琥珀は飴色と思っていると、一昨日青いものもあることを知った。日光に当たると青くなるという。中国人が珊瑚や琥珀を日本で買い漁った後、次に売れるのがこの「ブルー・アンバー」とされているらしい。
それはさておき、今日は半ばは昨日の続きだ。今日も一応満月なので、人を思い出すにはちょうどいい。昨夜、平安画廊で働いていた友成さんのことを書いた。投稿し終えた後、彼女の個展はがきを探したが、見つからなかった。個展の案内は昔は毎週のように届いていたので、不要なものは何年か経って捨てた。その中に友成さんの唯一の個展のものもあったかもしれない。どういう作品が印刷されていたかはよく覚えている。それで平安画廊のオーナーの中島さんが亡くなった後、同画廊もなくなり、多くの関係者が『平安画廊40年の軌跡』という本を作って2008年10月に出した。その記念展を訪れ、1冊買った。その後それを繙くことがなかったが、今日は隣家に本を探しに行くと、ついでにそれが見つかった。「友成直子展」は1995年8月22日から27日まで開催されたことが記されている。もう20年経つ。当時彼女が30歳として、生きていれば50だ。6日間の会期のうち、いつ訪れたか忘れたが、彼女と話したことはよく覚えている。それが20年前とは信じ難い。『平安画廊40年の軌跡』は同画廊で開催された全展覧会が年度ごとに順に記載されている。筆者は1980年代前半から通い始めたが、最初の数年は展覧会が変わるたびに行くという熱心さはなかった。そのため、40年の歴史のうち、後半の20年ほどが中島さんと顔馴染みとなってよく話した。そうなるきっかけは、作品を買ったからだ。ヨルク・シュマイサーの銅版画を初めて見たのは、岩倉のN宅だ。Nとは京都市美術館敷地内にあった平屋の建物をアトリエとして使っていた市民アトリエ教室の銅版画コースだ。80年代のいつであったかすぐにはわからないが、Nの両親とも親しくなり、何度か岩倉の大きな家にお邪魔した。その時、五重塔など京都の町を画題しにた黒一色の銅版画が飾られていて、それが気になった。Nの父親に訊くと、シュマイサーとの返事があったが、初めて聞く名前であった。ところが、間もなく平安画廊でシュマーサーの個展があった。『平安画廊40年の軌跡』を見ると、1983年2月8日から13日だ。これを見たかどうか記憶にない。平安画廊での次の展覧会は1986年3月4日から9日で、翌年4月21日から26日も開かれている。このふたつは見た。その間であったと思うが、ドイツ文化センターでも別の作品を並べた展覧会があって、すっかりシュマイサーのファンになった。そうなれば作品がほしい。平安画廊で次に開催されたのは1989年5月23日から6月4日だ。息子が4歳になっていて、どこに行くにも連れて出かけた。この1989年のシュマイサー展は
「平安画廊の中島さん」と題しての投稿に、店の前に息子が立つ写真を載せた。写真の右端の大きな曼荼羅風の作品は同展の白眉で、それがほしくなった。そして買った。領収書がパルコ出版が1987年に出した『ヨルク・シュマイサー』に挟まれていた。14万円だ。平成1年6月6日の日付で、展覧会が終わって引き取ったことがわかる。当時の14万円は筆者には大金だ。それでもほしかった。ほかにもほしい作品があったが、もっと高かった。バブル時代で、高くても売れたのだろう。『ヨルク・シュマイサー』には筆者が買った作品は冒頭に特別扱いで載っている。当時の代表作だ。平安画廊での次のシュマイサー展は1993年2月2日から7日で、その次が1996年6月11日から16日、そして2000年4月25日から5月7日が最後となった。これら3つはよく覚えているが、最も印象的なのは2000年展で、案内はがきは友成さんの筆跡だ。運よく筆者はシュマイサーが訪れた日に出かけた。パーティが開催され、ビールや食べ物が振る舞われた。10数人で談笑したことはとてもよく覚えている。シュマイサーとも話をしたが、それが初めてではなく、1993年か1996年展でも少しだが言葉を交わしている。
シュマイサーは旅人で、世界中を回ったのではないだろうか。ついに南極まで目指し、その成果は2003年10月28日から11月4日までの新風館での『氷原をゆく 南極の旅から生まれた作品展』で展示された。筆者は11月3日の夕方に訪れた。その図録の扉にシュマイサーからサインをもらった。その時のこともよく覚えているが、それが彼と言葉を交わした最後ではなかった。京都市芸を退官したのは2008年で、退官記念展が芸大で同年1月23日から30日まで開催された。それを見に行かなかったのは、沓掛に行くのは不便であったからだ。ただし、同展の3つ折りの作品目録は手元にある。それを入手したのは同じ年の3月8日から23日までギャルリー宮脇で開催されたシュマイサー展だ。いつ行ったか忘れたが、店内に画廊のオーナーとシュマイサーがいて、話が弾んだ。ただし、シュマイサーよりも画廊主ともっぱら話した。店内には40点ほどが展示され、筆者が持っている作品がいくつかあった。そんなことから話が弾んだ。そして店主はパルコ出版の『ヨルク・シュマイサー』が絶版で、1万円出してもいいので何冊もほしいと言った。筆者はネット・オークションで2000円台でたまに出ると言うと、それを押さえたいと言った。筆者の知る限り、それから7年の間、2500円で落札されたのが一度だけあった。それはともかく、同展の後、シュマイサーはオーストラリアに移住することになった。エアーズロックなどオーストラリアの岩を画題にすることは80年代からあったし、また南極の取材で氷山を頻繁に描いたので、オーストラリアとのつながりを深めていたのだろう。だが、2008年3月以降、筆者はシュマイサー展を見ていない。京都での開催があったのだろうか。大阪では心斎橋のギャラリー井上がシュマイサーの作品を扱っていたが、今はどうか知らない。去年9月に筆者はネットでシュマイサーが亡くなっていたことを知った。驚き、また悲しく、さびしくなった。それは今も変わらない。亡くなったのは6月3日だ。3年前のその日、筆者は
『京大日食展 コロナ百万度を超えて』について投稿した。その画面を見ると、ムーンゴッタならぬブラック・サンゴッタで、特別な日であるかの暗示がある。そして、3回忌の昨日は満月で、厚い雲の中からついに満月が顔を覗かせた。シュマイサーはオーストラリアで4年しか過ごさなかった。享年70で、早い死と言えるが、世界中を旅してやり残した仕事はなかったように思う。彼の死を知って最初に思ったことは、パルコ出版『ヨルク・シュマイサー』に載っているギリシアの現代詩人カヴァフィスの「イタケー(ITHAKA)」だ。これを気に入り、座右の銘のようにして残り四半世紀を生きたのだろう。ITHAKAはイタキ島で、ホメロスの『オデュッセイア』に出て来る。オデュッセウスの故郷で、シュマイサーはその島を訪れたことがあるのだろう。カヴァフィスの同名の詩から引用しておく。破線は省略を示す。誰の訳かは書かれていない。「イタケーを目指して旅立つ時には、冒険と発見に満ちた 長い旅路を願え。……願え、長い旅路を。楽しさと喜びに心満ちて はじめて見る港へ入ってゆく、その夏の日の朝の多からんことを。フェニキアの交易所に足を留め、良い品々を手に入れんことを、真珠母と珊瑚、琥珀、黒檀 ありとある種類の官能的な香料。……心では常にイタケーを思え。おまえがそこへ着くことはすでに定まっている。だが決して無理をしてはならない。旅が何年にもわたるならその方が望ましい。島へ着いた時におまえは年老いて、道々得たもので豊かになり、イタケーは富をあおいだりしないだろうから。イタケーはおまえに良い旅を授けた。彼女なくしてはおまえは旅立たなかった。だが彼女が与え得るものはもうない。彼女の貧しさにおまえは気付くかもしれないが、イタケーはおまえを欺いたのではない。多くの経験によって賢くなったおまえは、その時知るだろう。イタケーが何を意味するかを。」 カヴァフィスは死後に作品が世に知られるようになった。シュマイサーは知る人ぞ知る銅版画家だが、評価の高まりはこれからだろう。亡くなる何年か前に自選作品集『BILDER DER REISE:A MAN WHO LIKES TO DRAW』を計画していたそうで、それが出たのは死後の2013年であった。BILDER DER REISEは「旅の表象」の意味で、先の詩「イタケー」とつながっている。筆者の旅路も残りは少ないが、日光で琥珀色に日焼けさせないようにシュマイサーの版画をこれからも毎日見えるところにかけて眺める。