祟りがあっては困るが、あまりの巨木さが偲ばれて写真を撮った。今日は5月の10日であったと思うが、家内と立命館大学国際平和ミュージアムに行った際に立ち寄ったわら天神で撮った写真を1枚だけ載せる。
もう1枚撮ったが、今日の話題にはふさわしくない。わら天神は妊娠中の女性が安産祈願に訪れる。家内も息子を妊娠している時に、腹帯を買い求めるために行ったそうだ。筆者は同行しなかったので、わら天神は名前だけ知る存在であった。初めて耳にしたのは半世紀ほど前かもしれない。わら天神とは面白い名前だが、授与される藁に節があるかないかで男女のどちらの子を授かるかを占ったことに由来するとのことだ。安産祈願で有名な神社であるので、もう筆者と家内に用はないが、長年気になりながら、またよくそのそばに行く機会がありながら、境内に入らないのは、ただその気がないからで、その気になりさえすれば簡単だ。それで近くで食事した後、足を延ばした。とはいえ、国際平和ミュージアムからでも7,8分だ。予想していたのと違ったのは、西大路通りから入って真正面に本殿があるとぼんやり想像していたが、全く違った。西大路通りに面した西口から入ると、両脇は樹木で、すぐに静かな別世界の雰囲気だ。30メートルほど進むと、道筋は右に直角に折れる。そしてすぐに広々とした境内が見えるが、右手すなわち東の最も手前は社務所だ。北正面の高台に立派な本殿があって、威圧感がある。その両脇にも建物があって、またそれら3つの建物の背後にも回ることが出来る。筆者ら以外に誰もいなかったが、すぐに60代半ばらしき眼鏡をかけたスーツ姿の男性がやって来た。どう見ても大学の先生といった雰囲気で、筆者らの姿を見て微笑み、また何やら声をかけて来た。そして返事を期待しないかのように忙しくあちこちの写真を撮っていた。筆者らより早く去って行ったが、京都の人ではないのだろう。他府県からやって来て、わずかな時間の余裕があったのでわら天神に立ち寄ったという感じだ。筆者が注目したのは本殿の西に、東を向いて建つ綾杉明神だ。色を塗らない簡素な社の中に巨大な幹がある。立て看板と一緒に全体を収めて写真を撮ったが、取り立てて特色のある建物ではない。同じようなものは松尾大社にもある。同じように長年あった、確か松の神木が倒れたので、その幹を保護するために屋根で覆っている。ひこばえはもうないはずで、いずれ根が腐って処置に困ると思うが、幹周りがあまりに大きいので、根が腐るのは長年を要する。またそれが地上に出ている部分まで影響が明らかになるのはもっと長い年月が経ってからで、雨水が幹の切り口に注がない限り、案外腐らずに済むのだろう。

松尾大社の松は切り口の上に金属性の蓋を被せているが、綾杉明神の杉もそうしていたと思う。二重の雨水の侵入防止だ。それほど大事にするのは、あまりにも長命であったので、完全に姿を消してしまうのは惜しいということだ。綾杉明神の立て看板を読んで驚いたが、応仁の乱でもその神木は被害を受けなかったというが、それが明治半ばの台風で倒壊してしまった。もう寿命であったのだろうが、樹齢がどれほどであったかわからないほど古い。切株の年輪を数えるとおおよそはわかるはずだが、たぶん1000年以上だろう。というのは、968年に詠まれた歌から、すでにこの杉が神木として立派であった様子がわかるからだ。とはいえ、わら天神がその頃にあったのではない。古くから北山の神が祀られていて、その場所は衣笠村とあるが、現在の地にほど近かったのだろう。831年にそこに氷室が設けられ、その面倒を見る人が加賀からやって来た時、ついでに故郷の地の神を、北山の神の西隣りに祀った。祭神は木花開耶姫命だ。その後、1397年に義満が北山殿を造る際、参拝に便利なようにと双方の神を現在の地に合祀した。もちろんどこでもよかったのではなく、古くからある神木の杉を取り込む形の、つまり現在の境内が考えられた。明治半ばと言えば、もう写真はあったから、絵はがきででもこの神木の姿が残っていないだろうか。今でもひっそりとした雰囲気の境内で、樹齢1000年を越える神木があれば、京都市内とは思えないほどではなかったか。西大路通りは車やバスがひっきりなしに走っている。そこを少し入れば別世界がある。どの神社でもそういうところがあるが、今後いくら京都が都会化しても、神社はそのまま残しておくべきだ。去年住吉大社に大志万さんと行った時、彼女は神木には近づかない方がいいと言った。読書家であるので、何かで読んだのだろう。綾杉明神はもう切株状態で、神木としての威力は失せている。それでも幹はそのままあるから、人間で言えばミイラのようなもので、完全に死んでいるとは言い難く、神木として別次元に生きていると言った方がよい。そういう木に接近するのもあまり好ましいことではないかもしれない。それで筆者はすぐに全景が収まる場所まで後ずさりして写真を撮った。藁で編んだ注連縄を巻かれて、樹木の横綱といった崇められ具合だ。そう言えばわら天神には朱塗りの建物や柵はなかった。