誹謗中傷はしなくてもゴマすりで取り入ろうとすることはよくある。華やかな世界ほどそうで、また女の世界ではなおさらかもしれない。今日は10代半ばで男女の揉め事で人を死に追いやる事件が報じられたが、女が揉め事の最大の元凶かと思わせられる。
中学生の時、女子から嫌われる女子がいることを知った。男から見ればその嫌われる女子のどこがいけないのかわからない。それは女子から言わせれば、男が鈍感で、また男に色目を使う女子にさして悪い印象を抱かないということが理由で、その女子を陰で悪く言う女子の方がむしろ陰険で悪い女ではないかと思ったりする。これは堂々巡りで、女と男との間には深くて暗い川が流れている。それはさておき、女が悪く言う女は男に理解出来ないかと言えばそうではない。いくら色目を使われても、毒気を感じて近寄りたくない女はいるし、男はみんな同じではない。これは女も同じだ。誹謗中傷に話を戻すと、男女ともにやっかみの感情があって、それを自覚して抑えている間はいいが、つい他者に誇張したうえで話したりする。筆者は最近それに類することに巻き込まれた。だが、事実を知っている人がいるし、またある人の名誉もあって、黙っている。それに、誤解されてもいいような人にわざわざ口を尖らせて事実を知ってもらう必要はない。そのちょっとした事件によって知ったことは、60を越えた男の世界でも、やっかみや誹謗中傷が渦巻いていることだ。アホらしいことこのうえないが、人間とはそういうものだ。神や仏でも謗られるからには、聖人と呼ばれる人もそうで、市井の人ならなおさらだ。先頃大阪の住民投票が大きな話題になったが、以前橋下市長の出自を問題視する文章が週刊誌に出て、男の世界は女以上に陰険であることを誰もが思ったのではないか。出自がいいと自惚れている者がよほど下品で心底腐り切っていることを自覚しない。そうそう、今日は繁華街を歩きながら、辻まことのことを思い出した。辻まことには娘がひとりいて、アメリカだったか、海外在住で、彼女は父の墓を建てるために帰国してそれを終えたことを何かで読んだ。70年代のことであるから、彼女はもういい年齢になっている。辻のことより彼女のその行為を思い出したのは、表向きは辻のような激しい出自と生涯を持った父とはきわめて対照的で、目立たない普通の人ではあるが、有名人であった父親を持つことでその人の内面にどれほどの普通の人とは違う思いが渦巻いていたかと想像したからだ。だが、それはどんな人でも同じかもしれない。有名無名を問わず、両親は子どもにとって大きな影響力を持つ。それが出自という言葉にもなる。辻まことの娘がごく普通の人になったとして、それは辻褄が合っているかもしれない。辻は圧倒的な両親の生涯から逃れることは出来なかったが、辻の娘は時代がよくなったせいか、そうではなかった。それでも筆者が知らないだけで、その娘はアメリカでそれなりに辻の血を引いた生き方をしているかもしれない。話が変わる。先ほど家内が3階に来て、TVで見たばかりの映画について話し始め、これが中断した。ビットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』を、始まって30分ほどしてから見たとのことで、筆者はその映画の内容を知っているので半分だけ耳を貸したが、もう半分の気持ちでこれを書き続けることは出来ず、もう寝ることにした。家内の話で筆者が聴き耳を立てたのは、自転車を奪われて生活に困った父子だが、当時のイタリアには大金持ちもたくさんいて、彼らがレストランで豪華な食事をする場面だ。この映画を洲之内徹は『気まぐれ美術館』に、もうあのような悲しい映画をとても見る気分になれないといったように書いた。そう言えば、この映画の父子は辻潤とまとこの父子を連想させる。家内が言うには、主人公の貧しくて惨めな父はまるで筆者のようだとのことだが、金に縁がない男はみな同じように頼りなく見えるものだ。金のない男は男ではないとどの女も思う。子どもはそうでなくても、年齢を重ねるほどにそのように現実的になる。先日そのことを中高年の結婚についてのTV番組で見た。
今日取り上げる韓国ドラマ『イヴのすべて』は、同じ題名のアメリカ映画を昔見た。ハリウッドの女優が運をつかんでのし上がって行く内容で、世話になりながら、目の上のたんこぶとみなして先輩女優を蹴落とす。日本の芸能界でもよく先輩にいじめられたという話を聞くが、そうしていじめられた者の時代になると、当人もまた若手をいじめるだろう。そうでなければ自分がいつまで安泰でいられない。芸能界は下剋上が原則ではないか。そういうことを最初からいやがる人は芸能界に向かない。何か間違って芸能界で人気が出ても、すぐに忘れ去られる。いかにして目立つか。それには誹謗中傷やゴマすりはあたりまえだ。芸能界でなくても、名と顔を多くの人に知られる世界ではどこも同じだ。一見誹謗中傷と無関係のような世界ほどそれがひどいかもしれない。たとえば宗教界や学会で、一般人には伝わって来ないだけであろう。話を戻して、アメリカ映画『イヴの総て』は、田舎から出て来た女優志願が、主役の座をつかむ内容で、その裏に渦巻いていた策略を知るのはごく少数の人物だけで、一般人は誰ひとりとしてその醜いところを知らない。それと同じ筋立てをドラマとしてリメイクしても面白くない。そこで貧しい女がいかにしてTVのニュース番組の花形になるかを描きながら、アメリカ映画とは違う結末を用意する。この韓国ドラマは2000年の製作で、先日録画を見終えた。韓国ドラマは再放送が半分はあって、また筆者の機器では予約録画の時間帯が、あるドラマが終わっても有効で、勝手に録画され続ける。そうして溜まったドラマは250時間分ほどあって、消すのももったいなく、古いものからたまに順に見ている。『イヴのすべて』は当時話題になったことは知っている。とはいえ、『冬のソナタ』以降のことで、もっと視聴率がよかった作品としてネットで紹介されていた。韓国での視聴率が40何パーセントかで、同じ全20話ながら、2年後の『冬のソナタ』とは雲泥の差があって、日韓のドラマに対する好みの差がわかる。また、『イヴのすべて』は今見ると、化粧や衣服など、とても古くさいが、その点2年後の『冬のソナタ』はあくの強いいわゆる悪役が登場せず、そのソフトさが日本での圧倒的人気を勝ち得た。『イヴのすべて』は女に嫌われる典型的な底意地の悪い美女がトップに立とうとする内容で、結局それは実現しそうになりながら、身から出た錆によって破滅するという、韓国ドラマお決まりの勧善懲悪ものだ。では、その悪女が最後はどうなるかが見物で、誰しもそこに関心があって見続ける。そして、その悪女にもそれなりの不幸な生い立ちがあって、人を押しのけても成功をつかみ取りたかった事情が説明されるから、視聴者はこの悪役の憎みつつもどこかでその努力を評価して同情もする。だが、純情な男を手玉に取ったり、気に入らない上司の女性が運転中に死ぬかもしれないように、その女性の車にこっそりと危害を加えたりするなど、犯罪的な行為に及ぶに至っては、誰もが彼女の破滅を心待ちにする。結局このドラマは彼女の自滅で幕を閉じるが、それは持たざる者は何をしても成功出来ない現実を提示していて、2000年の韓国ではそれほどに財閥やそれに類する出自の者しか優雅な生活を送ることは出来ない状態になっていたことを伝える。アメリカ映画『イヴの総て』はまだその点ははるかにましで、先輩を蹴落としてでもトップ女優になれる時代であった。ところが、本作では貧しい者はどれほど才能があってもつかみ得られるものは知れている。それは希望のない世界で、現在の韓国をも彷彿をさせる。
本作の悪女役は最初ハ・ジウォンかと思ったが、『その陽射しが私に…』で主演をしたキム・ソヨンであることがわかった。『その陽射しが私に…』は本作の2年後の作だが、悪女役ではなく、よく印象に残っている。『検事プリンセス』も見たが、これは2010年で、また役柄ががらりと違った。その優れた才能は本作ですでに現われている。美人ぶりは『アイリス』で感じたが、その冷たい顔つきは好き嫌いがはっきりと別れるだろう。またその冷たさは本作で存分に発揮されていて、ハ・ジウォンよりも知的さが漂い、本作にはよく似合っていた。毒女、妖婦など、悪女のイメージにぴったりで、そういう役柄に対しては、育ちがよく、温和でかわいらしい女性を持って来る必要があるが、それを演じたチェリムという女優は、筆者は本作しか知らないが、キム・ソヨンの前では存在がかなり薄い。そういうことを監督はよく見越して起用したのだろう。恵まれた環境で育ったお嬢さんに敵意をむき出しにして優位に立とうと画策し続ける女性を演じるキム・ソヨンに対し、特に女性の視聴者はなぜ男は女から嫌われる女を持てはやすのかと首をかしげると思うが、先に書いたように、媚びるのが上手な女性にメロメロになる男ばかりではない。本作はそのことを鮮やかに描く。韓国ドラマは必ず若い二組の男女を登場させ、四角関係を描くが、本作のふたりの男性は、ひとりがイギリスで留学して帰国するTV会社の御曹司ヒョンチョルで、もうひとりがそこで働くカメラマンのキム・ウジンだ。前者をチャン・ドンゴンがクールに演じる。彼はあの手この手で接近するキム・ソヨン演じる新人アナウンサーのホ・ヨンミに心を奪われない。そこは終始一貫していて、全くスケベ根性を見せない。そのため、彼女は焦り、苛立つが、女の武器を最大限に駆使しても動かない男がいるという役柄を演じて、チャン・ドンゴンの人気はさらに増したであろう。彼はイギリスで知り合ったチェリム演じるソンミにぞっこんであったからで、男の一途な愛が描かれる。だが、それを言えばウジンはもっとかもしれない。彼は最初はソンミと相思相愛であったが、ヨンミが登場し、心を奪われる。だが、それはヨンミの打算で、彼女はヒョンチョルと出会って、すぐにウジンを捨てる。TV局で勤務するというきっかけを得た後ではもう用済みで、財閥の御曹司とカメラマンごときとでは比較にならないと考えたからだ。男はいくら努力しても財閥の御曹司になることは無理だが、女はわずか1年でもその妻になれる可能性がある。その点、女の人生の方が夢があるかもしれない。ただし、美女に生まれ、男を惹きつけて離さない魅力が必要だ。ヨンミは自分にそれがあると思った。それほどに男の扱いが慣れていたのは、やくざな男と同棲し、水商売をしていたからだ。ところが、そういう経歴は御曹司をものにするに当たっては汚点となる。そこで出自を隠すことになるが、育ちの悪さが根性を悪くし、邪魔者は物理的に消すしかないと考える。それに、汚点としての過去は拭い去れず、絶えず脅しをかけて来る。ヨンミは綱わたりのような人生を歩みながら、アナウンサーとしての努力は人一倍で、9時のニュースを担当するほどに昇りつめる。ただし、その間に同僚に敵を多く作る。そうなると自滅しかない。その原因は側面からもやって来る。捨てたと思っていたカメラマンのウジンは、ヨンミがどのような悪事を働いてもそれを見逃し、許すほどの優しい男で、ついに最期はヨンミを助けて車に跳ねられて死ぬ。報われない愛であることを知りつつ、初な彼はどこまでもヨンミを愛したが、そこにはヨンミへの憐みがあり、また彼女がそのような行動を取る原因を貧しい育ちにあることを理解していた。
ウジンは最初ソンミを愛していたのに、ヨンミを忘れられなくなって行く過程は、ドラマを見ていてもどかしい。初さにもほどがあるといった感じで、女の経験が少ない男とはこういうものかと思わせられる。その点、ヨンミは男経験が豊富で、ウジンは物足りなかった。そのことをウジンが知ればさっさとまたソンミに戻ればいいが、ソンミはソンミでじっと待ってくれているヒョンチョルに魅せられて行く。それはそうだろう。カメラマンより御曹司がいいに決まっている。結局ソンミもヨンミほどに打算があったかもしれない。そしてその素振りを全く見せないように本作では描かれるので、かえってソンミが憎らしいと見る人もいるかもしれない。そして、育ちや気性の優しい彼女が御曹司と一緒になることに、女性たちは世間をどのようにわたって行けばいいかを学ぶ。そこに男尊女卑の考えがまだまだ根強い韓国社会の現実を見る。本作で多少意外であるのは、ウジンが死んだ後のヨンミだ。彼女は彼のことをいかほどにも思っていなかったはずなのに、どこまでも自分を守って死んだことを知り、TV局を去る。その後、彼女は死んだと思われていたが、ひょんなことで動向がわかる。地方の施設で彼女は孤児の世話をしていたのだ。だが、過去の記憶を失っていた。あまりに悲しい出来事でようやくウジンの無償の愛を悟り、自己嫌悪から自殺しかけたが、助けられた。彼女に会いに行くソンミとヒョンジョンだが、ふたりにとっては最大の邪魔者であったヨンミはいなくなったも同然で、ふたりはやがて結ばれるというところでドラマは終わる。ヨンミが自殺を企てずに、そのまま放送局に残っていればどうであったか。それほどの根性がなければトップ・アナウンサーにはなれないだろう。彼女も肝心なところで男の愛に弱かったということになる。施設で健気に働くヨンミは、悪女役とはがらりと表情が違い、女優の貫禄を見せる。彼女なくしてはこのドラマは成立せず、そのことを見せつけたことで彼女の株が上がった。それにしても、貧しい者が成功を夢見て誰よりも頑張っても、その果てが世から見捨てられた廃人同然では夢も希望もない。確かにヨンミは悪事は働いたが、財閥も叩けば埃が出て来るであろうし、彼らの論理で物事が決められてはたまらない。つまり、ヨンミの悪事は些事であって、財閥はもっと巨悪を陰でしているということだ。それを言ってしまえばドラマ作りのスポンサーがつかず、御曹司は欠点が皆無な聖人君子であり、彼が選ぶ女性は企みなど露も知らないといった純粋な性格とするようなドラマが作られる。ヨンミがいくら誹謗中傷やねたみを尽くしても、彼らの牙城はびくともしない。そのようなことを感じさせる本作であるかどうかは意見が分かれるはずだが、いつの時代でも財閥の御曹司や彼に愛される女はごくごく少数で、大多数はヨンミのような境遇だ。そして、将来の光が見えず閉塞感にさいなまれる若者にとって、他人を蹴落とそうなどと考えずに、ひたすら真面目に勤務すべきとの教訓を与えている本作は、勝者の論理で描かれていて面白くないだろう。