俄かに見えて本当は遠因があるというのが何事においても言える。その遠因はさまざまだが、今は何でも自己責任とされがちで、頑張りの足りない者は頑張る能力のなさが自己責任と言われる。
その一方、たいていは誰にでも親があり、その親の経済的能力の下で子は育てられるから、生まれて物心ついた時に自分の家が世間的に平均以下か以上かを知ることとなり、世の中の矛盾を感じる。だが、それを言えばすべての人がそうだ。経済的な優位は切りがないからだ。家内から聞いた小学生時代の級友の話の中に、家がとても貧しく、一部屋に5人ほど住んでいる女子がいたそうだ。彼女は自分の家のことを知らない女子には、いつも嘘をつき、御殿のような家に住んでいると吹聴していたそうだ。虚言癖だが、小学3,4年生ではそういうこともあるだろう。それほどの虚言ではないが、男の場合も自慢するものを何か見つけて言いたいもので、筆者が小学生の頃にもそんな男子がいた。家内からその女子の話をこれまで三度は聞いたと思うが、そのたびに筆者はその女子が今どのような暮らしをしているかと思うと同時に、彼女がそのようなすぐにばれてしまう嘘を日常的につかねばならないほどの貧困さであったことを痛々しく思う。彼女は物心ついた時に、自分の家がなぜ漫画などで見る恵まれた家庭ではないのかと悔しかったのだ。筆者の中学生の時に級友にそのような話をしたことがある。義務教育ではみんな同じ机で学び、そこには差別、区別はない。だが、帰宅すれば金持ちと貧しい家との生活の違いを感じざるを得ない。経済的に恵まれた家では学習塾に行かせてもらったり、参考書をふんだんに買ってもらったりするなど、学力向上にとても有利だ。つまり、平等な義務教育に見えてそうではない。簡単に言えば、子どもは生まれて来る親や家、国、時代を選べない。それで自分がまるでお姫様でお城のような家に住んでいることを妄想し、それを本当のことであるかのように級友に語る子が出て来る。そういう子は金に目ざとくなり、大人になって経済的に成功する可能性が大きいだろう。それで本人が幸福だと思えるのではあればそれでよい。大人は子どもが大きくなったものであるから、大人の行動は子どもの頃の生活に遠因があって、たとえば世間を騒がす大事件を起こしたとして、それは俄かに思いついて行動した結果ではなく、子ども時代に原因があるだろう。そして、それはその子を育てた親や環境、時代にも原因があって、自己責任として当人を罰するだけで問題が解決することはない。だが、それを言い始めると、大人は他人にどのような迷惑を及ぼしても、本人の責任ではないということになって、同様の事件はなくならないだろう。それで、手っ取り早く、合理的に、大人の行動はすべて自己責任が伴うというように家庭でも学校でも教育する。そこに矛盾がないと思うのは、恵まれた環境で生まれ育った人だ。筆者くらいの年齢になると、人間のおかしなところが多々見えて来るもので、偉そうにしている政治家がみな調子のいい自分勝手な連中で、そういう彼らに統率されている国家というのもお笑い劇場とさして変わらないように思える。そういう世界では、正直者は馬鹿と同義で、正直者と周囲からおだてられる代わりに、肝心の実入りはおだてる連中がかっさらって行く。先日新幹線で焼身自殺した男性は、お笑い劇場としての国において、何かびっくりさせて一泡吹かせたいと思ったのだ。それは暴力だが、世間ではもっと巧妙に暴力が仕組まれていることを彼は熟知した。年金が減らさせたということがそれだ。有無を言わせぬ暴力を国民に広く行使しながら、そういう暴力を計画する連中は収入が減るではなしで、文句を言わないおとなしい人たちをぎりぎりまで追いやる。だが、それはいつの時代のどの国においても見られることで、人間は結局不平等な動物だと悟るしかない。つまり、生まれ落ちた環境を飲むしかない。そこから自分の開拓人生が始まる。
今日取り上げる映画は先日書いた『陽のあたる場所』と一緒に右京図書館で借りたDVDで、同じアメリカ映画で、製作も1949年だ。それもあってか、とても似た内容で、貧しい青年が殺人を犯して最後は電気椅子送りになる。また、陪審員裁判の場面が長いことでも共通するが、本作は弁護士と犯人の心の通いに主題を置き、社会的弱者への温かい眼差しがより感じられる。そして『陽のあたる場所』と大きく違うのは、キリスト教の要素が出て来ないことだ。では、主人公は何に慰められて電気椅子に向かうかと言えば、弁護士が彼に約束する言葉だ。それは同じように恵まれない青年のために今後も弁護するということで、それは死刑宣告された主人公からすれば自分の死後のことでどうでもいいと言えるが、本作はアメリカ映画らしく、そこは主人公があっさりと弁護士に希望を託すという形に描かれる。そのことで主人公は本当は心優しい人物であったことが観客に再確認され、観客は後味のよさを覚える。本作は弁護士アンドリュー・モートンをハンフリー・ボガード、犯人のニック・ロマーノをジョン・デレクが演じるが、筆者はマーロン・ブランドかと勘違いした。本作当時23歳で、初々しい感じが出ている。彼は本作の中では「プリティー・ボーイ」と呼ばれ、そのベイビー・フェイスぶりに街中では人気があるという役柄だ。ロマーノという姓はイタリア系か東欧系のつもりであろう。そこからはニックが恵まれた経済状態の育ちではないことが予想される。彼の貧しさは父が獄中で死んだことからいっそうひどくなる。しかも父が刑務所送りになったのは、正当防衛で人を殺めたことが裁判で認められなかったからだ。その裁判で弁護を引き受けたのがモートンで、そのことでニックと知り合う。そして、何かと援助するようになるが、それはモートンも若い頃はニックと同じように貧しく、荒れた生活を送っていたからだ。そういう人物が努力の末に弁護士になったが、自分の看板を掲げるほどではない。そこで同僚からモートンの名前も会社名に加えてもいいと提案されるが、それには条件があって、ニックの弁護をするなと言われる。話が先走り過ぎだが、本作は最初警官が銃で撃たれて死ぬ場面から始まり、その後ニックが逮捕されてニックはかつて父を弁護してくれたモートンに連絡を取って弁護を依頼する。そして法廷の場面となる中、モートンはニックとの出会いを陪審員に説明するその内容が、ニックとの出会いと彼が法廷に出るまでの回顧の場面として描かれる。その意味で本作は法廷映画で、主役はハンフリー・ボガードだが、回想場面ではニックが中心となる。警官が撃ち殺される場面では、帽子を被った男がニックかどうかは観客にわからない。そのため、ニックは父と同じように冤罪となって死んでしまうように観客には予想されるが、検事の執拗な追求にニックはついに警官を撃ったことを自白してしまう。それがほとんど最後の場面だ。そのことによってモートンの形勢は一気に悪化するが、彼は諦めずに、ニックを生んだ社会が悪いと述べる。それは正論だが、裁判には直接関係のない話で、死刑判決が下される。モートンは父子の弁護をしながら、どちらも救うことが出来なかったから、ニックに最後に伝えることはどこかドン・キホーテのように滑稽だ。弁護士仲間からニックの弁護をするなら、モートンの名前を会社名に加えるのはやめるとモートンは言われるが、それは誰が見てもニックはそういう事件を起こす札付きに見えたからだ。実際そのとおりで、父が死んだ後、ニックは盗みを繰り返し、悪の道に染まって行き、万引きがエスカレートしてもっと大きな金を狙うようになる。そういうことをモートンは知っていて、もうほとんどさ匙を投げているが、モートンの恋人がニックの弁護を引き受けろと迫り、それが断れなくて受ける。それに、モートンにすればニックの父が獄死した理由の多少は自分の責任でもあると思っていて、ニックを自分のようにまともな生き方をするように導きたがっている。
またニックも本来は真面目であったから、きっかけがあれば後ろ指差されない生き方をしたいと思っている。そうして純朴な若い女性と出会い、心を入れ換えようとする。ある日、ニックは仲間と一緒になって盗みをしようと、タバコ屋に入る。そこで応対に出たのは20歳そこそこの女性だ。一瞬ためらったニックは、彼女にキャラメルが1個いくらと訊く。1セントと知ると5個買うが、袋に入れてもらったものを受け取った瞬間、彼女は奥の部屋に引っ込む。叔母が寝込んでいるのだ。ニックは誰もいなくなったのを幸いに、タバコをつかんでポケットに入れるが、すぐに出て来た彼女から叔母とふたり暮らしであることを聞かされる。そしてニックはタバコ代を支払、キャラメルをもう5個買う。ニックはそれまで商売女の類を見続けて来たので、タバコ屋の薄幸そうな娘が清らかに見えたのだが、そこには自分の本当の姿を重ねたかったのだろう。ふたりはたちまち恋に落ち、ニックはまともに働くようになる。だが、前科者ではどこへ行っても嫌味を言われ、長く続かない。偏見の目を嫌というほど知ったニックはまた昔の商売に戻ることにする。当然妻は大反対で、妊娠していることも告げるが、昔の仲間に誘われて窃盗に出かける。そして妻は絶望から自殺してしまうが、そこでニックはもう生きる希望を見失った。警官が撃ち殺される最初の場面の帽子男はやはりニックであったという思いがするが、それはニックが警察に憎悪を抱いていたことからも想像がつく。父の獄死は、正当防衛が認められなかったためだが、まずそこで警察に憎悪を抱く。もうひとつは、ニックが仲間と一緒に服役した時、体調が悪い仲間に対して刑務官は何度も床掃除をさせ、またホースで水をかけるなど、虐待がひどく、そのために仲間のひとりは父と同じように獄中で死んでしまう。それで警察への恨みを募らせるが、世間の視線にさらされないところでは監視側はどれほど非情なことをするかは現在でも変わらない。モートンはそういうことをよく知っていて、ニックの犯罪は、生まれ育った環境の悪さにあると力説する。本作の最初の場面は夜のスラム街で、貧しい人たちがひしめいて暮らしていて、女の子が外で遊んでいる様子がわずかだが見える。そういう場所で警官が殺されるが、人が多い分、目撃者もいた。彼らは法廷で証言するが、ほとんどは検事や警察に丸め込まれ、金品を握らされている。つまり、警察にとっては、厄介者のニックをこの際死刑にして消してしまうのはいい機会で、彼が犯人でなくてもよいとの考えだ。ニックを殺せば、ニックの予備軍を増やさないことに効果的ということは、警察でなくても街の人たちは思っているかしれない。あるいは、悪さで目立つ者は電気椅子送りになるとの恐怖を植えつけるのに効果がある。モートンはそういう現実を知っているが、社会環境の悪さを雄弁に物語っても、罪は罪で償うべきとの考えが勝利する。ニックにすれば妻を自殺に追い込んだので、生きていても希望はなかったが、それでも藁をつかむ思いでモートンに連絡して来たのは、それまで何かとモートンに気を使ってもらっていたからだ。ここは大事で、生きる希望を失いがちな者にとって、経済的援助もさることながら、心から親身になってくれる人物は欠かせない。モートンはニックがさんざん悪いことをするので、恋人相手に自分のように這い上がれないのは、結局はニックが悪いからだといった冷たい表現する。それは正直な思いだ。同じ貧しい環境にあっても、誰もが同じ悪の行為をするとは限らない。それどころか、何もかも恵まれた環境に育っても、精神が腐り切ってしまう者もいる。あらゆる境遇の人間がいる社会では、あらゆることが起こるのは当然だが、自己責任という言葉は勝者のもので、そこには他者のことは素知らぬ顔をするという思いが見えている。経済的にきわめて恵まれて育った者は、貧しい者を少しでも助けるというのが人間的と思うが、貧しい者でも頑張れば自分たちのようになれるはずと言い放つのが大多数だろう。そうそう、本作ではニックらの盗品を安く買い取る夫婦が出て来た。彼らはニックらのような連中がいることで金儲けをしている。それを言えば警察もだ。そうであるから、モートンが貧しい社会をなくすべきと訴えても、それはよけいなおせっかいだ。暗黒へ転落して行く人をなくそうと言うのであれば、政治家などはみな真っ先にその槍玉に挙げられる。