朝鮮でも同じようなことはよく行なわれた。ソウルの朝鮮総督府の建物が、李王朝の建物群を邪魔する形で建てられたというのを何かで読んだことがあるが、そういう悪意は当時の日本ならやりかねない。中国や西洋ではそういうことをもっと徹底的にして来た。支配民族が変わると、以前の民族の聖なるものは徹底的に破壊される。あるいはそれが難しい場合は同化だが、これも大分以前に書いたが、筆者は夢で日本の神社がイスラムのモスクのような建物に変わっていることを見たことがある。すっかりイスラムというのではなく、ハイブリッドだ。イスラム圏が今後さらに力をつけ、日本にもそれを信仰する人が増えると、神社がどんどんモスク化するかもしれない。そうして日本風のイスラム教が生まれて来る。それはそれで仕方がないし、また歴史の必然と考えるのがよい。日本の神社も最初から現在のような形であったのではなく、大陸文化の影響を受けながら定まって来たものであるはずで、原始神道からすれば現在の神社神宮は異端に映るかもしれない。そう考えると、聖なる場所として残るのであれば、神社が遠い将来イスラムと混交しても誰も困らない。要は社、祠ではなく、最初にあった聖なる雰囲気を湛えた空間だ。それがないのに祠を建てても意味がない。
●神社の造形―櫟谷宗像神社のしゃもじ絵馬_d0053294_084393.jpg

 さて、今日は前回の松尾大社の関連として、その摂社の櫟谷宗像神社のしゃもじ型の絵馬について書く。この神社はわが家からは松尾大社に行くより近い。それで毎日でもお詣り出来るが、年に一度訪れればいいところだ。それは5月の松尾大社のお祭りの際に自治会で子ども神輿を出し、櫟谷宗像神社と松尾大社の間を練り歩くからだ。「いちいだにむなかた」と読むこの小さな神社は、渡月橋北詰めから嵐山の裾の方に赤い鳥居が小さく見える。神社に至るには渡月小橋の南詰めの温泉旅館の「花筏」のすぐ隣りと言ってよいところから石段を上るか、それより少し先、川沿いに上流に向かって30メートルほど歩んで振り返れば坂道が見えるのでそれを上るかだが、筆者は必ず石段を利用する。子ども神輿を担いで上る際もそうで、石段は多くないのですぐに境内に至る。またこの石段は岩田山のモンキーパークへの登り口を兼ねていて、最近は外国人が急増している。その徴候は2年ほど前からあったが、外国人用のガイドブックに猿をたくさん見られるモンキー・パークについて書かれていると見える。神社の受付のすぐ左手を登って行くと、15分程度でモンキーパークに着くと思う。長年訪れていないが、宣伝は却って派手になっていて、石段の際に幟旗が何本も立てられている。では櫟谷宗像神社が猿と関係があるかと言えば、全くない。松尾大社の摂社であるから、それはそうだろう。猿と関係があるというのは、たとえば日光東照宮のように、見ざる言わざる聞かざるの三猿の造形があるといったことだが、猿田彦神社の猿田彦は猿とは関係がないだろう。それはさておき、筆者が初めて櫟谷宗像神社に訪れたのは嵐山に引っ越して間もない頃だ。それにモンキー・パークに登る時は必ず境内を通るから、息子が小さかった頃はここ20年に比べると登った回数が多いはずだ。山を背にした小さな境内は、山側に顔を向けると鬱陶しいが、反対側の桂川を向くと明るくて気持ちがよい。100円で2,3分見られる望遠鏡が昔からあって、それが今でも使えるのかどうか知らないが、同じ場所に立っている。そういう変わらないものを見るのは何となくほっとする。この神社で昔から変わらないのは、しゃもじ型の絵馬が置かれていることだ。勝手に500円を小さな箱に入れてしゃもじに願い事を書き、しゃもじを飾る場所に固定する。しゃもじの取っ手には紐を通す小さな穴が開けられておらず、またしゃもじは御飯をすくい取る本物で、「寿」の一字と「松尾大社」の焼き印が中央に入っている。その反対側に願い事を書く。固定は左右に通された針金の間に挟むが、松尾大社では楼門の両脇の木製の狩猟姿の平安貴族像が安置されている、つまり寺では仁王像が据えられている場所の前面を覆う金網に挟む。これが遠目に目立ち、初めて松尾大社を訪れた人は印象深いはずだ。今日の最初の写真は松尾大社に飾られているそのしゃもじ型絵馬で、熨斗型も含まれているが、これは好みで受付で買うのだろう。あるいは願い事によるかもしれない。この保存期間がどれくらいだが、松尾大社ではそう長くないだろう。そうでなければすぐにしゃもじだらけになってしまう。櫟谷宗像神社は筆者の昔の経験からすれば、2,3年はそのままにされていた。それほどに願い事を書く人が少なかったが、今は毎日大勢の人が境内を訪れるので松尾大社並みかもしれない。昔の記憶と書いたが、ひとりは若い女性、もうひとりは筆者と同世代の男性を連れて行った。ふたりとも幸福に生活していて、御利益があったということだ。しゃもじ型の絵馬がどれほど珍しいのかそうでないのか知らないが、なぜしゃもじ型なのか。松尾大社は酒の神を祀るからそれと関係があるとすれば、なぜ梅宮大社ではないのか。神社にはよくわからないことが多いが、それはそれで神秘的でいいところがある。何でもわかると思う方がおかしいのであって、本当はわからないことの方が断然多い。2,3枚目の写真は櫟谷宗像神社で、2枚目は左端に見知らぬ女性がこちらを向いて写っていたので可能な限り姿が入らないように加工した。写真左が拝殿正面で、写真中央にしゃもじ絵馬飾りの枠が写っている。3枚目はそれを接近して撮った。しゃもじは松尾大社のものと同じだ。
●神社の造形―櫟谷宗像神社のしゃもじ絵馬_d0053294_09181.jpg

by uuuzen | 2015-08-12 23:59 | ●神社の造形
●嵐山駅前の変化、その373(... >> << ●神社の造形―大井神社

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