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●神社の造形―香具波志神社
瘡に罹ると顔にあばたが出来ると小さな頃に教わった。そのような顔の人も当時見たことがある。顔のあばた程度なら恐くない病気と思っていたが、小学校では疱瘡に罹るのを防ぐため、腕に小さな傷を数個入れられた。



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種痘だ。その傷は今も残っているが、腕にあっては夏場は見えて格好悪いというので、尻に受ける女性もあるとかなり後になって聞いた。種痘は今は行なわれているのだろうか。息子が施された記憶がなく、たぶん天然痘の撲滅宣言があって、それ以降は種痘は実施されなくなったのではないか。だが、結核がなくなったと思っていたのにまた患者が増えて来ているから、天然痘も完全に地球上から消えたのではないのだろう。それはさておき、疱瘡は顔にあばたが残るが、ぷつぷつが生じるのは全身で、それが膿を持つ。体力のない小さな子どもでは大変なことになるので、恐れられた。今なら原因がわかっているが、江戸時代は呪いに頼るしかない病が多かった。疱瘡に罹って指が癒着したり、一部が切れたりすることがあるとは長年知らなかったが、上田秋成は数歳の頃に疱瘡に罹ってそういう体になった。そのことを自虐的に号にもしたが、他人とは違うそういう身体の傷は、いじめの対象になったであろう。今は子ども同士のいじめがひどく、自殺に追い込まれる子が続出しているが、江戸時代はいじめがましであったかと言えばそうでもなかったのではないか。筆者が子どもの頃でもいじめはあった。ただし、自殺するほど孤立することは今ほどではなかったと思う。上田秋成は曾根崎に私生児として生まれ、堂島の紙油問屋の養子となった。生活には不自由しなかったであろうが、私生児であることはあまり他人に言いふらすことではなく、子どもに知られるといじめの原因になったであろう。母のことをどれほど覚えていたのかどうか、そのことは秋成が何かに書き遺しているのかもしれない。養子になって疱瘡に罹り、間もなく養母が死んだので養父は再婚し、秋成は三度目の母に育てられる。この養母を秋成は実母のように慕ったのであろう。疱瘡に罹った時、両親は神社にお詣りした。当時は祈ることしか治癒の方法がなかった。神社では幼い秋成は68まで生きると占ったが、秋成はそのことを両親からしばしば聞かされたのであろう。当時の68は長命だ。それで安心したのでもないだろうが、秋成は10代後半に放蕩する。金持ちであったので、遊ぶ金には事欠かなかったのであろう。だが、放蕩に飽きたのか、文学に目覚める。それから後のことは別の話で、筆者の関心事は別のところにある。まず、秋成の養父養母はどこに住んでいたか。神社にお詣りしたというので、その神社の近くであろうか。これがわからない。店は堂島にあったが、そこで暮らしていたのではなく、住まいは別にあって通っていたのか。それはあり得るが、交通の発達した現在と違って、距離があれば大変だ。神社は神崎川の近く、今の淀川区加島にある香具波志神社だ。江戸時代は加島神社、稲荷神社と呼ばれていた。この神社にいつか訪れたいと思いつつ、今日は高槻に家内と出た後、思い切って足を延ばした。決めればすぐなのに、その決めるまでがなかなかだ。今日は酷暑で、本当は見知らぬ大阪の町中を、神社を探し歩くことはしたくなかったが、昨夜ネットで地図を印刷し、迷わないように準備した。そうなれば後は実行するのみだ。家内はしぶしぶでもついて来る。写真をたくさん撮って来たので、改めて同神社については書くが、今日はその序のつもりだ。
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 香具波志神社のある付近は、筆者は土地勘がない。阪急の十三駅で下りて大阪市バスに乗った。満員で、みな下町風情が漂う。大阪はどこでもそうだと言ってよいが、乗客を見て思ったのは尼崎の住民だ。神社は加島の停留所から北にすぐのところだ。工場地帯で、あまり環境はよくなさそうだ。なぜそんなところに神社があるのか不思議な気がしたが、神社はどこにでもあるものだ。それに加島は新興住宅地ではなく、江戸時代から続くような家があった。つまり、古い町だ。秋成の養父がどこに住んでいたかだが、香具波志神社の境内の一画に秋成の住居跡を示す石碑があった。養父は幼い秋成とともに加島神社に住んでいたのか。どうもそうらしい。養父の店がある堂島から加島神社まではかなり離れている。それが不思議であった。養父はなぜわざわざ5キロも離れている加島神社までお詣りするのか。それほどに同神社は疱瘡を治すために御利益があるのか。どうやら養父は加島に住んで堂島まで通っていたようだ。往復10キロを歩くくらい、江戸時代の人には苦にならなかったのであろう。それはともかく、加島や加島神社は幼い秋成にとって原風景になったはずで、また養父の願いを聞き入れてくれた加島神社の神様に感謝もした。秋成は長じてからは転々と住まいを変え、還暦になって京都に移住するが、その後も頻繁に大坂を訪れ、また加島神社へのお詣りは欠かさなかった。寿命とされた68を越え、76まで生きるが、そのことも今は書く必要はない。さて、江戸時代の神崎川は現在とどれほど流れが違っていたのか知らないが、川向こうは尼崎で、それは堂島に行くよりはるかに近い。渡し船はたくさん出ていたはずで、秋成は長じてからは尼崎にも住む。その後は現在の東淀川区の淡路にも居をかまえるから、大坂の北部を拠点としたことになる。となれば、京都には近い。それで還暦後は京都住まいかと言えば、妻が京都人であったことが大きな理由だ。話があちこち飛ぶが、秋成は養母を大切にした。養父は割合早く死に、秋成は店を継ぐが、火事に遭って店を失う。現在のように火災保険はなく、また銀行に預金出来るということもなかったから、家が燃えてしまえば全く別の人生を歩むことになる。秋成は頭がよかったので、医者になることに決める。当時の医者はいい加減で、学問をしていれば医者を兼ねることが多かった。秋成が医者になったのは、家業を続けられなくなったからだが、それとは別に自分の疱瘡が関係しているだろう。疱瘡は治りはしたが、指を不自由にした。疱瘡を治す医者になろうと思ったのではないにしろ、病気で苦しむ人を助ける思いは強かったであろう。だが、その夢も長く続かない。小さな娘を誤診で死なせてしまってからは医者を辞めてしまう。医者には向いていなかったのであろう。最初に医者として生計を立てたのは加島でのことで、これは堂島の店が焼けてから神社に寄寓したことによる。先に書いた境内の石碑はそのことを示すのだろう。となれば、養父とともに住んだのは神社境内ではなく、それに近い加島村のどこかであったのだろう。
●神社の造形―香具波志神社_d0053294_2333835.jpg 神社へのお詣りで、病の完治など、特に願いたいことがある場合、賽銭を投げて柏手を打って拝むということ以上のことをしなければ御利益がないと思うのは人間も神も同じであろう。筆者が10代半ばの頃、近所に息子3人を持つ夫婦が引っ越して来た。長男が肺の病で、大きな手術を何度かして、がりがりに痩せていた。銭湯でその体を見たことがあるが、胸の大きな傷は全長が2メートルほどもあって、また赤い絵具で線を引いたようになっていた。正しくはどういう病名であったのか知らないが、優しい家族で、筆者は親しくしてもらった。その長男がまた手術をしなければならないということになって、父親は神にすがる思いで石切神社にお詣りを何度もするようになった。一度連れて行ってもらった気がするが、その神社で父親はお百度石と本殿の前を百回歩いて息子の手術の成功を祈願すると言っていた。百度石は20年ほど前か、梅津の梅の宮大社でも突如設置された。標となる小さな石碑を建てれば済むことで、それがなくても鳥居から本殿前を百回往復すればよい。その距離は当然神社によって違うが、一往復100メートルにしても10キロとなる。これは運動にもちょうどよい距離だろう。それだけ歩いて強い願いがかなえられるのであれば安いものだ。今日の最初の写真は、手前中央にその百度石がある。これは寺にはないもので、神社の造形のひとつだ。100回も往復する時間も気力もない人は、賽銭を投げ入れて拝むだけでもいいが、それでは簡単過ぎて御利益が得られないと思う人があるだろう。そういう人には絵馬がある。これも神社の造形だ。香具波志神社には本殿に向かって右手に絵馬飾りの枠があった。2枚目の写真はその一部を写した。ほかにも絵柄があって、毎年干支の絵馬が作られているようだ。干支物でないのを望む場合は、写真左手の八角形の鏡を印刷したものを使うようだ。社務所は閉まっていて、境内には筆者ら以外の人影がなかったが、炎天であるので外出を控えているのであろう。3枚目の写真は境内を掃除する箒で、これも神社の造形に含めてよい。先日書いたように、神社は清められた空間で、清掃を欠かしてはならない。では香具波志神社の境内が隅から隅まで塵ひとつ落ちていなかったかと言えば全くそうではない。それどころか、本殿の北のひっそりとした小さな社が並ぶところは、落ち葉などが多く、全体に忘れさられたようなたたずまいであった。だが、これも猛暑のせいにしておこう。3枚目の写真のように、たくさんの箒があることは、それだけ清掃する人がいるからで、また写真からわかるように、箒はなかなか美的に並んでいて、絵になっている。4枚目の写真はその箒の列を背にして撮った。香具波志神社で最も目につくにはこれらの燈籠だ。昨日の白木の灯籠の写真とは違って、赤と緑の対比がよい。全部で70基近いのではないか。これほど同じ形のものが整然と並んでいる神社はほかに知らない。右端に「日本化学」の看板を屋根に掲げる工場が見えている。京都の神社と違って、ここは大阪の神崎川のすぐ近くだ。明治維新以後、工業化が進んだが、江戸時代からその前兆はあったろう。工場や高層マンション、それに下町独特の小さな家屋に囲まれたこの神社は、いかにも大阪らしく、また上田秋成に縁があることで筆者には印象深かった。続きは後日に。「ほう、そうかいな」
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by uuuzen | 2015-08-06 23:59 | ●神社の造形
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