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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『ポール・クローデルと京都画壇』
11日に須田国太郎展を観た後、そのうえの階の常設展に立ち寄った。いつも大体同じ作品が展示されているので、その時も何も期待していなかった。



ところが、時計周りとは反対に右側から入って奥へ進むと、ちょうど中ほどでこの小企画展示があった。これは予期していなかった。今年はポール・クローデル没後50周年だそうで、それを記念したものだ。ポール・クローデルの名前は、日本ではカミーユ・クローデルの弟であることで一気に知られるようになったのではないだろうか。カミーユとロダンの愛憎劇が映画化されて話題になったのは80年代末頃だったと思うが、弟のポールの名前は詩人として有名であるにしても、フランスでは詩人が多いため、日本では幅広く読まれているとは言いがたいのではないだろうか。筆者は嵐山に住んでいることもあって、冨田溪仙には大いに関心があり、またその作品を非常に愛して、いくつか所有もしているが、溪仙とポールが少なからず関係が深いことは昔から知っている。溪仙の有名な『神庫』は奈良の正倉院と鹿、松を描いたもので、その本作がフランスに所蔵されていることや、ポールの詩との共作の小さな絵がいくつかあることも知っている。つまり、溪仙がらみでポールのことを視野に入れて来たと言ってよい。今回のこの展覧会はそんな意味で改めてポールが日本で成したことが端的にわかる内容だ。うすくて安い図録が2冊売られていて、そのうち1冊だけ買って来た。今しがた読み終えたばかりだが、けちらずにもう1冊も買ってくればよかった。たぶん次に京都近美を訪れてもまだ売っているだろう。というのも、ここしばらくの企画展の図録は大抵みな売店には揃っていて、これはありがたい。本当はそうあるべきで、すぐに品切れになるのでは、展覧会を企画した意義もすぐに忘れ去られる。ポール・クローデルは1868年生まれで1955年に死んだが、正面の顔写真を見ると、目のあたりが姉カミーユによく似ている。カミーユはポールの4歳年上だ。ポールはずんぐりした体格であるので、たとえばジャン・コクトーのような痩せ型のダンディゆえの格好よさに欠けるが、そのことがポールの日本での人気度を低くしている原因でもないかと思う。ちなみにコクトーはポールより21歳年長だ。カミーユがあのような激しい芸術家であるので、弟も素質を受け継いで、絵を見る目も持っていたはずだ。そして、ポールは若い頃から日本に憧れがあった。買った図録によると、日本を訪れる最短の方法が外交官になることだと思ったとのことで、ポールは来るべくして日本に来たと言える。だが、簡単に日本に着任することは出来ず、大使に昇格して訪れたのは大正10(1921)年だ。50半ばの年齢になっていた。もっとも、22歳で外務省試験に合格してから、副領事や領事として1900年の前後14年間を中国で勤め、最初の3年間の駐在の後、1か月の休暇を取って長崎から日光までを往復しているから、よほど日本に来たかったことがわかる。続く1910年代は主に欧州に駐在し、アメリカやブラジルを回り、そして日本に赴任したが、この頃は日本はややこしい時期で、外交的には孤立していた。
 当時の日本はドイツからあらゆる面で大きな影響を受けていたが、ポールはフランスがインドシナを植民地として持っているゆえ、日本とは共通の利害があるとフランス外務省に主張し、日本とフランスが公式に接近する政策を進言したが、政府がポールに伝えたのは、日本におけるドイツ的の勢力と戦えというものであった。そのひとつの結果が日仏会館の設立となった。筆者はドイツ文化センターにはよく訪れるが、京都にある京大近くの関西日仏会館は敷居が高く、行ったことはない。蹴上にも90年代に新しく建てられたが、そこを訪れたのは数回だ。どうもドイツ文化センターの方が庶民的な感じがあり、また行くのにもかなり便利なため、ひいきにしてしまう。それはさておき、東京の日仏会館のオープニングはポールの任期中に行なわれ、ポールは重要な演説もしたらしい。そう考えると、日本とフランスの今に続く関係はポールの負うところがそうとう大と言わねばならない。そのポールが京都を愛して8回ほど訪れ、ローマとダマスカスと並んで世界で最も好きな都市と発言していることは、京都に住む者にとっては何だか誇りたい気分だ。だが、ポールが見た京都と今の京都は恐ろしく違うだろう。嵐山の溪仙の家を何度か訪れたポールだが、その溪仙の住んだ家にしても1980年代末のバブル期に一気に家の前半分が人手にわたり、また嵐山界隈も随分と変化をしたから、戦前の嵐山を知るポールが今の姿を見れば恐らく嘆息することだろう。ポールが愛した古都としての京都と、そこに住んで活躍した日本画家を今の時点で見つめると、悲しいほどに京都がうらぶれて見える。横山大観がいみじくも言ったように、100年にひとり出るか出ない大画家の溪仙に比肩する才能は京都からはもう当分出ないだろうし、京都画壇という言葉そのものが今では空疎に思える。溪仙は文人画家の京都における最後の伝統であったと思うが、そうした文人趣味が詩人のポールとは相性が合ったのかもしれない。ポールから依頼を受けて溪仙が描いた『神庫』は、パリの当時の国立近代美術館であったリュクサンブール美術館に贈られたが、日本でも溪仙は今では玄人受けする画家になっているため、パリでのその作品の扱いが気にする人がどれだけあるだろう。もっと溪仙展を開催したり、研究本が出版されるべきと思うが、それがないのは、もう溪仙のような絵の伝統が途絶えていると諦めているからだろうか。溪仙から池田遙邨へというつながりで見れば、決してその軽妙な筆使いの伝統は途絶えていないと思うが、溪仙は院展に出品し続け、京都画壇では孤立したような存在であったことも理由としてあるかもしれない。また、ついでに思うのは、溪仙が学んだ生粋の京都人で孤高狷介かつ温かみ豊かな都路華香にも筆者は興味と関心が大きくあるが、展覧会が開催されることもないどころか、まともな画集1冊すら企画されない。ましてやその師の幸野楳嶺に至ってはさらに知る人は少ないかもしれない。
 話がえらくそれて来たが、楳嶺の話になったので書くが、その同じ門下の竹内栖鳳のみ際立って今も有名で、その栖鳳と、そして滋賀の膳所生まれの山元春挙、溪仙の3人に今回は焦点が当てられて作品が並んでいた。3人ともここ20年内に展覧会が開催されているから、名声は安定していると言ってよいが、春挙はやはり滋賀県美がかなり力を入れていて、これはなかなかいいことだ。だが、正直な話、春挙の日本離れした雄大な山や山林を描く絵は、今見ると上手過ぎて面白味に欠ける気がする。これはコロー風の水墨画とよく言われる栖鳳にも言える。どちらも写実的で、これ以上はないという筆捌きの巧みさを見せるが、筆者個人の好みを言えば溪仙の絵の方が数倍楽しい。溪仙は字も絵もかなり個性的で、遠近法を無視し、着彩も荒っぽく見えるが、それでも絵が全く濁らず、透き通った、そして自在な楽しい境地がほとばしっている。どんな小品でもすぐに溪仙とわかる癖があり、一旦その味を好きになると夢中になる。大観が言った先の言葉はおおげさではなく、真実だと思う。また溪仙のその天才をよく知っていた大観もさすが大観だ。だが、筆者は大観より溪仙の方が大画家と思う。図録には、栖鳳と春挙に絵をリュクサンブール美術館に寄贈してもらったお返しとして、ポールが政府に働きかけてふたりにレジオン・ドヌール勲章を受賞させることに成功したことが書かれているが、ふたりよりもっと深い仲であったはずの溪仙は同勲章をもらっていない。深い仲と言うのは、先にも少し触れたが、溪仙の絵にポールがフランス語で短い詩を添えた作品が、詩集を初め、いくつもあるからだ。それらは1923年から1934年頃までにわたっていて、ポールの詩はちょうど画賛のように見える。つまり、当時最新の洒落た文人画の趣が漂っている。
 会場ではポールと溪仙の共作として『扇面図(『百扇帖』の一句)』から1点が展示されていたが、それは溪仙の印章も真っ黒で、どう見てもコロタイプか石版の複製であるのに、「紙本水墨 個人蔵」となっていた。これは「印刷」と断っておくべきだろう。この『扇面図』は有名でよく画集に掲載されてもいるが、『百扇帖』の成立した経緯について図録に詳しいのがありがたい。そこには小柴錦侍という人物の存在がある。図録から少し引用する。「明治23年、日本の石版印刷の創始者として有名な、小柴英の次男として、東京千代田区…に生まれた。明治44年東京高等工芸学校を卒業後フランスに留学、9年間同地に滞在し、大正9年に帰朝した。フランスではモーリス・ドニのアカデミー・ランソンに入学し、更にルーブル美術学校に学び、欧州各国の絵行脚などもしている…」。だが、錦侍の作品は関東大震災や戦災によってほとんどの作品を失い、美術館での所蔵例もないという。その錦侍がクローデルの肖像画を描いていて、それはやはりモーリス・ドニ風だが、こうしたフランスに長年留学しながら、画家として名前が伝わっていない才能があることを知って、改めて運命の残酷さを感じる。もっとも、本人は絵は道楽とみなして、父親から継いだ印刷業に精を出していたらしい。ポールの通訳や翻訳を務めるなど、また採算を度外視して、凝った印刷と蔵本の短詩集の『百扇帖』を1927年に出版したが、そんな陰の人物がいることも今回初めて知った。昨日、鹿子木孟郎が昭和7年にレジオン・ドヌール勲章を贈られたことを書いた。図録からはそれに関連することもわかった。栖鳳や春挙が同勲章を贈られたのは大正末期のことだが、ポールが日本を去ったのは1927年で、その後は二度と日本の土を踏まなかった。そしてポールはその在任中、日本画家だけではなく、先の小柴錦侍を初め、二科会の中心メンバーである石井柏亭といったフランスに留学した経験のある洋画家と交流を頻繁にしていた。これはポールがいくら日本画家により関心があったとしても、大使としては当然のことだ。そんな交流がポールの次の駐日大使にも続いたであろうし、そんな中から新たにレジオン・ドヌール勲章を与えられる洋画家が出て来るのもまた想像出来る。つまり、鹿子木孟郎がフランスから勲章を贈られることのきっかけはポールの赴任にあったのだろうということだ。それほどポールの日本びいきが大きく、そのポールの日本に寄せる愛情と、実際の赴任によって、日本とフランスの関係の基礎が大きく作られ、それが今に至っているという意味においてもこの展覧会を開催する意味があった。だが、それにしてはあまりにも小さな規模の展示であり、これでは日仏の文化交流が泣きはしまいか。今はもう栖鳳や春挙、それに溪仙の絵を仮にたくさん並べても、若い人々からはあまり関心を払ってもらえなくなっているのかもしれない。アニメといった新しいメディアが民間レベルで活発に交流しており、もはやレジオン・ドヌールがどうのという時代でもないのかもしれない。
by uuuzen | 2005-11-14 23:55 | ●展覧会SOON評SO ON
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