瞳孔をふたつ持っているので物が立体的に見えるのはわかっているが、筆者は視力が左右で違うようで、先日尼崎の駅前の商店街の中にある眼鏡店で視力検査をした時、覗き込んだ奥の映像が二重に見えてさっぱり正解とならなかった。
昔の視力検査は黒いしゃもじを片方ずつの目にあてがい、片方ずつ検査したが、測定機器が発達したのか、両眼で機器を覗き込んで次々に映し出される記号の欠け具合を答えるようになっていた。両眼の視力に差があるためだけなのか、それとも乱視気味なのか、とにかく記号はどれもひどくぶれて見えた。片方ずつ昔のように壁からぶら下げられた記号表を見て答えるのであれば、そんなことはなかったように思うが、長らく視力は0.5程度あると思っていたので、0.1と0.2と計測されるとがっくりする。筆者のふたつの丸い眼球は○ではないということで、それはそうだろうと思えるところもある。ここ数年は花粉症の季節にはひどく目を擦り、目の周囲はひどい皺が生じてしまった。それを隠すためと、また目を保護するために、春から秋にかけては外出時にはサングラスを欠かさないが、眉間に深い縦皺が生じていることもあって、ひどい人相になっていることを自覚する。それを隠すためにサングラスは効果的と思っているが、そうでもないようで、なおさら危険人物に見えているかもしれない。一昨日は家内とバスで出かけ、その帰り、最後尾の右端に陣取って少しうとうととしたが、何かの拍子に目覚めて左隣りの家内と話し始めた。その瞬間、家内の隣りに座っていた20代半ばの女性が隣りにいた大柄な40代のボーイフレンドか夫らしき男性にひそひそと語りかけている言葉が耳に入った。彼女は家内越しに筆者の横顔を見たのだが、男に二度笑い混じりでこう言った。「怪しいね」。筆者はそれに気づかぬ振りをして彼女の横顔が見える瞬間を待った。彼女が男から目を逸らして正面を向くのはさほど時間がかからなかった。醜い女というほどではないが、団子鼻でまた体重は平均よりはるかに多めで、男が振り向くようなタイプでは決してない。それにしても筆者を「怪しい」とは、どういうつもりなのかと思うが、ま、実際そのとおりに見えているだろう。家内に言わせると、筆者は職業不詳のように見えるらしい。実際そのとおりと言ってよく、怪しい雰囲気を醸し出している。還暦を過ぎた男は、だいたいいくつかの雰囲気に分けることが出来る。役所勤めをしていたか、セールスマンか、商店主か、会社員か、などなどだいたい歩んで来た人生がそのまま全身からオーラとして発散している。そういう分類から外れた人はみな「怪しい」という形容がなされるが、それは「正体不明」で、何をしでかす人かわからないという不安を感じる場合に使われる。その点、筆者は「怪しい」と言われても反論のしようがない。家内に言わせると、そういう男は遊び人で簡単に言えばやくざ者だが、この年齢になって自分でもそう思うし、また思ったところで反省もなしで、このまま「怪しい」雰囲気を発散して「変なおっさん」のまま年齢を重ねるしかない。そこで、先の女性が筆者のどこを見て「怪しい」と感じたかだが、たぶんサングラスかと思う。筆者は10個ほど持っているが、気に入ってかけるのは外出時用と普段用で、前者はかなりきざと思うので新たにほしいと思っているが、買ったのにほとんど未使用のものがたくさんあるから、家内の猛反対に遭う。それはいいとして、サングラスは高齢者でも普通によくかけているので、筆者が怪しく見えるはずはないと思うが、ほかにどんな理由で怪しく見えるのだろう。帽子をいつも被っているが、顔に染みがあちこち出て来て、家内が外出時には必ず帽子を被れとうるさく言うこともあって被ることにしている。帽子にサングラスとなれば、顔がわかりにくくなるから、それで怪しく見えるのかと思わないでもないが、そのような人はたくさんいる。そこで考えるに、帽子とサングラスで顔の幾分かを隠しても人間は発散する雰囲気というのがあって、それが筆者の場合は若い女性から「怪しい」と見られるようだ。「素敵」と思われたいのに、「怪しい」とは、自分がどう見えているかを反省せねばならない。
一昨日ネットで読んだことに、田舎の結婚願望の男性が都会から結婚を望む独身女性と集団お見合いをするTV番組があって、女性はイケメン度の高い男性に集中し、男も見た目が大事であると書いていた。女性にすれば男が優しくて金持ちであるのは当然で、そのうえに男前を望むということだ。この現実の前に大半の男はなす術を持たない。女は気軽で、どこへでも出かけて行って望みの相手を探そうとするが、完全に男は女から選ばれる存在になっていて、そこに男の悲哀が滲む。昔、よく友人との酒の席で、どのようにすれば女に持てるかということが話題に上ったが、筆者はいつもこう言った。「女を選ぶのは男で、物ほしそうな顔は見せない」。これは女でも同じように思っているだろう。高嶺の花のように見える女をどうにかして落とすことに男は熱を上げるもので、あまりに簡単に仲よくなれる相手は面白くない。それはさておき、男も女も、意識した相手の瞳をまともに2,3秒でも見れば脈があるかどうかはわかるだろう。だが、その2,3秒は長く、それどころか顔もまともに見られないという若者が多いのかもしれない。今日のニュースに、独身が異性と付き合いたいかと言えば、半分以上が面倒だと答えていた。その一方、孤独を感じる人ほど早死にするということを先ほどネットで読んだが、となれば、今後の日本は早死にする人が急増し、平均寿命が著しく低下する。それは筆者には関係のないことで、関心もない。「怪しい」に話を戻すと、集団見合いでそのような雰囲気を発散している男はまず無視される。それに筆者は集団見合いに全く関心はなく、女から選ばれることを拒否する。それにそのような集団見合いに参加する女性に魅力をまず感じない。それもさておいて、筆者が「怪しい」と思ってそのことを口にした女性は、案外直観が優れていて、筆者とすれば貴重な意見を小耳に挟むことが出来た。自分が「怪しい」雰囲気を醸し出しているとすれば、それは半分かそれ以上筆者がそうしているからで、そこを彼女は見透かしたと言えばいいか、感得した。これは、筆者に言わせれば、誰しも自分で他人かどう見られるかを演出することが出来るということで、筆者が「怪しい」のは他人から正体を見破られないようにするという一種の防衛本能があるからかもしれない。「見破られない」というのは、「見破られたくない」ではなく、「理解が及ばない」の意味が強い。それで先に書いたように、筆者は「怪しい」と言葉を発した女性がどのような顔をしているのかただちに興味を持った。男に振り返られるような女ではないし、また筆者のことを理解出来る頭も持っていないことは一目瞭然であったが、彼女を侮るというのではない。そんな彼女であっても、筆者の「怪しい」ところを感じたところに、人間の直観というものを思う。それは正しい場合が多い。彼女は筆者を「怪しい」と感じたが、それは帽子やサングラス、目立つ色のシャツといった身なりだけではなく、顔つきその他全身から滲み出ているものを身近で触れたことによる。そして、筆者は「怪しい」見えることを常に心がけているというのではなく、前述の職業の分類に属さないことを思っていて、それが「怪しい」雰囲気を発散することにつながっている。男は見た目が肝心だが、女はふたつの瞳をいっぱいに見開いて男を見ている。そして本能から強そうな男を求めるが、それは他者より優れた何かをよけい持っていることで、その条件に「怪しい」は含まれているだろうか。男は女の「妖しい」に吸い寄せられるが、女は男の「怪しさ」に不気味と同時に非凡さを見て、恐いもの見たさに接近したくなるかもしれない。そういう女ばかりではないが、そういう女もいる。さて、今日の写真は3枚とも大阪の地下鉄で撮った。最初は梅田地下街、2枚目は心斎橋、3枚目は天下茶屋だ。地下鉄にはこれとは別の黒丸内に黒い矢印で北を示したものがある。それはどの駅でも必ずあるようだが、デザインはわずかに差があって、大きさも含めていくつか種類があるようだ。このようなどうでもいい写真を撮ってブログに載せること自体、「怪しい」すなわち「変」と思われても仕方がないが、筆者のような方向を定めずに生きているようなはぐれ者もいて世の中は成り立っている。それくらいの自信がなくては「怪しい」の資格なし。四角がなくて丸かと言えばそうではなく、○が○かと言えばそうとも限らない。