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●『青春残酷物語』
!」と叫ぶ怒った顔が目に浮かぶような大島渚だが、戒名が「大喝無量居士」であることを今ネットで調べて知った。戒名は面白いもので、生前の姿を彷彿とさせる。



d0053294_18412475.jpg大島は晩年、病に倒れて言葉が不自由であったが、若い頃からすぐに怒るところがあったことがWIKIPEDIAからわかる。1961年秋、29歳の時に「信州上山田温泉で按摩を呼んでも来ないことに業を煮やし、宿の女中を殴打するスキャンダルを起こす」とあって、これには笑った。よほど普段から癇癪を抱えていたのだろう。それにしても女中はえらい迷惑だ。罵倒するくらいならわかるが、殴打とは無茶だ。だが、そういう行動に大島監督の作品を読み解く鍵があるかもしれない。今日取り上げる映画は昨日見た。一昨日右京中央図書館から借りたDVDで、2週間前に借りた2本は見ないまま返したのに、邦画の棚に興味をそそるものが数本あって、本作はただちに借りることにした。本作が大島の20代の作品でぜひ見ておくべきものであることは、10年ほど前か、大島のドキュメンタリーをどこかで見て思った。その前に、今はタイに住んでいる友人のFから昔聞いたことがある。つまり、かなり以前から本作を見たいと思っていた。その機会がひょんなことで訪れた。予想外であったのは、1960年、筆者が9歳の時の作品であるのに、カラーの色合いがとてもきれいで、70ミリの横長画面であったことだ。28歳の若い監督に本作のような贅沢な作品を撮らせるほどに当時は映画産業が豊かであった。また、東京オリンピックの4年前で、本作のあちこちに道路を造っている場面が見え、東京が改造されて行く様子のちょっとした記録にもなっているところが面白い。そして、今と変わらないのは、男女の性愛で、本作は少し脚本を変えると今でもそのまま通用する物語だ。あるいは、異性に興味のない若者が増えているとして、彼らが見れば、本作はあまりに動物的で生々しく、今とはまるで違う時代を思うだろう。大島渚は後に『愛のコリーダ』でもっと性愛を前面に出した作品を撮るが、その萌芽は本作にすでに出ている。ただし、いわゆるポルノ的な場面は一切なく、ほのめかすことに留めている。そのほのめかしは、わざわざ描くまでもなく、男女であれば当然の行為であるとの考えによることと、描きたくても法律の壁があって不可能ということとの両方のどちらが大きな理由かと言えば、『愛のコリーダ』からすれが、本作当時の大島は後者の理由の方をより抱えていたのであろう。つまり、法律が許せば、本作は露骨と言うべき性交の場面が随所に挟まれたかもしれない。その方が若者の生態をよりよく表現するし、本作にはよかったのではないか。だが、性行為の場面を個人の想像に委ねることは、それはそれで却って卑猥さを増長させるとも言え、28歳の大島監督はそのことを思って本作を撮ったとも言える。題名は一度聞くと忘れられない強烈なもので、「残酷」がどこにどのように表現されているのかと誰しも興味を持つだろう。それは最後の場面でわかる。そして、その最後の場面は当時はそのように描かなければ不謹慎だと思われる雰囲気が世間にあったことを思わせ、大島がその世間に沿った結末を用意したことに筆者は多少拍子抜けした思いを抱いたが、それだけ世間の威力は大きく、まだ年端も行かない大学生の身分では、背伸びすればしっぺ返しを受けるとの現実を描きたかったのだ。そしてその現実は若者からすれば抑圧で、それを解消して新しい世界を造ろうとするのに、決まってそれが挫折するという現実を大島は怒りで見ていたということだ。といことは、本作の主人公の男女の大学生に、大島は同情していたのかということになるが、大部分はそうだろう。大島は枠からはみ出たような生き方を好んだ。当時映画監督になろうとすること自体がそうだろう。映画はヒットしなければ元が取れないが、そのためには大衆を満足させる必要があり、俗受けを狙うことも重要だ。つまり、娯楽的面白さは欠かせない。その一方で監督の世間、社会に対する思いを表わすことも絶対に必要で、大衆を侮ってはならない。また本作の台詞で示されるように、若者は怒りを抱えながらもやがて社会に飲み込まれて行くが、そのことに対する怒りもあって、本作は大島が感じていた社会の矛盾が攻撃されている。そしてそれは大きな反撃を食らい、若者は挫折するしかない。だが、大島は本作の主人公のように、犬死にはしなかった。
 それは社会の矛盾を映画を通じて攻撃しながら、やがて大島は本作の主人公が対峙した世間の大きな力と化したからと言えなくもないが、本作の主人公を死なせたことは、若者に同情しながら、青いままでは長生き出来ないぞとの大人の生き方を示したかったと受け取られるかもしれない。1960年の大学生とそれ以外の大人とでは、本作の主人公に対しての見方が大きく違ったであろう。大島はどちらの側に立ったかだが、28歳の映画監督という立場を考えると、無謀な大学生の思いや行動を理解しはするが、それでは挫折が待っているだけと冷静な思いが勝っていたのではないか。だが、先に書いた女中殴打事件からは、まだ怒れる若者のままで、本作の主人公と大島の姿がだぶる。さて、本作の最初は、夜の街の場面で、アメリカの大きな車が停まっているところに大学生の女が乗せてほしいとやって来る。今では車で女を釣ることはよほどの高級車でないと無理だが、1960年では車そのものがまだまだ少なく、また本作ではフォードの大型車が登場し、そのような車に乗っている男が若い女から見れば頼もしく見えたのは無理もない。若い女性は、ただその若さによって男からちやほやされることを知っているし、自分が男を選ぶという考えを抱いている。ところが、見知らぬ男の車に乗ることが危険なのは今も昔も同じだ。バスで帰宅するのが面倒で、街中の外車に声をかけて乗せてもらおうとする娘は、当時の常識に照らすと、ふしだらで、どのような被害に遭っても文句は言えない。本作はまずそのような娘を登場させる。だが、ふしだらであっても20そこそこの娘が男を欲しないことは異常で、彼女が外車に乗る男に声をかけ、乗せてもらおうとすることには、幾分かは性への強い関心がある。その点は今も同じか、あるいはもっと開放的になっていて、高校生でも処女を失う女性は大勢いる。それどころか中学生でも多い。そして、そういう子は大人の男性から金を引き出すにはどうすればいいかを知っているし、またそういう行為に及ぶ子どもは少なくない。本作はそういうことを先駆的にテーマにしていて、金を持っている男からそれを巻き上げ、若い男を遊ぶという筋立てだ。だが、そういう反社会的なことが長く続くはずがないし、またそのように描く映画が歓迎されることはあり得ない。悪いことをした者は罰せられるというのが世間の常識で、本作の主人公はふたりとも呆気なく死ぬ。だが、彼らは本当に悪いことをしたか。そこが大島監督が投げかける問題でもある。彼らの悪事はもっと大きな悪に比べるとかわいいものだ。その大きな悪とは、中年以上の連中が司っている。大島からすれば旧世代だ。彼らの立場は頑として揺るがず、しかも腐敗している。そういう連中から金を巻き上げるのは、懲らしめるためと言えなくもない。先日、女子大生が睡眠薬入りの飲み物を飲ませて中年男性からクレジット・カードを盗み続けていたという事件があった。逮捕された彼女は、金目当てもそうだが、奥さんがいるのに若い女性と寝たがる男を懲らしめたかったと警察で言った。それは全くの嘘でもないだろう。それに、彼女の理屈は、男がしている悪いことに比べて、自分がクレジット・カードを盗むことはさほど悪くないというもので、それは世間をある程度は味方につけることが出来るだろう。その女子大生に金を払う男はまだましで、そんなことをせずに、こっそり撮影した性行為の映像をネットに流して大金を稼ぐ中年もいて、女の方が被害者であるとの考えは世間では一般的だ。本作の主人公の女性は姉がいる。彼女は身持ちが固く、妹が女遊びが派手そうな、そして金のない大学生と同棲を冷ややかに見る。彼女も昔は理想の社会を目指し、同じ考えを抱いている男性と恋愛したが、いつの間にか夢破れ、今は世間に歯向かわずに生きている。姉の元恋人の男は、今は街の小さな診療所の医者となっているが、アルバイトで非合法な堕胎手術をしていて、そのことを自嘲気味に自覚している。姉は妹が案外長らく同棲のし続ける様子を見て、自分の想像が間違っていたと感じ、それと同時にかつて自分が理想に燃えながら恋人と別れたことを後悔もする。時代が違うから仕方なかったとの思い以上に、自分は妹ほどに勇気がなかったと思い始めるのだ。
 妹は先に書いたように、見知らぬ男が運転する外車に声をかけて平気で乗る。男は若い女がそのように近づいて来ると、当然セックスが出来ると思う。そのことを女も知らないはずがないが、あまりがつがつした男は嫌で、自分のことをとにかく好きになってくれる男でなければならない。だが、男からすれば口でどのようにも言える。好きと言えばセックスが出来るのであれば、男は好きでもないのにその表現はいくらでも使う。そのことを女がどれほど知っているかとなると、20歳くらいでは無理かもしれない。ともかく、本作の主人公の娘は、車は持っていないが、強引に接近して来た大学生の男に惚れる。丸太をたくさん浮かべた場所で、たぶん江東区の木場という場所と思うが、1960年当時はまだ海であったのだろう、そこにふたりは行って女は男から半ば暴力的に犯されるが、男が露骨に言い放ったように、女はセックスへの関心があって、それを満たしてやるために男は男の役割を演じた。性行為を済ました女は自分のことが好きかと訊くが、それは今でも変わらない女の姿で、女は好きと言ってくれる男に身を任せることは罪ではないと考える。好きと言わせることで、自分の後ろめたさを忘れると言ってもよい。そうして最初は嫌な素振りを見せた女はたちまち男に夢中になる。それは男との性行為と言い代えてもよい。一方の男は学生であるので金がない。それで家庭教師先の中年の女性と寝ることによって小遣いをせびる。若い男からすれば、自分は同世代の娘と寝ることも出来るのに、わざわざ中年女とセックスをすることは、金でももらわねばやってられないという思いがあり、その言葉を中年女に向けて発する場面もある。若い肉体をほしがるのは男だけとは限らないという現実を描いている点で、本作は性を主題にしていると言えるが、本作のふたりの大学生はどちらも性を金に換えることをいいことは思っていない。後ろめたさというより、そういう行為を重ねることで性を買う連中はびくともせず、つまり失うものが何もなく、自分たちだけが損をするとの思いだろう。実際そのとおりで、若い性を換金することは虚しい。だが、大学生の同棲では金に困る。そこで男は女に言い寄って来る男から金を巻き上げることを考える。車で家まで送って行ってもらいながら、バイクでその車を追いかけて来た大学生の男に因縁をつけさせ、中年男から金を得る。何度かそうして金をせしめるが、ふたりの間に行き違いがあり、女は今までとは違う、優しい中年男性に体を許してしまう。そこにもその女の無防備さがよく表われているが、それほどに心身ともにさびしかったのだろう。また、優しくしてくれる男なら誰でもよかったのだ。それは男とどう違うだろう。大学生の男は家庭教師先の母親とベッドに入って金をもらっているが、男にすればそれは金目当てであって、好きでセックスをしているのではない。一方、女子大生は、金をくれるわけではないのに、ただ紳士であるからという理由だけで、同棲相手がいるのに、一夜を明かしてしまう。20歳くらいの女はそうなのかもしれない。処女でなくなれば、何人と寝ても同じと思うのか、あるいは同棲相手に嫉妬させるために、別の男と寝る。ところが、本作を見る大半の人はそういう奔放な女は否定的に見るだろう。結果、最後の場面で女は見知らぬ男が運転する車から逃げようとして、ドアを開けた途端、頭を地面に擦って死んでしまう。
そのような顛末を迎えるまでに、彼女は同性相手の子を妊娠し、その子を堕せと言われ、その言葉にしたがって、前述の街医者に駆け込んで手術してもらう場面がある。性行為を重ねれば妊娠するのはあたりまえで、また堕胎するにも金が必要であるから、たちまちふたりの生活は暗礁に乗り上げる。男は金の工面で奔走するが、いつか悶着を起こしたやくざに絡まれ、暴力を受けた挙句死んでしまう。その前にさらに書いておくべき場面がある。女子大生が寝た紳士は会社の社長で、いい金蔓になると思って大学生の男が脅して金をせしめる。ところが、その社長は普通の中年ではなく、そのことを警察に告発し、ふたりの大学生は逮捕されてしまう。若い娘と性行為したことは、その社長からすれば同意の上で、買春ではなかったとの思いだ。それはそのとおりで、女子大生の方も金が目当てで寝たのではない。だが、中絶費用に困っている男からすればその社長を揺するしかない。同棲したふたりは金があれば楽しく暮らせたが、貧しい学生ではそういう暮らしは無理だ。背伸びしたことが悪いという教訓を描いたものと見る人は多いだろう。学生は学生らしく真面目に勉学に励めという声も聞こえて来そうだが、誰もが抱える悶々として性行為への渇望をどう手なづけるか。そのことに、金のある中年は平気で若い性を買うことが出来るという現実を対比させ、残酷にも散って行く若者を浮かび上がらせる。本作で印象深い場面として、安保反対のデモ行進がある。それと、韓国での学生運動のモノクロ映像だ。これはニュース映像を買って挿入したのだろう。学生運動に身を投じる大学生とは違って本作の主人公たちは、遊び回る。酒の出る場所に出入りし、そこではロックンロールが鳴り響き、そのリズムに合わせてふたりはよく踊る。学生運動にはまるで関心のない生態を描きながら、ノンポリの彼らが犬死にして行く様子を描くことで、大島は若者に政治に無関心であるなと言いたかったのだろうか。というのは、本作と同じ年に安保闘争をテーマに映画を撮っているからで、中年から金を巻き上げる生活を続ける若い男女は、結局それがうまく続いても、やがて若い性を金で買う側に回るということを思っていたかもしれない。では本作に何か夢があるかと言えば、古い社会の悪弊をぶち壊すには、刹那的では駄目で、それ相応の策略が必要だということではないか。相手がしたたかで頑丈であるほどに、それに抵抗するには仲間や組織、決意や論理が欠かせないだろう。だが、学生運動が敗退することで、それも夢物語であったことがやがてわかる。そうして残ったのは大島監督に限らず、名作と言われる作品のみで、いろんな見方がなされ得るほどに、作品の生命も長らえる。本作はどこかファスビンダーの作品を思い出させたが、彼は本作を見たであろうか。
by uuuzen | 2015-07-26 23:59 | ●その他の映画など


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