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●『近代日本洋画への道』
佐川美術館に行くついでに観ようと計画を立てた。紅葉にはまだ早いが、天気がよい日を選んで、この展覧会を観た後は琵琶湖の東岸を車で走って佐川美術館まで行き、帰りは琵琶湖大橋を東から西へとわたって南下することに決め、そのとおりに実行した。



●『近代日本洋画への道』_d0053294_2145267.jpgもう10日ほど前の話だ。そしてそのことはすでにこのカテゴリーに先日書いた。息子が車を運転しなければそんな計画は立てられず、以前のように電車やバスを乗り継いでしか滋賀県立近代美術館へ行くことが出来なければ、この展覧会にはおそらく行かなかったであろう。あまりぱっとしない名前の展覧会であるからだ。だが、大抵は期待しないで行った方が印象に深いことが多い。それだけ人間は先入観を持ちやすく、それに左右されやすい。チケットには書かれていないが、チラシには副題として「山岡コレクションを中心に」とある。この山岡コレクションとは、ヤンマー・ディーゼルを設立した実業家が収集した明治以降の洋画のことだ。このチラシを前もって読み、なるほどと納得した。JR瀬田駅で降りてバスに乗って10数分で滋賀県近美のある文化ゾーンに着くが、その途中にヤンマー前という停留所が以前にあった。UFOが空に浮いたような形の給水塔もあったが、いつの間にやらバス停も塔もなくなった。滋賀県近美と言えばヤンマーをすぐに連想したのに、ヤンマーは移転したのだろう。ところが、4日に訪れた時、駐車場でヤンマーの小型バスが1台停まっていて、美術館の玄関前まで無料送迎のサービスを行なっていた。駐車場から美術館前までは徒歩5分であるので、こんなバスを利用する人はほとんどないと思うが、ヤンマーの気前のよい印象を与えるにはよい。どうせなら瀬田駅前から美術館までを送迎してくれるならばもっと喜ぶ人が多いはずだが、それは無理だったのかもしれない。山岡コレクションは今ヤンマーがそのまま所有しているのかと思えば、そうではないらしい。チラシには「日動美術財団が運営する、笠間日動美術館所蔵になる、山岡孫吉氏が収集された日本の洋画の山岡コレクションを中心として、黎明期の日本洋画の実像を回顧…」とある。詳しい事情はわからないが、山岡氏の集めたものがそっくりそのまま笠間日動美術館の持ち物になっている。散逸することなく別のところに移ったようなので、それはそれでよかったと言える。だが、ヤンマーは大きな会社であるし、社長が集めたものを自社で作った美術館に常設展示することはかなわなかったのだろうか。今回山岡氏のコレクションであったことを謳えば、今は文化に関心がない企業ということを示して、かえって逆効果の企業イメージを一般に与えるような気がする。あるいはよく知らないが、笠間日動美術館は山岡氏が設立したものなのだろうか。チケットには協力として笠間日動美とヤンマーが併記られているので、今もヤンマーがこのコレクション何らかの権利を保有しているのかもしれない。
 それはいいとして、滋賀県近美としては近くに会社があったよしみでヤンマーからコレクションを借りて今回の展覧会を開いたのだなと思ったが、どうもそう簡単な事情ではないらしい。瀬田にあったヤンマーは本社ではないはずだし、このコレクションは関東では2、3度公開されたことがあるが、関西では初めてで、滋賀県近美に白羽の矢が立ったのは山岡氏が滋賀出身であることが大きいだろう。氏は明治21年生まれで15歳で大阪に出て働き、明治45年24歳でヤンマーの前身である山岡発動機工作所を創業し、昭和8年2月に世界初のディーゼル・エンジンの小型化に成功した。1962年に74で亡くなっているが、絵画収集はおそらく戦前から行なっていたのだろう。今回は180点のうち130点が公開され、それと併せて滋賀県近美が所蔵する日本画も展示された。それでも最後の部屋は壁面が少しあまっていた。それだけ山岡コレクションには小さめの作品が多いと言えるかもしれない。企業家が絵画収集を行なうことは珍しくない。それどころか、大小を含むといくらでも例がある。そしてディーゼル・エンジンという外国生まれのものを改良する業績を残した山岡氏が、洋画に関心を持ったのはもっともなことだろう。進取に富む人柄であれば、旧弊な日本画よりも、西洋から輸入された油絵具をどのように扱って日本化した絵を描くかに生涯腐心し続けた画家たちに愛情を寄せるのはよくわかる。ディーゼル・エンジンの小型化と、日本の洋画というものが、モノづくりの点ではどこかで共通しているはずだという思いがあってもこれは理解出来るし、実際そうではないだろうか。これは日本人にしか出来ない何かがどんな分野にでもあるという確信であり、そんな目が山岡氏が日本の洋画を見つめていたとしたならば、自ずとその関心を引いた洋画のタイプも絞られて来るような気もする。そしてそこに別の言い方をすれば、コレクションの幅の限界もあろう。その限界は一コレクションとしては当然生ずるものであり、それがあるからこそ個人コレクションは意味を持つとも言える。限界がないような幅広い収集であれば、かえってそれがまとまりのない、コレクターの意志がどこにあるかよくわからないものになってしまう。また、それほどに日本の洋画も多様であるわけで、改めてこの展覧会のタイトルである「近代日本洋画への道」が意味を持って見えて来る。チケットにも書かれているように英語では「The Pioneers of Modern…」とあって、これを正確に訳すと「近代日本洋画への道」には決してならないから、もう少し工夫したタイトルでもよかったのではないだろうか。「近代日本洋画をつくった人々」「近代日本洋画の先駆者たち」とすればもう少しインパクトがあるように思う。
 どっちにしろ、そういったタイトルからわかるように、明治期の洋画中心の展覧会で、かなり古くさい印象はあるが、普段はあまり見られない珍しい画家がたくさん登場していて、その意味でも観ておいてよかった。会場では女性館員が男性10数人をぞろぞろ引き連れて解説をしていた。その少し前を行きながらメモを取りつつ鑑賞したが、その館員の声がかなり大きくて、いやでも情報が耳に入って来た。それらは専門的なものも多く、聞いていて損はなかったが、耳障りであったことは確かだ。さて、どういう画家の作品が展示されたかだが、出品一覧表を手わたされたので、それを参考に書くと、滋賀県近美所蔵の日本画を除いて176点だ。だが、画家は60数名であるので、ひとりずつの名前を列挙することは出来ない。有名な高橋由一、浅井忠、黒田清輝、藤島武二、青木繁の作品は全部合わせても16点で、全体の10分の1でしかない。大半はあまり目にしない名前で、山本芳翠、五姓田義松、山下りん、ラグーザ玉、中村不折、岡田三郎助、和田英作といった画家ならばまだわかるとしても、そのほかはかなりの玄人でないと名前と作品が一致しないだろう。また、日本の画家だけではなく、キヨソーネ、チャールズ・ワーグマン、ラファエル・コラン、ジョルジュ・ビゴーという、日本ではよく知られた画家の作品も合計18点あって、かなり系統立ててコレクションされていたことに感心する。それはまた明治以前の作品が少なからずあったことでも言える。司馬江漢、亜歐堂田善、あるいは長崎系洋風画、泥絵といったもので、これらだけに絞っての大きな展示をまた観たいものだとも思わせた。明治になっていきなり洋画が始まったのではなく、キリシタンが渡来した当時から日本人は洋画を知っており、それ風に描いた作品が少なからず伝えられていることの、そのほんの序を今回は最初のコーナーで示していたが、これはコレクションに幅を持たせていた。司馬江漢(1747-1818)はまだ個人の展覧会が開催されたことがあってよく知られているが、亜歐堂田善(1748-1822)の名前と作品をを知る人はかなりの美術通であろう。1985年に京都国近美で開催された『写実の系譜1-洋風表現の導入 江戸中期から明治初期まで』という展覧会では江漢や田善の作品も、また今回の展覧会ともそこそこだぶる名前の画家の作品が観られたが、個人が集めたコレクションとなると、江戸の古いものまでもたくさん集めるわけにも行かず、山岡コレクションの江戸期の画家はあくまでも序の位置づけに過ぎないように見えた。それが一気に本番が開花するのはやはり高橋由一で、8点が出ていた。そのうちの1点の「鮭図」はチケットに部分図が採用されている。先の団体引率の館員の話によると、高橋はいろいろな鮭図を描き、6点が伝わっていて、その半分が真作と言われているそうだ。そしてその真作の1点がこの山岡コレクションのものとのことだが、近くで見ると本当の鮭に見えるほど真に迫っている。それは板に描かれていて、背景を絵具で塗りつぶす必要がなかったことも原因している気がした。絵具は案外にうす塗りで、手際がよく、高橋の技術の抜群さを再認識させた。
 せっかくメモを取って来たから、それを少し紹介する。明治8(1876)年、政府は工部美術学校を創立し、初めて西洋美術の教育に着手した。フォンタネージらを招致し、そこから浅井忠などが巣立つが、日本初の女性洋画家の山下りんもここで学んだ。同16(1883)年には国粋主義の高まりや伝統美術復興の波が起こり、それに伴って工部美術学校は廃止されたが、同22(1889)年に、浅井、小山正太郎、松岡寿、山本芳翠、五姓田らによって日本初の本格的な洋画団体の明治美術会が結成された。同26(1893)年はラファエル・コランに学んだ黒田清輝と久米桂一郎がフランス留学から帰国し、3年後に黒田は白馬会を結成。藤島、岡田、和田、青木らが集まった。白馬会は新派、紫派と呼ばれ、明治美術会の旧派すなわち脂派と対立し、やがて明治34(1901)年に、脂派の満谷国四郎が中村不折や鹿子木孟郎らと太平洋画会を結成して白馬会に対抗した。なお、その前年には女子美術学校の創立もあった。明治40年には文部省美術展覧会(文展)がスタートする。このような日本における草創期の洋画家たちの会の動きを多少知ると、今回の展覧会の見所もまた違う。次に順に気になった絵について書いておこう。まず小川破笠(1663-1747)の「海魚」という洋風画で、1740年に描かれている。伊勢生まれで、江戸で芭蕉に俳諧を学び、英一蝶に絵を師事したという。こういう人がいるとは知らなかった。漆芸に最も長じて真価を発揮したらしいが、多芸な人が江戸にはよくいたことがわかる。江戸期の絵の次は「西洋人との邂逅」と題して、ワーグマン(1832-1891)とビゴー(1860-1927)が取り上げられていた。前者はイリギス人で、高橋、五姓田、小林清親など多くの洋画家に影響を与えた。「イラストレイティッド・ロンドン・ニュース」の記者として1861年に来日した。日本各地の風景や風俗を描いた絵が多いのは記者としての役割ゆえだろう。ビゴーはパリ生まれで、1882年に来日し、フランス語を教えたり、陸軍士官学校で画家教官となった。明治20(1887)年に漫画雑誌『トバヱ(鳥羽絵)』を刊行し、明治32年に帰国、その後日露戦争の従軍画家として再来日している。このような経歴を見ると、当時でよくも世界のあちこちをと思うが、それは日本の洋画家でも同じことで、目指すものが明確にある場合、船の長旅をものともせずに海を遠くわたって行った。最澄や空海の時代からそれは変わらない好奇心、使命感と言うべきものだ。困難が大きいほど情熱度も大きくなり、よい仕事を残すことにつながったのではないだろうか。今回出品されていた、よく知らない画家の経歴を読むたびに、いかに明治期の洋画家が苦労したかがわかった。特に日本が揺り戻し的に国粋主義が高まった時、洋画家たちはたちまち仕事がなくなって食うに困った。そのため絵を描くという技術を用いる仕事ならば何でもこなしたが、今でも画家は絵を描くことしか出来ないので、いくら貧困の生活であろうとも、すっかり転職することは考えないものだ。
 図録を買わなかったので、以下にかいつまんでそうした画家の経歴を手短に記しておこう。佐賀出身の百武兼行(1842-1884)はチラシの面に大きく作品が印刷されている「ブルガリアの女」(明治15年)が展示された。堂々としたタッチで、当時のフランスの画家と比べても絵具の扱いが全くひけを取っていない。高橋由一と同時代の画家とは思えない新しさがあるが、それほどに当時は1年ごとに洋画が脱皮していたのであろう。床次正精(1842-1897)は鹿児島出身で、高橋とよく似た作風だ。高橋より有名でないのがわかる気がする。国沢新九郎(1847-1877)は高知生まれで明治3年にイギリスに留学、ロンドンでジョン・ウィルカムに師事、同7年に帰国して東京に私塾彰技堂を開き、そこに浅井忠らが弟子入りした。これだけでもどれほど先駆的な画家かが推察出来る。出品作は「英国風景(初春)」であった。山本芳翠(1850-1906)は美濃の恵那生まれで最初南宗画を学び、後に横浜で五姓田芳柳に洋画を学んだ。明治11年に渡仏し、ヴィクトル・ユゴーなどの文豪と交遊、留学中の黒田清輝に画家へ転向することを勧め、白馬会結成を助けた。大物ぶりがこの短い紹介からでもわかるだろう。川村清雄(1852-1934)は江戸生まれで、明治4年に徳川宗家の留学生として政治、法律の研究のために渡米し、翌年画家に専念するためフランス、ベネツィアにわたってルネッサンス末の伝統的イタリア絵画法を学んだ。一時大蔵省印刷局に勤務したが、後に私塾を作った。何とも波瀾に富む人生だ。「双鶏の図」「花の宴」という日本的な題材の絵と「パルスレイケン像」「ベニス風景」のヨーローパに素材を求めた絵が並んでいた。五姓田義松(1855-1915)も江戸生まれで、11歳からワーグマンに洋画を学び、明治9年に工部美に入学してフォンタネージの指導を受けた。同13年に渡仏してレオン・ボナの指導を受け、日本人初のサロン入選を果たした。日本人の油彩画の技術が空前の速度で頂点に達していたことがよくわかるエピソードだ。五姓田つながりで書けば、二世五姓田芳柳の絵も出ていたが、これは義松が欧州留学中であったため、日本に残った一番弟子が名前を継いだ。「富嶽図」「上杉景勝一笑図」「天津事変」「大楠公」といった作品は、その題名を見ただけで、日本の伝統を強く意識した国粋主義寄りの洋画であることがわかるだろう。これは鹿子木孟郎(1874-1941)の明治神宮聖徳記念絵画館壁画下絵の「日露役奉天入場」にも通ずるもので、いかにも明治を思わせるこうした絵は見ていてあまりいい気分ではない。画家も政治家に飲まれてしまう様子がよくわかるからだ。鹿子木は昭和7年にフランスからレジオン・ドヌール勲章を贈られているが、どのような功績なのかは調べていない。満谷国四郎(1874-1936)の「東京慈恵医院行啓」も明治神宮聖徳記念絵画館壁画のためのもので、他に「かぐや姫」「かりそめの悩み」が出品されていた。少しムンク風な画風でもあり、時代にきわめて敏感な様子がわかる。こうして書いていてきりがないが、最後に女性ふたりを。山下りん(1857-1937)は明治11年にハリストス正教の洗礼を受け、同13年に横浜からロシアに向かい、3か月後にペテルスブルグ女子修道院に入ってギリシア正教の聖画を学ぶ。エルミタージュでローマ・カトリックの作品を模写して修道院内で問題となり、それがきっかけとなって同16年に帰国した。その後神田駿河台教会(ニコライ堂)に住んだ。宗教に寛容な日本人とそうではない外国人との差が見て取れる気がするが、ロシアに行ったことはかなり変わり種と言ってよい。ラグーザ玉(1861-1939)は明治15年に帰国するラグーザとともにシチリアのパレルモ市にわたり、同大学美術専攻科に入学、22年にラグーザと結婚し、昭和8(1933)年に帰国した。女性の方が波瀾の人生を歩んでいるように見える。
by uuuzen | 2005-11-13 23:56 | ●展覧会SOON評SO ON
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