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●神社の造形―車折神社
部から5,6キロ東が香住であることを今地図で確認したが、どうせすぐに忘れる。香住という地名も思い出せず、地図を見てもどこにあるかしばらくわからなかった。京都とばかり思っていると、兵庫県であった。



●神社の造形―車折神社_d0053294_219530.jpg

京都府の日本海側は海岸線がとても入り組んでいて、どのような形になっているかおぼろげにも覚えられない。その入り組んだ海岸線沿いに海水浴場が点在する。筆者は何度かそこに行ったことがあるが、どれも正確な名称を覚えていない。泳ぎに関心がないからで、アウトドア派では全くない。今日は夕方6時頃に自治会の家庭へのお下がり品をホームセンターに会計と一緒に車で取りに行き、しかるべき場所にFさんとの3人でそれらを収納したが、昨日の夕方、Fさんがわが家に配り物を持参し、その時には月曜日にFさんとホームセンターに行くことを決めた。だが、Fさんは朝11時には日本海に向けて家族で海水浴に出かける。ホームセンターはたぶん9時から開いているが、長距離を運転する寸前にFさんのたくさんの荷物を車で運んでもらうのは気が引ける。それで今朝は会計に相談し、会計と一緒に筆者がホームセンターに行くことにした。そのことを夕方にFさんに伝えに行くと、Fさんは6時頃に荷物を下ろして倉庫に収納するのを手伝うと言う。3人で作業するとあっと言う間で、月曜日の朝にFさんの手を煩わせることなく済んでよかった。Fさんも同じ思いだ。それはさておき、昨日の夕方、Fさんは海水浴に行くというので、どこかと訊くと、地名を言われたのはいいが、筆者は初めて聞く場所であった。それほどに京都府の日本海側についての知識がない。これは車に乗らないからでもある。JRに乗って海水浴に行くことはまずない。今や誰もが車だ。そのために高速道路がどんどん造られて来たし、これからもそうだ。普段車を運転する人と筆者とでは、脳内の地図がおそらく全く違う。車本位の人はJRの線路やバスの路線がどのように走っているか関心がない。これが戦前となると誰しもJRの線路によって日本各地の距離感を把握した。内田百閒はその代表だろう。そして彼に限らず、昔の小説家はよく旅をした。香住で思い出すのは志賀直哉の「城崎にて」だが、志賀はそのほかにも各地に住んだ。小説の想を練ったり、書いたりすることはどこででも出来るし、また想を膨らませるにはなるべくいろんな土地に行った方がよい。頻繁に旅する人の脳内と、そうでない人のそれとはこれもまた大きな違いがあるだろうが、どっちがいいかと言えば、人間は動物であるから、なるべく移動し続けることが本能にかなっているのではないか。その意味で筆者は植物的で、移動することが少なく、また移動しても範囲が狭い。これは女性的ということでもあろうが、それを言えば差別的な発言と思われるほど、今では女性の方が世界中を動き回る。さて、前置きが長くなった。今日は正午にひとりで家を出て、自転車で右京図書館にDVD2本を返しに行った。炎天下をその後四条大宮に出て、弁当屋で安いスイカを3個買って家路に着いた。その弁当屋で売られているスイカについては先日書いた。その後二度買い、今日はつごう4度目で、しかも玉がとても小さく1個500円ほどなので、3個買った。前の籠に1個、後ろの荷台に段ボール箱をくくりつけ、その中に2個入れた。3個買えば毎日食べても10日は持つだろう。それもさておき、三条通りを東に向かって図書館に向かう途中、左手に車折神社がある。嵐山から自転車で5分ほどだ。この神社の斜め前の道を南下すると、西郵便局があって、そこにはたまに行くので、車折神社の三条通りに面した独特の形の大鳥居は昔から馴染みだ。この神社のすぐ近くに、昔ネクタイを扱う業者から注文をもらい、何度かその家に染めたネクタイを納品しに行ったことがある。そんなことでもこの神社は身近な気がする。
●神社の造形―車折神社_d0053294_2192044.jpg 俄然身近に感じたのは、境内の中ほどの東端に、冨田渓仙が植えた桜の木があることを知ってからだ。それは30年ほど前のことで、前知識なく、その桜の根元にある木札を見たので、なおさら嬉しかった。渓仙の家から車折神社まで、歩いて10分ほどだが、三条通りの幅は昔と変わらず、その狭さは自転車で走ると、脇にバスがすれすれに走るので面白くないが、その危険な点を除くと、風情があってよい。近隣の建物はどんどん新しくなるが、土地にまつわりくつ雰囲気は戦前とほとんど変わっていないだろう。それは車折神社があるからだ。もちろん神社の境内の施設も老朽化すると新しく建て直すが、境内の範囲はそのままであるし、周囲の民家と比べると、時が止まったように変化がない。寺社のよさはそこにある。渓仙桜は樹齢100年に達しておらず、背後が迫っているので、大きくなったとしても知れている。今日の2枚目がそれだが、幹は根元ですぐに分かれていて、全体になよっとしたたたずまいだ。それがまたよい。車折神社について二番目に印象深いことが、確か渓仙桜を知った後にあった。坂口安吾の本を読んでいると、嵐山や嵯峨についての文章があった。昭和12年に安吾は伏見に下宿したが、その頃に観光地の代表格である嵯峨嵐山を訪れたのであろう。その地元に住む筆者にはなかなか印象深い記述があって、その中に車折神社を訪れた時の思い出が書かれていた。安吾が車折神社の中で何が最も印象的であったかと言えば、本殿前の脇に積まれた小石だ。それは願いを書いて積み上げるもので、今日の3枚目の写真に見えるように、ちょっとした小山になっている。小石は近くの桂川から拾って来るなりして個人が勝手に用意し、願い事を書けばいいようなものだが、それでは神社は儲からない。それで今は社務所で石ころを買う。大きさによって価格が違うのかどうか知らないが、かなり大小がある。安吾の時代も社務所で売られていたのだろうか。安吾はそのことについては書いていない。また安吾は神頼みに関心がなかったであろうから、石に願い事を書くこともなかったはずだが、そういう行為をする庶民を侮蔑はしなかった。今調べると、安吾が京都に住んだ昭和12年は、渓仙が死んだ翌年だ。車折神社に行くのに安吾が渓仙の家の玄関前を歩いたことは確実で、そんなことを想像すると、慣れた道も楽しい。安吾が『堕落論』で一気に有名になるのは京都在住から10年後だが、50に満たない人生で各地を転々としていて、落ち着くということを拒否し続けたと思わせる。それはそうと安吾は美術にどれほど造詣があったのだろう。車折神社には、渓仙桜より少し南に、富岡鉄斎の筆塚がある。今日の最初の写真がそれだ。立て看板の説明によると、3000本の筆が収められている。鉄斎は渓仙が死ぬ12年前に亡くなっているので、安吾はこの筆塚を見たか、その脇を歩いた。鉄斎がなぜ車折神社に筆を収めたかだが、調べていないがたぶん芸の上達を願う神社があるからだ。現在はもっぱら芸能人が詣でて有名だが、芸事とは絵画も含む。鉄斎はそのように思っていたのではないか。おそらくそうで、渓仙が桜を植えたのもそれと同じことで、画業の上達というか、名画をものにすることを願ったのだろう。渓仙には有名な夜桜の絵があるが、そのほかにも桜を描き、梅よりも好きであったかもしれない。昨日は神社は梅が似合うと書いたが、案外桜も多く、平野神社はその代表だ。安吾は文筆を芸事と考えたか。たぶんそうだろう。短い京都時代に車折神社にお詣りしたことで、その後の才能の開花があり、『堕落論』で有名になった。そう考えると、筆者もこの神社には足繁く通うべきかもしれない。境内はよく清掃され、また神社周辺の人々は境内の南から北を貫く参道をよく利用し、地元に溶け込んでいる。
●神社の造形―車折神社_d0053294_2193278.jpg

by uuuzen | 2015-08-08 23:59 | ●神社の造形
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