葵と桐なら桐の方が圧倒的に気高い。筆者は桐の花が好きで、屏風やキモノに染めたことがあるが、評判がよかったのか、どれも売れて手元にない。それはさておき、桐も葵も実物を見たことのある人は少ないのではないだろうか。

桐はだいたい山に育って花が咲き、遠くに紫色の花が見える。葵はアオイ科の植物かと言えば、三つ葉葵の御紋の形をした葉は別の植物だ。これは京都の葵祭りの時にしか話題にならず、林のあまり日が当たらないような場所に咲く目立たない野草だ。どうしてそのような植物が徳川家の紋章になったのだろう。今日取り上げる展覧会のチケットやチラシには、上部に五三の桐、下方に三つ葉葵の紋を印刷し、これはいかにも大阪で開催する展覧会で、大阪人の意地が見えている。その意地が悪いと東京の人は言うかもしれないが、郷土愛というものがある。徳川家を見下ろす位置に豊臣家があると、判官びいきの大阪人は考えたいのだ。このことでさらに面白いのは、チラシ裏面の最初の2点の出品作だ。最初の写真は「方形桐文金箔瓦」で、その次すなわち隣りに「三葉葵文鬼瓦」が写っている。前者は金箔がほぼ完全に残っていて、どこにも欠けがない。そのような状態で出土したのだ。後者は鬼瓦の鬼の顔の部分に三つ葉葵の紋章が浮き彫りされているが、金箔はなく、また片方の脚が欠損している。この2枚を比べると、秀吉の大坂城の方が立派であったかのように誰でも思う。本展を企画した学芸員たちが意地悪であったのではなく、後者の瓦は完全な形のものが発掘されなかっただけだが、それにしても時代が古い前者が完全に残っていて、後者がそうでないのは、考古学は大阪人に味方しているかのようで、またそのことを本展の企画者たちは喜んでいるかのようだ。さて、今年2月に天王寺でイルミナージュという電飾の催しがあり、そこで使われたイルミネーションは桜の季節に大阪城西の丸庭園で再利用されたが、それは見に行かなかった。そのことをブログに書いた時、大坂の陣から400年を記念した展覧会が催されることについて触れた。その展覧会が本展で、いつ行ったのか忘れたが、たぶん今月に入ってすぐの頃で、家内と見て来た。写真撮影可能な箇所がたくさんあって、土人形を多く撮って来た。それらを全部載せるには、3,4回の投稿に分ける必要がある。とはいえ、それほど書くべきこともあると思えず、さてどうしようかと思いながら投稿の機会をうかがっていた。そのことは、最近の投稿にそれとなく表われている。もちろん筆者しかそれは知らないが、たとえば枳殻邸の印月池にある島が秀吉が造った京都の御土居を転用したことだ。それに東本願寺も多少は関係がある。また、以前戊辰戦争について書いたが、本展はそれとも関係がある。それに前述のように出土した土人形が数多く展示され、それは筆者の伏見人形への関心とつながっているなど、切り口がたくさんあって本展の感想はまとまりがつかない気がしていた。今もそうで、結局いつものように思いつくままの即興で書くしかない。それもさておき、前知識なしに本展を見て、かなり思っていたことと様子が違った。天王寺イルミナージュは真田幸村をえらく取り上げていたので、合戦の様子を詳しく紹介するものかと思っていたが、それは全くなく、副題にある「考古学が語る近世都市」で、発掘品の展示だ。つまり近世絵画などの美術品は除外されている。そのため、美術ファン向きではなく、発掘ファンが見れば面白い。ただし、前者と後者は完全に分離出来ない。ギリシア彫刻はどれも発掘品であり、土の中から出て来るものでも超一級の美術品はある。

先頃淡路島の土建屋の砂山で見つかった銅鐸もそうだ。とんでもない大発見で、銅鐸の歴史を書き換える必要があるほどのものだが、そういう期待を考古学者は常に抱いている。そして、発掘出来る機会を気長に待っているが、それは都市部では新たに道路や建物が造られる時にだいたい限られる。「ちょっと待った」をかけて、地層を掘るのだが、そのことで長らく不明であったことがわかることが多い。それはピン・ポイント攻撃のようなもので、考古学者が生きている間に出会える大きな新発見事はそう何度もないだろう。本展はこれまでの考古学の成果を見せるもので、いわば現在わかっている最先端のことを紹介するものだ。それでも不明なことの方が圧倒的に多い。それは発掘出来ない場所が圧倒的に多いことと、それに掘ったところで何か目覚ましい発見があるとは限らないからだ。そのことで思うのは、地中に捨てられた物の寿命だ。当然ながら、土中で腐蝕して跡形がなくなる有機物は掘っても出て来ない。骨でもなくなる場合がある。工芸の分野では、陶磁や金工に携わる作家は染織より力を持っていることが普通だが、その理由は、染織品は脆弱で、陶磁器のようにほとんど永久的に作品が残らないというもので、そのように言われると、染織家は不安になり、またなろうとする若い人はますますいなくなってしまう。それでたとえば染色のK先生と昔その話題になると、先生はどんなものでも消え去るのであって、年数が長いか短いだけのことだと言われた。そのようにでも思わないとやっていられない。筆者の意見は少し違い、一流でない作品は陶磁器であろうが金工であろうが、すぐに処分されるというもので、物として風化しにくい以前に、まずその作品に普遍的な美的価値があるかどうかだ。それで、永久的に自作は残り得ると自惚れている陶芸家の作品など、数十年で消えると筆者は内心思うことにしているが、それにしても発掘品を展示する本展のような機会にはまず絶対に染織品は並ばない。壊れてはいるが、土の中でそのまま形が残る陶磁器や金工品が主で、つまり先の瓦や銅鐸といったものだ。本展は大坂の陣から400年を記念するもので、それ以前のものはあまり展示されなかったので、銅鐸は関係がなく、大半が陶磁器であった。それがわかっていれば本展は見なかったかもしれない。それでも作品数がとても多く、それなりに楽しかった。長身の50代半ばの男性が筆者らと同じ速度で順に見て行くので気になったが、その人は最後の部屋で女性係員を呼びつけた。男性は他府県から来たようで、また考古学関係の人らしかった。彼女に質問を始め、その会話の中で、「展示数が多過ぎる」とこぼしていたが、確かにじっくり見て行くと2時間ほどはかかるだろう。考古学者でなくても地中に宝が埋まっているのかと思わせられるほどで、これは人間が土に長年埋まっても形が変わらない焼物を発明したおかげで、そう思うと先の現代の陶芸家の自惚れに理由があると同意したくなる。木はまだ残る可能性があるが、布や紙は全く駄目で、火にもなす術がない。であるからこそ、布や紙に描かれた絵画は特別なもので大切にしようと人は思うのかもしれない。それではなぜ人間は自分の体を焼物や金属で造ろうとしないのだろう。長生きしたいことが本能であれば、1億年ほどの歳月をかけて人は陶器や金属で体を作るように進化するのではないか。そうなれば、寿命が1万年ということにもなって、万々歳だ。

話を戻す。大阪中を発掘出来ず、また過去の遺物がすべて埋まっているとは限らず、考古学でわからないことは多いが、部分から全体を類推する能力が人間にはある。それでだいたいのことがわかるし、また過去のことはそのだいたいで充分な場合が多い。自分とは直接関係のない過去のことに興味を持つ人は少数派だ。大阪には数百万の人が暮らすが、大多数の人は今日や明日の生活が楽しければよい。そうであるから、本展を見るのが数万人といったことにはならないが、それでも発掘はされるし、またされなければならない。そのように発掘は永遠に続くが、失われる物の方が圧倒的に多く、未来から過去を見ると、だいたいのことしか常にわからない。だが、何が埋まっているかわからず、新たな事実がわかることもあると学者は考え、そうした積み重ねによって現在の予想は少しずつ修正される。本展は太古の昔ではなく、せいぜい400年前であるのに、それでもわからないことが多く、そうであるからわかったことはとても貴重に思える。たとえば、秀吉の大坂城がどこに建っていたかだ。それを壊して徳川時代に新たに城が建てられ、それも焼け落ちて現在の鉄筋コンクリートの姿になったが、地層は何重にもそうした過去の遺物が積み重なっていて、考古学者からすれば、現在の大阪城を取り壊して更地にし、それから大規模な発掘をしたいだろうが、それは許されないので、ごく部分を掘るしかない。それには伝わる絵図などを参考に、最も効率のよさそうな場所を掘るのだろうが、そのことでわかるのはおおよその位置といったことだ。また、秀吉の大坂城は以前の城塞の利点を活用したもので、さらにはそれ以前の土地がどうなっていたかなど、発掘にはあらゆる過去に遡る段階があって、深く掘るほどに遠い過去がわかる。つまり、考古もいろいろで、本展は中世から近世を知るためのもので、それ以前に比べると出土品が多いのは当然で、それで展示数が多くなったとも言える。その伝で言えば、400年後に現在の大阪展をするとどのような展示になるのかと思うが、それは本展には関係がない。会場でもらって来た目録から引用すると、本展は第1章から順に、1「大坂城前夜―中世の大阪―」、2「豊臣秀吉の大坂建設」、3「大坂の陣と徳川の大坂」、4「大坂の富―なにわの「ええもん」尽くし」、5「大坂の暮らし―モノでみる生活」、6「大坂のモノづくり」の構成で、これにプロローグ「近世大坂の発掘調査」とエピローグ「「大坂」の終わりと「大阪」のはじまり」が添えられていた。1の全部と2,3の前半は絵図や書状が中心で、そのほかは大阪城跡、城下町跡、広島藩の蔵屋敷跡などの遺跡からの発掘品、所蔵先は大半が大阪文化財研究所、その次に多いのが本展を開催した大阪歴史博物館となっている。以前に見た展示品もあって、あまり金をかけずに大坂の陣400年を記念したところがあるが、副題「考古学が語る近世都市」に嘘はなく、本展は大阪中の児童や生徒、学生が見るように、場所を変えて常設展示し、しかも数年は続けた方がよい。教科書の図版ではなく、実物を見るのは経験としては何よりだ。最後の写真はエピローグにあったパネルで、戊辰戦争で大阪城が燃えてしまった。京都だけかと思っていたが、大阪までこういう被害があったとは知らなかった。殺し合いはろくなことがなく、貴重な文化財が失われる。本展については先に書いたように写真が多いので、もう1回投稿する。