按摩されながら語られるのは気分がいいのかそうでないのか。それは語られる内容による。気分がいい時はあまり面白くないことでも聞く耳を持つが、落ち込んでいる時であれば腹が立つだろう。

そのように同じ物事でも人によって受け取り方が違う。好き嫌いがあるということで、それで世間はうまくかどうかわからないが回っている。3日前に家内の妹が京都市美術館で開催中らしきルーヴル美術館展に行かないかと家内に電話がかかって来た。たまには高槻から京都市内に出て、目の保養をしたいのだが、筆者はルーヴル美術館展があることは知っていたが、どうせ新聞社が主催の毎年お祭りのように開催されるような内容で、また大勢の人が押しかけるはずで、どこかから無料招待券が手に入れば行く気になる程度で、家内も誘いを断った。筆者とよく美術展に出かけることも理由で、また14日は神戸方面に出かけたばかりで、明日も美術展に行く予定がある。それで義妹はひとりでルーヴル展を見て来ると言ったそうだが、そこまでしても見たいと思わせるほどに「ルーヴル」という言葉にはありがたみがあるということで、今日取り上げる展覧会はたぶん金をもらっても義妹はついて来ない。それは仕方のないことで、美術展は常に各地でたくさん開かれているが、どのようにして客に来てもらうかが一番の悩みで、主催者側はあまり金をかけずに最大の効果を狙う。それがいじらしく、また面白い。「あまがたり」という言葉からしてそうだ。これは「ルーヴル」には絶対に負けるが、アイデアで勝負に挑んでいて、目を引く。「尼さんが甘く語ってくれるのか」と誰しも思い、それと同時に尼崎についての展覧会であることがわかる。最近はこのような駄洒落の題名のついた展覧会が多く、先日は大阪歴史博物館で見かけたチラシに「唐画もん」というのがあった。これを「からえもん」と読むが、もちろん「どらえもん」に引っかけてある。「どらえもん」は本当は「ドラえもん」なので、「カラえもん」とルビを振るべきだが、「唐画もん」は「カラエもん」であるから、「ドラえもん」とは通じが悪い。それはさておき、人目を惹く名前でまず憶えてもらおうという、涙ぐましさが混じった工夫をよく見かける。「ルーヴル」ならそれだけで客寄せが出来るし、またより多く来てもらうために「ルーぶるぶる」などとふざけた展覧会名にすると、ルーヴル美術館が黙っていないだろう。高価な作品を貸与しているのにふざけるとは何事か、それで「あまがたり」と題した展覧会は美術ファンがほとんど見るべき作品が並んでいないことが予想出来るし、また「ルーヴル」に飽きた人が見れば面白いものであることが想像出来る。名は体を表わすで、「からえもん」も「あまがたり」も全くそのとおりで、ふざけているようで実はそうではない。ただし、按摩されながら「楽しい」ことが語られると思う人が多いのかそうでないのかはわからない。筆者はわざわざ尼崎に出かけるからには、それなりに得るところがあったと思いたい方で、これは大阪人はだいたい同じではないだろうか。わざわざ出かけて面白くなかったと言えば、自分がアホみたいで、さほど面白くなくてもいいところを見つけて書きたい。それで今日の投稿はかなり割引して思ってもらわねばならないことになるが、筆者がどのように書いても、入場者数の増減には関係しないだろう。それほどに「ルーヴル」展とは違って最初からどれほどの人が訪れるかはおおよそわかっている。そのような儲からない展覧会は最初からしないのが得ではないかとの声もあろうが、美術展を損得勘定で割り切ることは無茶で、弱小展覧会と言ってよい本展だが、「ルーヴル」展とは大いに違って凛々しいところがある。
尼崎は大阪市に隣接していて、先ごろの大阪都構想では将来的に尼崎や西宮、神戸も巻き込むつもりがあったが、神戸やおそらく西宮は大阪と一緒にしてくれるなと大いに迷惑顔であった。大阪から見れば神戸、芦屋、西宮はお高くとまっているように見えるし、実際大阪とは違って上品で、教育熱も高い。ではその3市と大阪市に挟まれた尼崎市はどうかと言えば、大阪市に隣り合う分、大阪市とよく似る。これは、尼崎が工場地帯を抱え、空気が悪いなど、マイナスのイメージが大きいからで、文化度が低いと思われていることで共通している。そういう尼崎が美術展を主張するならば、ひとり白髪一雄が気を吐くが、本当に白髪が尼崎で描き続けたことは尼崎の芸術的品格を押し上げた。本展でも当然白髪の作品が10数点並べられたが、同じ建物の隣室が白髪一雄記念室になっていて、それも見ることが出来るようになっていた。で、その内部にあった言葉かどうか忘れたが、白髪の作品は血の臭いがすると言われたことがあるらしい。それに対して白髪は尼崎の雰囲気が出ていると聞き取り、納得した。これは尼崎という街が血が噴き出るような活気があるということと、暴力的なイメージがない混ぜになっていて、よく言えば「祭り的賑やかさ」、悪く言えば「柄が悪い」で、確かに白髪の作品は尼崎によく似合っている。これも会場にあった言葉だが、画家仲間が尼崎を離れてたとえば西宮にアトリエをかまえるなどする中、白髪は生まれ故郷の尼崎を離れず、いかにもその街から生まれ出たような作品を作り続けた。そのことに尼崎市は敬意を表し、今後も精いっぱいの顕彰をし続けて行くだろうが、白髪の芸術が生まれることになった尼崎という土地が抱えるさまざまな面を歴史的に概観するのが本展で、尼崎についてあまり知らない筆者にはとても面白かった。会場に着いたのが4時20分ほどで、40分しか見られず、全体の3分の1は駆け足になってしまった。どういうわけかいつもこの尼崎市総合文化センターで展覧会を見る時はそうなる。展覧会のチラシは手元になさそうだが、会場でもらって来た作品目録が手元にあるので、それを参考にすることが出来る。その前にまず、先ほど地図を見ると、尼崎の真北が伊丹市で、尼崎との位置関係が初めてわかった。伊丹は阪急伊丹市駅界隈しか筆者は知らないが、乗り換え駅の塚口周辺もわずかだが馴染んでいる。その塚口は尼崎の北部だ。そのことは知っていたが、つまり北の伊丹市に隣接する地域は同じ尼崎でも住宅地になっている。海に近い地域が工場が立ち、尼崎は北と南で表情が違う。それに、尼崎から神戸にかけて、北から南へと阪急、JR、阪神の3本の線路が平行して走っていて、筆者が知る尼崎は阪神駅前周辺のみだ。またその地域に大きな商店街があるなど、最も尼崎らしいのではないか。筆者は商店街を歩くのが好きで、尼崎市総合文化センターで展覧会を見た後は必ず駅の北口を出て西に延びるアーケードの商店街をかなり西まで歩く。シャッターを閉めた店が多くなっている日本の地方都市だが、尼崎はまだそんなことはない。老若男女が大勢行き交っていて、その雰囲気が面白い。そう言えば最近大阪の千林商店街をほとんど20年ぶりに歩いたが、あまりにさびれていることに愕然とした。もはや昔の活気は戻らないような老人がちらほら歩いているような商店街になっていて、シャッターを閉めた店もあった。いかに大阪の経済が沈んでいるかがわかると言ってよく、そのためにも都構想であったが、大阪は灰色の都市になって行く一方であることを千林商店街で実感した。尼崎の商店街がまだそうなっていないのは、工場がたくさんあるからだろう。それはさておいて、尼崎の地図を見て知ったことに、尼崎市総合文化センターの西に流れる川沿いの道を2,3キロ北上すると阪急の塚口駅に至ることで、これで筆者の頭にようやく尼崎市の地形が見え始めた。阪神尼崎駅前から阪急塚口駅まで歩けばもっとそれはよくわかるが、家内は絶対に拒否するから、いつかひとりで出かけた時に踏破してみよう。阪神尼崎駅南に城跡があり、歴史的に古い区画が集まっているが、駅の南に出たことがない。駅から展覧会場を往復し、商店街を歩くだけで、尼崎に関する知識はとても乏しい。そのような人にもっと理解してもらおうというのが本展で、また地元住民にとっても認識を新たにすることが多々あるのではないだろうか。
「歴史とアート」と題にあるように、歴史に関する資料と絵画や写真が中心で、全15章仕立てと盛りだくさんな内容だ。先に書いたように、最後の方は駆け足で、印象に乏しい。第1章は尼崎の地図だ。20世紀に入って阪神電車の線路が敷かれてから現在の姿へとまっしぐらに突っ走った。それ以前は江戸時代と変わらない。筆者はその頃の尼崎をもっと知りたいが、本展ではその紹介はなかったも同然で、阪神電車が走るようになって工場が立ち、その税収で村役場が潤い、工場に勤務する人目当ての商店街が出来といったように、活気の歴史が様々な角度から紹介されて行く。尼崎は東は神崎川に面しているが、江戸時代はその付近がどうであったか。江戸時代は尼崎も含んでの摂津で、大阪都構想はそのかつての摂津国を意識した市の再統合に憧れがあったのだろう。廃藩置県によって新たな区切りが出来たのはいいが、京阪神はその言葉があるように、鉄道によって強く結ばれていて、もっと強力な地域圏が出来ないものかとの思いは、関西人にはあるのではないか。筆者はこの「関西」という言葉が苦手で、それはどこまでを関西と呼ぶかがあまりに曖昧であるからだが、京阪神と言えば今度は京都や神戸は大阪と一緒にしてくれるなとの意識が大きいであろうし、そういうところから都構想は夢としては楽しいが、大阪のひとりよがりで、周囲の都市の理解が得られず、現実的ではなかったということなのだろう。そこで思うのが、廃藩置県以前の尼崎で、今は兵庫県に属しても、街の雰囲気は大阪と言ってよいほど猥雑だ。これはゴッタ煮的と言ってもよいが、江戸時代は尼崎藩の城下町があっても、その場所は阪神電車の線路から南、すなわち現在の工場地帯に隣接し、大阪湾に流れ込む川、そして海を活かした産業がかなりの部分を占めていたのではないか。それが東西に走る線路や国道で南北に分断され、そのことで交通の便はよくなかったが、地域格差が生まれ、街としての一体感は減じたように思える。そのため筆者が尼崎をイメージしにくかったと言えるが、地図を見てそれなりに把握出来、また地図を見る気にさせたのが本展で、その点からも筆者にとっては有意義であった。第3章では大物という尼崎市頭部の街の紹介があった。阪神尼崎からは線路が梅田方面と難波方面のふたつに別れるが、後者に乗ると、この大物という駅がある。ここはかなり古い歴史を持つ。中国との貿易で持ち込まれた陶磁器の破片が見つかるなど、やはり尼崎が海運で栄えたことがわかる。その後、合戦の場になるなど、大物の名は尼崎とは別にもっと有名であったようだ。尼崎が俄然活気を呈するのは紡績会社が海辺に出来たためで、そうなると浅瀬を埋め立て、工場用の土地を確保することになる。大阪や神戸と同じだ。またそれほどに尼崎は面積が小さかったし、今もそうだ。
さて、ほとんど本展の見所を書いていないが、ざっと紹介する。尼崎の初代市長は洋画家であった。櫻井忠剛(ただかた)は尼崎藩主の血族で、津軽藩主の娘を娶った。会場には勝海舟が忠剛に贈った書が展示されていたが、そのことからでもよほどの人物であったことがわかる。忠剛の作品は今でも尼崎市の何代も続く家には保存されているらしいが、これは市長に在籍している間も描いていたためであろう。本展では薔薇や能面を描いた油彩画が10数点展示され、また忠剛の立ち姿を描いた絹本着色の掛軸もあって、その画才と知名度がうかがえたが、二足のわらじでこなせるほど市政は簡単なものではなかったであろう。ともかく、本展の白眉は忠剛の作品で、それを見るだけでも価値がある。忠剛が画家を目指したのは絵好きであったからだが、たとえば江戸時代の大名の増山雪斎のように文人趣味を持っていたからで、また江戸末期は洋画へのさらなる関心を抱く機運が高まって来て、もう少し早く生まれていれば、江戸の洋風画家のひとりとして絵画の歴史に名をとどめたかもしれない。第6章は現在の国道2号線沿い、尼崎市東部にあった大きなダンス・ホール3か所の紹介で、それらの写真が中心となった。昭和初期から戦争直前までそれらの店は大いに流行ってようで、その文化は戦後は復活しなかった。当時の大人の洒落た遊びは現在以上で、そういう場所を尼崎が何か所も抱えていたことは、それだけ経済に活気があり、また人口が多かったためだが、現在はないその実態を写す写真を見ていると、江戸時代ののんびりとした風景が消え去ったのとは別の哀愁を覚える。また、そうした一種夢幻的光景が、戦後は工場が撒き散らす煙の被害といった負の面が強調されるばかりとなって、この第6章の展示は尼崎市としては欠かすことが出来ないものなのだろう。さて、大きく飛んで第12章を説明すると、このコーナーは写真家の紹介で、岩宮武二、井上青龍、有野永霧の3人の作品があった。前ふたりはよく知られるが、有野の写真は初めて見た。「東日本無常空間」と題して2013年撮影の5点の風景写真が展示され、どれも以前紹介した
韓国の写真家鄭周河を思わせたが、題名からして同じような趣旨があるのかもしれない。60代の女性係員が、もう閉館しますと声を発する中、説明文を斜め読みしたが、大震災の爪痕を捉えた写真かどうかの説明はなかった。どれも遠景を写したもので、印象深かった。
井上青龍は、釜ヶ崎やまた北朝鮮に帰る60年代前半の人々を被写体に選び、説明文には、人物を写すことは撮るほどに難しく、そう簡単な気持ちでは出来ないといったような井上の言葉が書かれていた。また、岩宮と井上が結ばれ、井上と
森山大道が結ばれている図があって、岩宮の存在の大きさを今さらに知った思いだが、森山の写真の猥雑な雰囲気は尼崎ではなく、大阪で培われたものだろう。60年代早々に関東に移住するが、生まれは池田で、ま、そこは尼崎より高台でその分、上品ではある。