朴木(ホオノキ)と泰山木は花だけ見ると区別がつきにくい。日曜日に家内と阪神電車に乗って西へ向かっていると、浜側に白い大きな泰山木の花をたくさんつける木が1本見えた。

泰山木は大山木でもあって、昔からその花は気に入っている。わが家に植えようと思わないのは、合歓木と同じほど大きくなるからで、庭の地面は終日填墨したように陽射しが射さない。わが家の近所に泰山木を植える家があるが、とても広い庭で、泰山木の花は50メートルほど離れてもよく見える。ちょうど今がその季節だが、何年か前に枝をかなり払ったようで、花数がとても少ない。そんなこともあって、阪神電車の車窓から泰山木の花が見えた時は思わず笑顔になって、家内に「タイザンボク、大山(たいざん)、僕ん」と言った。それはさておき、枳殻邸には泰山木はないが、朴木はある。受付でもらったパンフレットに紹介されている。泰山木との区別は花より葉がよい。葉が全く違って泰山木は椿の葉のように艶があって硬く、靴べら型だが、朴木は柔らかく、色も浅くて、形は幅が広くてかなり大きい。だが、花は咲いていなかったはずで、どこに植わっていたのかはわからない。花期は5月だそうで、もう散った後であろう。最も印象的であったのは、印月池の東半分を覆っていた睡蓮だ。今日の最初の写真では左奥に少しだけ見えているが、これは遠方の京都タワーに狙いを定めたからでもある。この写真の筆者の立ち位置は、印月池に架かる侵雪橋のちょうど中央だ。木製だが、裏はコンクリートで固めているだろう。大勢の人が毎日歩くためか、表面の一部は脆く朽ちていた。この橋を西にわたると島になっていて、名前はついていないようだ。最初の写真とはつながらないが、同じ場所から左すなわち東を向いて撮ったのが2枚目で、左端に島が見えている。だが、この島は侵雪橋とつながる島から南に離れた孤島で大島と呼ぶ。舟がなければ上陸出来ないが、臥龍堂という小さな鐘楼が安政の大獄の際の大火で焼け落ち、今は礎石だけとなっている。安政の大獄から10年後に戊辰戦争が始まるが、枳殻邸はそのとばっちりを受けた。鐘楼であるから比較的簡単に再建出来そうなものだが、もっとほかに金をかけるべき箇所がたくさんあるのだろう。それはともかく、最初の写真に戻ると、右手にたくさんの人が見える。その場所で撮った写真は後日載せるが、背後の京都タワーは絶妙と言える場所に聳えていて、これはまるで枳殻邸からどのように見えるかを計算したかのようだ。だが、確か東本願寺はこのタワーが枳殻邸からの借景を無粋なものにしてしまうので、大反対したはずだ。それが今は本願寺の職台のような具合になって受け入れられている。というより、受け入れるしか仕方がない。だが、このタワー建設以降、市内に高層ビルが増え始めた。なるべく筆者は枳殻邸の外に立つビルを写さないようにしたが、それは無理で、今日の4枚はどれもビルが見えている。3枚目は4枚目の部分だが、撮りたかったのは、西端の道路と隔てる背の高い樹木上に白鷺が群がっていたからで、またそのすぐ背後に、「○は○か」の投稿で使えるかと思った円窓がふたつあるマンションらしき新しいビルが迫っていることを紹介したかったからだ。そのビルからは、枳殻邸が眼下にあり、毎日無料で大きな庭園が見られるから、きっとそのことを売りにして分譲したであろう。京都市としては、法律を守っているからには枳殻邸内部から見えることを阻止出来なかった。枳殻邸側は当然面白くないが、ビルを見えなくするには木を高く成長させるしかないが、それでは庭の風情が激変するし、またそれは物理的に無理だろう。

白鷺は珍しくないが、一か所にたくさん集まっているところを見る機会はほとんどない。京都駅から東本願寺の前を通って四条烏丸に向かう時、よく白鷺が東本願寺の通りに面した建物の鬼瓦などに留まっている。そしていつも東を向いているが、それは二丁ほど先の枳殻邸を向いているのであって、ようやく東本願寺で白鷺をたびたび見かける理由がわかった。枳殻邸と東本願寺の間を白鷺は日に何度も往復しているのだろう。ねぐらは印月池の島の樹木で、確かにそこは安全だ。ただし、筆者らが訪れていた時、烏をその島で何羽も見かけた。烏は白鷺を襲うのだろうか。雑食なので白鷺の食べるもを横取りするだろう。それに白鷺の雛を狙う。そのために白鷺は群れとなって一か所に集っている。3枚目の写真を加工しながら面白かったのは、左端に五位鷺らしき灰色の大きな鷺が、白鷺の群れの方を見つめている。だが、多くの鷺、それに烏が集まることは、よほど京都市内に自然が少なくなっているからで、憐れなことだ。また、印月池の魚だけで棲息出来るのかどうか。おそらく日中は嵐山や鴨川に飛んで行って魚を狙うのだろう。それはいいとして、白鷺がこれほど集まると、その糞が心配だが、4枚目からわかるように、木立は東端で、その下を拝観者は歩くことが出来ないようになっている。この木立は枳殻邸の囲いで、大きなビルが建つようになってからはある程度は高く成長するがままにされたのではないだろうか。明治まではもっと低かったような気がする。そしてその頃でも枳殻邸は白鷺など野鳥の棲家になっていたであろう。話をまた最初の写真に戻すと、人が立つ芝生の近くに睡蓮が繁茂していないのがよい。これは放置するとおそらく印月池全面を覆うだろうが、庭師がそうはさせじと手を入れているように思う。それにしても2,4枚目は睡蓮でびっしりで、ホテイアオイが繁茂し過ぎて大いに困ったというニュースを思い出す。睡蓮は夏のもので、秋になるとすっかり葉が枯れて水面に戻るとは思うが、なぜ蓮を植えなかったのだろう。日本の仏教は蓮を真っ先に思い出すが、インドでは睡蓮だろう。それに睡蓮の方が視界が広くてよい。昨日書いたように、大覚寺の大沢池では睡蓮が全面に咲くようで、その様子を細かく描く画家がいることは、睡蓮の群生を好む人がいることを示す。筆者はと言えば、枳殻邸ではまだ花が蕾のようで、また水面を覆い尽くしている様はあまり気持ちのいいものには思えない。侵雪橋に立って今日の4枚を撮影しながら、これほど睡蓮が満ちると、水中は墨のように真っ暗で、そこを鯉や鼈がどのように泳ぐか心配になった。あるいは鷺に狙われにくいので安心しているかだが、筆者が心配しなくてもいいように生物の食物連鎖はうまく機能しているだろう。

2枚目の写真の右手にある木造の建物は漱枕居と呼ばれ、池にせり出している。内部に入ることは出来ないが、パンフレットには中から侵雪橋を見た写真が載る。4畳半と3畳の二間で、そこで数時間でも寛げればいい思い出になるだろう。長岡天神の錦水亭というたけのこ料理で有名な料亭は、この建物と同じように池にせり出した数棟が連なり、それは同料亭の売り物にもなっている。筆者はそこで食べたことはないが、漱枕居とどちらが古いのだろう。漱枕居は慶応元年に再建されたが、今調べると錦水亭は明治14年の創業で、漱枕居を参考にしたかもしれない。それはともかく、漱枕居は枳殻邸南辺の中央にあり、そのすぐ前まで歩けるが、ほとんど南出口近くで、またどことなく暗い。それで注意を払わなかった。1枚目と2枚目の写真はつながらないが、途切れている部分はわずかで、人が多く集まる芝生からは、漱枕居が池の中にあるように見えるほどに離れていることがわかる。さて、4枚目の写真の左上に幹が見える。この木は侵雪橋の西側の畔に何本かある「イブキ」で、その大きな名札が地面から1メートルほどのところにくくりつけられていた。名札の前に灌木があって、たった3文字がよく見えなかったが、何度か行きつ戻りつしてようやく「イブキ」であるらしいことがわかった。だが、そんな名前の木は初めてだ。なぜ名前を知りたかったかと言えば、見たことのない幹の肌で、また枯木のようになっていて、葉は1枚もなかった。それでも生きているのだろうか。パンフレットの写真やイラストでも枯木に見える。おそらくあまりに大きく枝が成長し、景観を損ねるとの理由で大胆に剪定された。高さ14メートル、幹回り3、8メートルで、存在が圧倒的で、「その2」に書いた滴翠軒を見た後、修復中で青いシートで覆われた傍花閣の裏手を通って侵雪橋に至る時、右手にとても目立つ。ただし、パンフレットの写真やイラストは筆者が見たような枯木状態で、葉が出て来ないのであれば意味をなさない。若木に植えかえると、数十年単位年月を経なければ現在のような大木にならないから、迷っているのか。あるいは枯木ではなく、葉が出て来るのか。新緑の季節であるのに葉が1枚もないのは、やはり枯れたとしか思えないが、ひょっとすれば根元から若木が育っているのかもしれない。4枚目の写真でもうひとつ書いておく。睡蓮で覆われている池の水平線が、左が少し下がっている。石塔は垂直なので、筆者の撮影が傾いているのではない。水平線は水平であるはずなのに、そうなっていないのはなぜか。これは睡蓮が消えた時に確認しなければわからない。どうでもいいことのようだが、気になって仕方がない。あるいは左下がりに見えるのは錯覚か。石塔はそれだけが立つ島があって、人が近づけないようになっている。それほどに貴重ということで、これは光源氏のモデルのひとりとされている源融(みなもとのとおる)の供養塔で、枳殻邸が築造される以前からあったとされる。また、築庭に当たって宇治にある「塔の島」の景色を模したとされ、そう言えば半年ほど前から宇治に行かねばと思い続けている。