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●『没後20年 具体の画家―正延正俊』
川龍之介に多少似た顔の白黒写真が飾ってあった。50代のものだろう。正延正俊は明治44年(1911)生まれであるから、60年代の撮影だ。ちょうど一番脂が乗り切って代表作を描いていた時期だ。



●『没後20年 具体の画家―正延正俊』_d0053294_11791.jpg本展で初めて正延という画家を知ったが、具体に関する展覧会で見ていたかもしれない。1,2点では印象に残りにくい。今回は初期から晩年までの作品が展示され、画風の変遷がよくわかった。14日に家内と見たが、筆者らふたりしか客はおらず、正延の知名度を物語る。それは抽象絵画であるからとも言える。正延正俊という名前は「正」がふたつもあって珍しいが、半分冗談のような覚えやすさで、そのことが作品の印象にも影響を与えている。筆者は50年代後半から60年代前半までの10年の作品にとても感動した。落書きのような画面だが、ジャクソン・ポロックの影響を受けたであろうか。具体美術協会の中心となった吉原次良は誰の真似もするなと教えたから、正延はポロックの作品を知っていたとしても、それを模倣することなど、思いもよらなかったに違いない。それに画面全体を同じ調子で覆う画風はポロックと同じでも、正延の作品は少し離れて見えると、計画性が露わだ。出鱈目に筆を走らせているようで、下地段階で構成している。抽象表現主義的な画面だが、「具体」という言葉に示されるように、何か具体的なものを念頭に置いて描いたように思える。会場には正延の文章がいくつかパネルで紹介されていた。それらは句読点が少なく、わかりにくさもあったが、言わんとしていることはよくわかった。チケットやチラシに印刷される抽象画以前にどのような作品を描いていたかの紹介は2階の最初の部屋であった。1階はまず5,60年代の比較的大画面の代表作を見せ、そういう画風に至るまでの足跡を2階で紹介しようという会場構成だ。筆者は1階の作品でまず大いに気に入った。その後2階で初期作を見ると、なおひとりの画家の成長ないし必然的な変化を目の当たりにした気になり、正延は正真正銘の世界の舞台に出て遜色のない画家と確信した。今回は没後20年だが、50年、100年とますます評価されると思う。正延がいちおうは明治生まれで、さすが明治人、筋が一本通っていると納得させられる。真っ直ぐに自分の道を生き、輝かしい作品を描いたことはとても眩しい。彼は最初から最終回の具体展に出品し続けた唯一の画家というが、一回り年下の元永や白髪が早々と有名になって行ったことをどのように思っていたか。人間であるから羨みもあったであろうが、自分は自分という立場を崩さず、黙々と描き続けた。それは本展が証明している。画家とはそうあるべきだ。名前が売れるか売れないかより、納得行く作品が少しでも描けるかどうかが問題で、その苦闘と愉悦の前にあっては有名になるかどうかはほとんどどうでもよい。残した作品は必ず見るべき人は見る。そういう信頼は人を大きくする。そしてその大きな態度で制作し続けなければ、見るべき人の眼に止まるはずがない。正延の顔が芥川龍之介にどこか似ていると最初に書いたが、痩せ形で男前だ。生まれた高知県で師範学校を出た後、高知、東京、神戸で小中学校の美術教員となり、その一方で絵を描いた彼は、戦前から公募展に出品し、1948年から9年に、神戸市民美術教室に講師として訪れていた吉原に出会い、そして指導を仰ぐようになった。戦前の作品やその頃の作品はあまり多く残っていないようだが、セザンヌの構成的な考えをもっと進めたような、つまりキュビズムを連想させる風景画や静物画を40年代末期に描いた。ていねいに絵具を塗り込めるのではなく、どちらかと言えば速筆で、荒々しく、粗雑という言葉を思わせるほどだが、それは円や直線主体の構成主義を基本に持つので、絵具の置き方はその反対に勢いを見せるべきと思ったのかもしれない。筆跡を見せないような描き方であれば、たとえば正円で描かれた葉の生い茂る樹木はそれとわからず、また画面は冷たいものとなった。
 彼の絵を描く楽しみは、構図をしっかりと作ることより、手の感触を楽しむというところにあったようだ。一筆ごとのstrokeが楽しいというのは、実際に油絵具とキャンバスを使って描いたことのない人にはわかりにくいかもしれない。正延の文章によれば、その筆やペインティング・ナイフによるstrokeのひとつに、時として予想を超えた面白さや美しさを感じることがあった。そうなると、同じ瞬間を求めて、strokeを繰り返し、それ本位の絵を描くことに進むのは必然だ。最も楽しいことに絞って邁進し、そのことで新たな何かが生まれるという直観が彼にあった。ただし、それは同じ単純な行為をほとんど無限に繰り返すことで、作品はいわばその「これではない」との思いの集積となって、画家にとっては不本意なものとなりかねない。そういうことを立ち止まって考えないほどに正延は憑かれたように同じような作品を描き続ける。だが、そう言ってしまうのは正しくない。筆者が面白かったのは、どれも似ているがどれも全く似ていないことだ。1点ずつしっかりと構成を考え、その一方でそのことを最初に感得させないように、落書きのような単純で短いstrokeで画面全体を覆う。同じような画面はポロックのドリッピングでは無理だ。正延の作品はあくまでも手を動かすことを基本にし、その意味からはDRAWING的だ。画面全体を覆うstrokeの集積も、ハンコを使ったような均一性ではなく、かといって少しずつ変化するミニマル的でもなく、下塗りの構成に即しているようでまたそうでないようなところがある。しかも考える暇もなく瞬時にone strokeを下しているといったふうで、その理知と無造作がない混ぜになったような画面は見飽きない。風景や静物など、誰が見ても何を描いたか具体的にわかる画面と違って、抽象絵画の真の楽しみがわかったような気にさせられた。それは正延がone strokeずつを自動手記法的に楽しんだからであろう。そこにはアンリ・ミショーの作品との関連も思わせ、さまざまな西洋の先端絵画を見ていなくても、同時代の息吹を共有していたことがわかる。また、彼のstrokeは暗い地色にほとんどが城かベージュ色の絵具でなされ、インドネシアのバティック裂か思わせる作もあった。その意味では装飾的と言ってよく、海外では日本的な抽象絵画と評されるだろう。だが、バティックと同様、手仕事感が前面に出ているとはいえ、油彩画ならではの画面の質、マチエールというものの豊かな表情の可能性に彼は魅せられたのであって、ポロックのドリッピング技法とは違ってone strokeごとに思いがこもり、その点では具象絵画から出て来た、具象絵画と確実につながっている抽象画で、筆者にはロスコやバーネット・ニューマンの思索的と言われる作品以上に人間的で、したがって温かく、泥臭く感じた。それはアメリカ的な突き抜け感がないと言えばいいかもしれない。だが、そのことが正延のよさでもあり、また仕方なきことでもある。それゆえに具体の運動が海外で評価されたが、白髪の作品に宗教観が見えているように、筆者には正延の5、60年代の絵画は禅を連想させた。書き遺した文章がどれほどあるのか知らないが、そのように作品を感じられることを否定はしなかったであろう。
 禅を言えば、修行であり、それは正延の作品に感じられる。下地を作る段階で最終的な仕上げをどのように計画していたか知らないが、下地は白やベージュの絵具によるstrokeでその上を覆われることで、半分見えなくなり、またstrokeのマチエールは下地のそれと響き合って、下地から浮き上がっているというより、強くつながっている。下地の形や色の構成が厳密であれば、その上のstrokeの集積は即興性を優先すべきで、正延は悟りを期待してone strokeずつを描いたように感じさせる。その修行的絵画は、全体として悟りの境地に達しているかどうかは見る人の自由だが、有か無かの問いを発し続けながら一筆ずつ絵具を置いた様子は伝わる。それは昨日書いた割れ目に押し込む行為と言ってもよく、正延は凹としての下地画面を構成し、そこに一打撃ずつの凸を突き刺し続けた。そのため、画面全体として凹凸が合体し、生の証が具現化された。そのようなことを思わせるほど、正延のstrokeの激しく、静かな連打は画面全体に蠢きを与えている。実際、50年代半ばから10年間の作品は、動物の皮膚を感じさせる。それも装飾と言えるが、正延の画面はもっと激しい生の迸りがある。そこは足で描いた白髪の絵と通じていて、具体の画家は絵具とキャンバスという具体的なものでどれだけ生な息吹を伝えることが出来るかに挑んだと言ってよい。構成主義的な風景画や静物画はまだ何を描いたか具体的にわかるが、50年代半ばに筆のstrokeがわが者顔で主張し始め、明確な形は背後に潜み行く。その過渡期の作品は具象の残滓がまだ露わな点で迷いが感じられるが、60年代に入って具象を捨て去り、そうして描かれるバティック風の画面は、ついに発見した描くことの真の喜びに満ちているようで、筆者は1点ほしいと思ったほどだ。そのような思いにさせる絵画は珍しい。そこで筆者が堪能したのは1階の大部屋と、2階の最初の部屋だが、吉原が72年に死んだ後、具体は解散し、そして正延の絵画も大きく変化し始める。まずそれは色彩に現われる。黒っぽい地色に白っぽい絵具でくしゃくしゃと数秒で描いた落書きのようなstrokeの集積画面は、エナメル塗料を細く垂らした線も含んでいたが、赤や黄色の原色の絵具を併用したり、エナメル塗料のみをしかも極太の垂らし描きで用いたりするようになり、滑稽味や陽気さが露わになる。これも正延が書いていたように、あえて明るい絵具を拒否していたのではないが、70年代という新時代、そして60代を迎えて生活と心境に余裕が出る一方、同じような画面に留まっていることは出来ないとの思いもあったのだろう。だが、具体の解散以降はひたむきな精進といったような雰囲気が画面から伝わりにくくなる。つまり、筆者には面白くなかった。そこで思ったことは、人間の壮年期だ。それはやはり50代で、その頃に画家は代表作をものにしがちだ。最後の部屋ではサムホールが目の高さに横一文字に数十点並べられていた。50年代の大作の見本のような作から、明るい絵具を使った実験的形象を求めた作品まであって、全体にとてもカラフルで、その点は評価が大きく分かれるだろう。彼らしくないとは言わないが、模索しながら方向が定まらない軽薄さを感じさせもした。それに、そうした実験的な試作を100号級の大画面に展開したのかどうかだが、そうした作品の展示はなかった。阪神大震災で西宮のアトリエ兼自宅が半壊し、その半年後に亡くなったので、長命ではあったが、最期は深い失意や無常観があったかもしれない。それに失われた作品もあったかもしれない。西宮在住の郷土の画家ということもあって本展は企画されたと思うが、大きく讃えたい企画展だ。
by uuuzen | 2015-06-16 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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