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●鳥羽の藤、その2
辰戦争については中学の社会で学んだが、尊王攘夷の思想を巡る幕末の歴史は複雑で、関心がないことには大人になってもわかったようなわからないような具合でいる。



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白虎隊の悲劇や五稜郭での戦いなど、日本国内で悲惨な内戦があったことは記憶に刻まれたが、その後日本は外国と戦争するようになり、零戦や戦艦大和、原爆といった目立つ事柄に目が向き、幕末の内戦はなおさら遠いことに思える。NHKの大河ドラマでは幕末から明治維新を取り上げることが多いが、それは京都や大阪、東京以外の土地に焦点を合わすことが出来るからで、その中でも水戸や会津では戊辰戦争のことを今もよく記憶し、大河ドラマに取り上げられることは大歓迎であろう。それは観光に役立つという考えのほかに、戊辰戦争で幕府側について善戦したという自負で、悔しさゆえの誇りと言える。10年ほどになるか、いわきのTさんのご主人が関西をひとり旅し、その途中で京都に来られ、会津藩士がたくさん葬られる金戒光明寺を見たいとのことで、一緒に出かけたことがある。その時が同寺を訪れた最初であったと思う。Tさんは水戸藩士の血を引くが、ご主人は同じ福島県の会津により思い入れがあるのかもしれない。ともかく、幕末に会津も水戸も歴史の表舞台に出たから、そのことが福島県や茨城県の人たちは今も語り草にしているのだろう。それはともかく、天気のよい日の午後の陽射しの中、会津の兵士たちが眠る墓地の前まで行ってそこで引き返したが、墓地のだいたいの雰囲気がわかればいいとのご主人の言葉にしたがったからだ。その日はどちらが先であったか忘れたが、新撰組に因んで壬生寺にも行った。半日では京都観光は3,4か所が限度だ。紙片に20か所ほど見たい寺社の名前が書かれていて、それらを全部見るのはとても無理であるので、最も行きたい場所からにしようと提案すると、会津藩士の墓がある金戒光明寺すなわち「くろ谷」ということになった。同寺にそんな墓があることはその時に知った。それでも筆者には関心のないことで、会津か水戸か記憶が曖昧になっていた。今年は桜の季節に円山公園の長楽寺に行き、そこに水戸烈士の墓碑があることを知って、戊辰戦争に至る前、京都御所を守るために水戸から大勢の兵士上洛し、そして命を落としたことを今さらに思った。そのようなことで、幕末や戊辰戦争についてもっと知識を得るのもいいかと考えているが、筆者の関心は武士の戦いにはあまりない。これも10年ほど前か、戊辰戦争で死んだ会津藩の兵士の死体が鳥羽伏見のあちこちに放置されていたのを、会津小鉄が回収し、ねんごろに弔ったということを何かで読んだ。京都では会津小鉄会というやくざの団体はそれなりに有名だ。筆者は中学生の頃に叔父が話しているのを耳にしたことがある。それはともかく、なぜ小鉄が有名で、京都に根を張ったのかを、戊辰戦争で死んだ会津藩の兵士の死体を手厚く葬ったためであることに思い至った。小鉄の墓は「くろ谷」にあって、しかも小鉄が死体を埋葬した会津の兵士たちが眠る墓を守るような形で、東を向いて建つらしい。そこでまた思うのは、Tさんのご主人はやくざには興味がなく、会津小鉄についても知識がないかもしれない。小鉄の時代は「やくざ」という言葉はまだなかったと思うが、その点はどうなのだろう。「博徒」と呼ぶ方が小鉄に似合っていて、これは博打をして生計を立てる連中で、賭け事は永遠になくならないから、「博徒」もそうであることくらいは誰にでも想像出来る。だが、パチンコや競馬は国から認められているが、博徒がするような半か丁かの博打は禁止されていて、今のやくざはほかの方法で金を手にしなければならない。つまり、博徒もやくざも時代の推移とともに変わって来たし、そうならざるを得なかった。そこで思うのは、会津小鉄は会津藩の武士ではなく、下働きをする程度の人物で、その構図を今の時代に当てはめて見ると、政治家とその陰で動く暴力団という図式になって、世間の表舞台で活躍する人種の背後にはそれを支える裏社会の人物がいることは小学生でも感じるだろう。もっとも、そういう図式を筆者の世代は主に映画で知ったが、今は漫画その他でいくらでも日本のそういう構造を知り得る。
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 会津小鉄は現在の種学院や田中、浄土寺辺りの白川村に住んで、監獄から出所した時は7000人が集まったと今日はネットで読んだ。それほど人気があったことは、魅力的な男であったのだろう。博徒、やくざと言ってしまえばそれまでだが、世間から弾かれて生きて行かねばならない人はいつの時代にもいる。先日の川崎での宿泊施設での火事で焼け出された人たちの中に、40代や50代の生活保護受給者がいて、TVでその姿が映ったのを見ると、博徒やまた怠惰な人物には決して見えず、どこかで何かが少し狂ってそういう境遇になったことを思った。アパートに住んでいないので、履歴書を出してもどこからも就職を断られるとのことで、なかなか木賃宿から抜け出せない。小鉄の生きた時代であれば、何か働き口があったかもしれないが、小鉄でさえ50少しで死んでいて、40代、50代の働き場所のない人はもう今後も仕事にありつける可能性は少ない。そういうどこへも行き場所のない大人に生きる楽しみを与える施設として、たとえばこれも先日書いた「釜ヶ崎芸術大学」があって、戊辰戦争の時代では考えられなかった福祉やボランティアが出現した。これはやくざになって生きることは悪いことだという意識が広がったことと、国が経済的に豊かになったからで、小鉄が持っていた「任侠」は今は博徒とは関係のないところでたくさん花開いている。これは簡単に言えば、困っている人を損得を考えずに助けることだ。そう思えば介護ヘルパーがたまに老人を虐待したというニュースに接すると、彼らは金ももらいながら危害を加えるのであるから、殺伐とした気分にこっちまでなってしまう。そうそう、今日の午後、少年院に30年間、落語で慰問している落語家が紹介されていた。その顔つきを見て、会津小鉄を連想した。小鉄がどのような顔をしていたのか知らないが、今日の落語家は、TVに出る芸人とは全く違った雰囲気で、強面ぶりが尋常ではなかった。番組の後半しか見なかったので、どういう出自かしらないが、とにかく凄味のある顔で、少年院のどんなに強がる少年でもひれ伏すだろう。ところが、その落語家が涙する場面があった。そこで「任侠」という言葉を思い浮かべたが、彼は少年たちに真剣に更生してほしいために慰問を続けていて、それは何か希望を持って生きて行ってほしいとの強い思いからで、それは少年たちに伝わるだろう。時代が違えば、またちょっとした運が違えばその落語家は博徒になっていたかもしれないが、芸人も案外それと変わらない。博徒と違って人を楽しませると言えるが、博徒も賭け事を楽しませるのであるから、どのような時代になってもなくならない。先に武士にあまり関心がないと書いた。筆者はいちおう友禅師だが、それ以外に熱中し、また依頼されることがあって、何が本職かわからない状態になっていて、家内は半ば冗談半ば本気で「遊び人」と言うし、自分でもそう思うところがある。博打はしないが、人生そのものがそれと同じで、定収がない。30数年前、梅津の染色工房にいた時、パートの50代のおばさんがいて、よくいろんな話を聞いた。彼女の旦那さんは警察官であったが、お見合いの相手に最初は友禅師がいたらしい。ところが、友禅師は祇園で派手に遊ぶのが当時は常識化していて、そういう旦那さんでは苦労すると考えて、警官と結婚したそうだ。つまり、友禅師の反対が警官という世間の見方がある。家内の姉と2か月前にそれに似た話をした。全くの家庭的な女性である義姉の言うには、『遊びの知らない男はつまらない』で、これは意外では全くなかった。伝書鳩のように家と仕事場を毎日往復するだけの男はまず女には持てないだろう。
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 話がなかなか今日の写真につながらない。戊辰戦争と言えば鳥羽伏見の戦いで、小鉄は鳥羽伏見を歩き回って会津藩の兵士の死体を収容した。何人かの子分を連れてのことだが、それにしても誰にでも出来る仕事ではない。一歩間違えば新政府の兵士に殺される。それに戦いは1月であったので、死体は腐乱しにくかったであろうが、それでもそうなるまで放置されていたはずで、大八車に載せるにしても「くろ谷」まで運ぶのは大変であった。その死体がどの辺りに散らばっていたかは資料があるのだろうか。鳥羽伏見は範囲が広く、また筆者は伏見はそれなりに知るが、鳥羽はほとんど土地勘がない。それでというのではないが、鳥羽水環境保全センターで藤が見られるというポスターを見て、出かけることにした。このセンターは下水処理場で、上水のための施設もあると思っていたが、そうではないようだ。「下水9という言葉を使わないのは、付近の住民に配慮してのことだろう。そして藤を植えてそれを公開するのも同じ目的で、汚れ物のイメージを払拭するのに役所は大いに気を使っている。4月28日に訪れた時、5月3日から6日まで蹴上の浄水場で一般公開される「蹴上のつつじ」のチラシが置いてあって、それも見に行こうかと思いながら、わずか3日では機会がなかった。また、四半世紀前にそのつつじは家内と見に行ったことがある。暑い陽射しをよく覚えていて、それも行かなかった理由だ。ほんの少し早い藤は、好天で会っても暑さはさほどではなかった。鳥羽水環境保全センターは昔は何もなかったところではないだろうか。鳥羽伏見の戦いは小枝橋で勃発したそうで、この橋は名前からして小さな橋のはずだが、地図を見ると同センター南端のすぐ東に、桂川の幅が狭くなっている箇所があり、どうやらそこに小枝橋があった。その100か200メートル上流に新しい橋が架かっていて、それが現在の小枝橋であろう。筆者らが自転車を停めた同センターの東門から南東600メートルで、同センターの東側の道路を下がって行くと自然とその橋に至る。それを東にわかれば200メートルで城南宮の北西角に着く。ともかく、城南宮近くで戊辰戦争が始まった。鳥羽街道沿いに死体が転がっていたそうで、それは同センターの東側で今は工場地帯になっている。上鳥羽は下鳥羽ほどには激戦はなかったようだが、同センター界隈を会津小鉄は死体を探し回って、鳥羽街道すなわち千本通りを北へ「くろ谷」に向かった。そのように想像すると、同センター付近のあまりにも殺風景な空気が理解出来る。150年ほどでそう土地の印象は変わらない。鳥羽伏見の戦いは有名でも、結局は殺し合いで、そういう殺伐とした歴史のある地域を自転車で走っても面白いものではない。
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by uuuzen | 2015-05-28 23:59 | ●新・嵐山だより
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