輩(やから)という表現は全国的に通用すると思っていたが、大阪でよく使われるようだ。「柄が悪く、常識のない奴」の意味で、巻き舌で威嚇する言葉を発する人物を思えばよい。
そういう連中は大阪だけにいるとは限らないが、大阪のイメージは全国的に悪いので、真っ先に連想される。それはいいとして、輩たちが散らかした松尾橋下のバーベキュー後のゴミは今日見るときれいに片づけられていた。満杯に膨らんだ大きなゴミ袋4,5個が並べられていて、誰かが掃除したのだ。役所の人かもしれないし、地元の住民かもしれない。昨日書くのを忘れたが、その散乱ゴミに数十羽の烏が群がり、10羽ほどが橋の欄干に留まっていた。筆者が接近すると順に舞い降りて行き、散乱ゴミは烏にとっては御馳走のようだ。それで輩たちは掃除人に仕事を与え、烏を食べさせているのでゴミを散らかしても心が痛まないと言うかもしれないが、烏はところかまわずに白い液体の糞を天上から垂らす。昨日は梅津に行く途中、筆者のすぐ近くでその糞がベチャリと地面に落ちた。もう少しで頭に直撃されるところだ。ゴミ散乱輩野郎の頭にどんどん落としてもらいたいが、そうすれば少しは反省するかと言えば、逆切れしてますますゴミを散らかすかもしれない。そう言えば今朝は消火器を降板や民家にぶち撒かれた事件があったが、鬱憤晴らしか知らないが、模倣犯が出るだろう。そういう奴を輩と言う。そういう連中は何でも壊すことが平気で、そのことに快感を覚える。いや、壊されたというニュースが流れることでいい気分になるのだろう。消火器事件に次いで、酒鬼何とかという殺人事件を犯した人物の手記が出版されたことに対するコメントを聞いたが、初版10万部で、印税8パーセントというから、1500×10万×0.08で1200万円の収入だ。少年であるから死刑にならずに済み、後にいっぱしの有名人となって多額の印税を手に出来るのであるから、これも模倣犯が出て来るだろう。殺される者はたまったものではない。殺した者が得するような世の中で、いわば輩が大通りを歩く。それはさておき、輩の話題を最初に書いたのは、今日紹介する石仏がそういう連中の被害に遭わないかと心配するからだ。そのためブログに書かないでおこうかという気持ちがあるが、筆者のブログは輩はなおさら読まない。それに筆者が書かなくてもすでにネットではたくさんの紹介がある。広沢池の東端に千手観音の石仏があることは7,8年前に本で知った。いつか見に行くつもりが、ようやく先月のゴールデン・ウィーク中の8日に家内と自転車で出かけた。その気になればすぐなのに、なかなかその気になれないことがある。去年4月まで家内は働きに出ていたので、たまの休みは大阪や神戸に出るのがもっぱらで、近場の嵯峨に自転車で行くつもりにはなれなかった。それがこの1年、家内に定期券がなくなったこともあって、また交通費をあまり使わなくて済む京都市内のあちこちに行くことが増えた。これが経済的な余裕があれば、思い切って海外旅行でもということになるし、また筆者らの年齢ではそういう夫婦は多いが、わが家は筆者は無収入の「はた羅漢」であり続けているので、その余裕はない。正確に言えば毎日唸りながら根を詰めて頭を使っているが、収入にならんどころか、莫大(筆者からすれば)な出費の連続だ。それもいいとして、広沢池の石仏は予想どおりで、特に記すこともない。写真を4枚撮って来たのでそれらを今日は載せる。この石仏は東を向いてぽつんと立っていて、そのことを思い浮かべると、何となく落ち着く。それはこの石仏の表情や安定感のためだ。人形のような優しい顔で、作者の人柄が偲ばれる。
石仏で千手観音は珍しいだろう。石仏であるから屋外に置かれたままで、雨の日も晴天でもずっと同じ位置だ。それは樹木と同じだが、石仏は風化する一方だ。それに輩に悪戯される危険性もある。野生の動物、たとえば烏なら白い糞をベチャリと落とす程度で、それは雨ですぐに拭い去られる。一番怖いのが人間だ。まさかこの大きな石仏を盗む者はいないだろうgが、それもわからない。大きな屋敷の庭にこっそり移設されれば、数十年ほどは存在が知られない。そういうことは江戸時代でも考えられたであろうか。仏像をそのように自分のものにすることはばちが当たると、まだ現在よりも信じ込まれていたはずだが、今では仏像は美術品として売買される。石仏も例外ではない。2月の天神さんの縁日では、石仏を2,3個売っている業者がいた。どれも苔がたくさん付着していて、つい先ほどまでどこかの家か野辺にあったものだろう。高さ50センチほどのそうした石仏を筆者もほしいが、以前どこにあったかを考え始めると、気安く入手してはならないものに思える。そうそう、3月に郷土玩具収集家のMさんから興味深い話を聞いた。それをここで全部書くのはまだまずいので、少しだけにする。Mさんの知り合いにNさんがいた。もう亡くなったので、Mさんはその人のことを話してくれた。Nさんは絵馬を集めるのが趣味であった。そして、各地の神社に行って片っ端から吊り下げられている絵馬を取って来る。そうした絵馬の中に、御所近くの神社から得た生首を描いたものがあった。それをNさんは愛好家の集まりで自慢げに見せた。生首を描いた絵馬は珍しい。それで収集するに値すると思ったのだろう。だが、趣味が悪い。生首は怨む相手があったためであろう。願かけは必ずしも幸福に因まない。藁人形に釘のような効果を願う絵馬もあろう。Nさんは絵馬を多くの箱いっぱいに収集していたらしいが、不幸が起こる。それを詳しくは書かないが、三度結婚し、三度とも妻に先立たれた。それで周囲の人は生首の絵馬の祟りかと噂したらしい。話はそれで収まらなかった。Nさんの収集をとてもほしがった別のコレクターがいた。有名な商店を経営する資産家であったから、Nさんのコレクションを全部買い取るほどの金はあったのだろう。これも詳しく書かないが、Nさんから譲り受けた後、急速に商売が傾き、その人は亡くなった。それでまた周囲は生首絵馬の祟りだと言い合ったそうだ。Mさんは話上手で、また淡々と仔細にその生首絵馬にまつわる話をしてくれたが、結語は、古い郷土玩具を集めるにはそれなりの覚悟を持てということだ。前に所有していた人のどういう思いが染みついているかわからず、怨念も引き受けることになるかもしれない。筆者はあまりそういうことを信じない方だが、何となく嫌な雰囲気のする作品はある。作者がどのような思いで作ったかは作品に表われる。それは全く当然のことで、作品を見ながら作者を想像する。これは人に好かれないと作品もそうであって、薄幸な作者の重要な作品は個人ではなく、公的な機関が所有するべきであろう。そこで筆者はわが身を振り返ることがある。筆者は家内に言わせればかなりの薄幸だ。最近は特にそのことを何かにつけて言う。かわいそうな主人公が出て来る映画やドラマ、小説に接すると、筆者を思い出すらしい。最近ではゴーゴリの『外套』を読んでその主人公に筆者の姿をだぶらせたようだ。
石仏は外套もなしで立っている。広沢池の千手観音は彫られて350年ほど経つ。御室のとある寺に五体の大きな如来の石仏が並ぶ。それらを彫ったのと同じ人物が千手観音も彫った。そして元はこれらの石仏はもっと山手にあったが、千手観音だけは広沢池の畔に移設された。これは広沢池の南にある遍照寺に譲られたためであろう。ともかく、全部無事でほとんどそのまま伝わっている。如来像の方は寺の中にあるので安全だが、千手観音はいつでも誰でも素手で触れる場所にある。とはいえ、筆者は触れなかった。たいていの人はそうだろう。相手が仏像となればそういうものだ。だが、信仰する宗教が違えば平気どころか、壊すことを義務と考えることもある。どこか破損していないかと思って接近すると、4枚目の写真からわかるように、両側の千手の部分がかなり欠けている。これは悪戯によるものではなく、自然に朽ちたものだろう。欠けた指先を今なら接着剤でうまく補修することが出来るように思うが、そうしても雨ざらしではやがてまた剥がれ落ちる。350年は長いが江戸時代のことだ。せめて1000年は保ってほしい。650年後の京都は想像出来ないが、広沢池の眺めはそのままであろう。そう想像すると、また落ち着く。自分が生まれる前からあった景色が、自分の死後もそのままと思えることは、人生には不動のものがあるとの安心感を与えてくれる。それにこの十一面千手観音は堂々としながら温かみがあり、作者の人格のよさが滲み出ている。さすが350年も無事であるはずだ。誰からも愛されるような作品が誰からも愛される人からしか生まれないことが事実であるとしても、長い年月の間に作者の生々しい思いは漂白され、芯の部分だけが露わになるだろう。薄幸な作者であっても、生涯自分を恵まれないと思い続けることはない。むしろ、薄幸を意識せず、ひたすらやれることに打ち込むだけだ。それに、薄幸を怨んでもどうなることでもない。『外套』の主人公のように死後に怨んで幽霊となって現われるのは、金があっても輩のように傲慢な奴を懲らしめるからで、自分の経済的貧しさを嘆くからではない。