籤を考え出した良源こと元三大師は角大師や豆大師とも呼ばれるが、筆者は2年前の秋に比叡山横川の元三大師堂で角大師の護符を買い、その後ネット・オークションで角大師の像と「不退寺」の文字がある土鈴を入手した。

それで不退寺に行くことにした。その経緯は去年の
「その1」、
「その2」に書いた。今日は不退寺行きについての最終回で、同寺の角大師の護符について書く。本堂内部で筆者は住持に角大師の土鈴を所有していることを話した。すると、住持の父親が若い頃に宗派を越えて各地の寺に修行に赴き、その際に角大師を不退寺でも魔除けの護符として授与することになった、そして土鈴は業者に一任したが、よく売れるので制作が追い着かず、そのうち廃絶したとのことであった。現住持の年齢が70代後半とすれば5、60年前のことであろう。その頃は郷土玩具ブームで、土鈴は全国的に造られ、買い求める人が多かった。ブームはいつか下火になる。また人件費の高騰もあって、土鈴作りは商売にならなくなった。それに、角大師は天台宗であるから、真言律宗の不退寺としてはあまり大っぴらにしては、宗派に詳しい参拝者に説明するのに面倒だ。そういうこともあって、土鈴の作り手がなくなった段階で角大師についてはもう関係がないとの立場を取ったのだろう。筆者は新たな疑問がよぎり、帰り際に受付の前で受付の女性も交えてもう一度角大師の話を蒸し返した。女性は京都の寺社にも詳しいようであったが、角大師の護符については知識がほとんどなかったようで、筆者は籤を創始した比叡山のお坊さんが角大師と呼ばれることを説明した。そして、京都市内では御所の東の梨木神社近くの寺でも発行していると言うと、すかさず「廬山寺?」と返事があったので少し驚いた。寺社巡りが好きな人ならばあたりまえの知識かもしれないが、筆者は京都市内にいるのに同寺には行ったことがない。角大師は籤の神様であるから、ちょうど発売されたばかりのジャンボ宝くじを買うと当たるかもしれませんねと彼女に言うと、そういう考えはいけませんねと笑顔で返された。良源が創始した籤は、物事を決める時に困った時に用いるものだ。富くじはその拡大解釈で、後世になって出て来たのだろう。だが、未来を占う点では富くじも同じだ。魔除けの護符である角大師に、大金が転がり込むというもっと積極的な意味を付与する人があっても仕方がないところがある。話は変わる。先ほどわが家に使う波板を買うのに、自治会のFさんの車で数キロ南方のホームセンターまで往復してもらった。その帰り道、とあるスーパーでFさんは車を停めた。宝くじを買うためだ。正確に言えばロト6かロト7で、筆者はその名前は知っているが、実態はよく知らない。6は数字を6つ、7は7つを当てるものらしく、後者の方が確率は低いので得られる金額が大きいという。数字を全部当てる人が毎回出るとは限らず、該当者なしの場合は賞金が上乗せされ続けるので、10億円といった高額にもなるらしい。そして、いつか必ず当てる人があって、普通の宝くじより得られる金額が大きい場合がある。Fさんの知り合いは100万円を二度当て、その金で旅行したそうだが、200万円当てるまでにそれなりにロトを買っているから、儲けは割引しなければならない。だが、外れてもその分当たるかもしれないというスリルを味わったので、外れてもまあいいかと諦めがつく。富くじは賭博と同じで、金は確かにほしいが、賭けている時の高揚感が元気の源になるのだろう。そう考えると、富くじは弊害のみとは言えない。娯楽はいつの時代でも必要だ。くじもその一種とみなせばよい。実際人生はくじのようなものだ。いいことに当たることもあれば、その正反対なことに当たることもある。それゆえに籤には吉も凶もある。凶事にいつぶつかるかわからない人生であるから、ロトで大金を当てたいと思うのは人情だ。200円や300円で大きな夢が見られるのであれば安いものだ。

不退寺の受付の前で筆者が粘ったのは、そこでどんなものが売られているかを確認したかったためだ。角大師の土鈴がないことは本堂内部の住持の言葉からわかっていたので、紙に刷った護符を当てにしたが、それも見えない。そこですぐ近くにいた住持に訊ねると、木版刷りの在庫があるが、受付では売っていないとのことだ。受付の女性もそんなものがあるとは知らなかったと言う。筆者は安価であれば1枚ほしかったが、住持は保管してあるところから持ち出すのが面倒なのか、あるいは売り惜しんでいるのか、ともかくその実物は10数メートル先に貼ってあるとのことで、早速その場所に行くと、住持が追って来る。護符はすぐに見つかった。撮影してもよろしいかと訊くと、かまわないとの返事で、そうして撮ったのが今日の2枚目だ。何年前か知らないが、住持によれば10枚20枚とまとめて買って行く人があったそうで、在庫は少ないのだろう。それに、やはり天台宗の護符なので、あまり目立って売りたくないのというのが本音であろう。元三大師堂のものに比べて大きさは半分だが、手刷りであり、角大師の像の両脇の文字が赤いのがよい。像は版木の磨滅からあまり鮮明ではない。角大師の護符は、叡山学院が1984年に調査作成した表によれば、日本全国で293か所ある。そこには不退寺は含まれておらず、そういうことも同寺が受付で護符を売らない理由になっているかもしれない。ともかく、角大師の護符を全部蒐集している人はいるだろうが、筆者は最初に元三大師堂のものを買ったので、それで充分と言える。角大師の護符を集めるために日本全国を回るとなると、車が使っても数年は要するだろう。それほどの強い関心は筆者にはない。何事もただ集めることだけにエネルギーを費やすのは馬鹿らしい。自分の手元にやって来る縁、すなわちたまたま入手出来た時の記憶を筆者は大事にしたい。そのため、集めることが目的となっている収集家にはなれない。そういう収集家はそれなりに社会に役立つが、ほとんどの場合、本人が死ねば集めたものは散逸する。男はいつまでも子どもじみたところがある。そのことを収集家が最もよく体現している。本人が満足しているのであれば他人はとやかく言う必要はないが、収集品の数が自慢である様子を見ると、筆者はあまりそういう人と縁を強く結んでいたいとは思わない。目が血走って狂気じみて見えるからだ。わずかに気に入ったものを手元に置いて満足する方が気楽でいい。それはさておき、不退寺を訪れ、角大師の土鈴や護符についての情報を得ることが出来た。それで充分目的が達せられたが、角大師に関しては区切りがついたのではない。さらに縁があって物事はつながって行く。そういうつながりの一端をこのブログに書いている。

受付の窓口の下に、奈良京都の寺社で油を撒かれる被害に注意を促すチラシが貼られていて、住持とその話になったことを前回書いた。今日はその犯人がわかったというニュースがあった。アメリカ在住のキリスト教信者らしいが、信仰の違いから日本の寺社仏閣に油を投げつけるのはどういう考えからか。一方、シリアで暴れるISの連中がニルムドの遺跡を爆破したり、博物館の展示品をドリルで粉々にしたりするなど、偶像崇拝禁止の考えに馴染まないものをこの世から消し去ろうとしている。オウム真理教も芸術にはさっぱり理解のない連中の集まりであったが、いくらいい大学を出て頭のよさを自認する者でも、釜ヶ崎大学で学ぶひとり暮らしの孤独な老人や、また知恵遅れの人たちによるいわゆるアール・ブリュットの作品に匹敵するものを生み出せない、あるいはその気もないのであれば、それはどこか人格に欠陥があるのではないかと筆者は思う。大本教の王仁三郎の存在はオウムの活動にヒントを与えたと言われるが、決定的に違うのは、誰でもわかるようにオウムのサティアン内部は神々しい像といったものが皆無であった。芸術の有効性を理解しない連中の集団で、そのために殺人事件をいくつも起こしたと言い切ることは出来ないが、筆者にはオウムとイスラム国の行為がだぶる。王仁三郎に限らず大本教の頂点にいた人たちは、書画や陶芸など、造形に関心を抱き、見所のある作品を残した。造形行為は古い何かを壊して新しいものを作り上げることと言ってよい。その点、イスラム国は偶像崇拝禁止の考えのみでどのような過去の造形作品もこの世から消え去ってもいいと考える。壊した後に何かを作ることをしない思想は多くの人からは受け入れられないだろう。それはともかく、宗教は他の宗教を排斥しがちで、筆者の知っている人でも、自分が信ずる宗教以外はまるで糞同然に侮蔑する。不退寺の前住持はその点、宗派が違う天台から角大師を持って来て一時期土鈴や護符を作って授与した。今ではそれが許されないとすれば、日本の仏教もえらく心が狭くなった。棲み分けが進めば必ず排斥の摩擦が生じる。人種でも同じで、その同じような戦いを人間は永遠に繰り返す。気に入らなければ放っておけばいいものを、油をかけて回るのは、どうにか危害を加えたいとの思いがあるからだろう。それが大きくなればイスラム国の遺跡の破壊と同じことが行なわれる。ともかく、油かけ野郎が判明したことはひとつすっきりした。と同時に、信仰の偏狭さを見て、嫌な気分になる。さて、今日の写真を説明しておくと、最初は本堂前から門を撮った。南向きで、南門と呼ばれる。左手に小さな池、右手に受付がある。池の写真は
「その4」の2枚目に載せた。その背後に見えるのが南門だ。緑がかなり多く見えるが、戦前の絵はがきを見ると、本堂背後はほとんど真っ白で樹木は極端に少なかったようだ。それは早くて昭和40年代半ばまで変わらなかった。今日の3枚目は、寺から東に山手の道を歩いていて突如視界が開けた場所に出たところを撮った。去年はこの道を歩かなかった。遠く左手に若草山や東大寺、右手に県庁が見える。こういう見晴らしのよい場所に住みたいものだ。この写真を撮ってさらに東へ100メートルほどか、去年歩いた道に出た。二度目、正確に言えば去年は往復往と三度歩いた道で、今年は四度目になるから、もう道に迷うことはなく、また観察しながら歩く。そこで改めて目に留めたのが4枚目の禅寺で、門の色や形が中国的であるところ、黄檗宗だが、印象的な赤は
六道珍皇寺の門を想起させる。17世紀の建立で、奈良に黄檗寺院があることが何となく面白い。この寺の門を撮ったのは、「大日山」で、筆者の名前に近いのが印象的であったからだ。4枚目を撮った後、次に撮るものがあって、それを目指し、思いのとおりに撮影したが、それは今日のカテゴリーにふさわしくない。筆者と家内がどのように歩いたかは、
「その3」の最初に載せたが、不退寺を訪れた後、興福寺に歩いて行くのであれば多少の参考になると思う。バスを待つのは面倒臭いし、奈良の古い街並みを見ながら歩く方が楽しい。