篁を「コウ」か「オウ」と読むのは誰でも想像がつくが、「たかむら」とも言うことを知る人はあまり多くないかもしれない。筆者は何で知ったかと言えば、はっきりと記憶する。展覧会で富山にとても個性的な水墨画を描く篁牛人がいることを知った時だ。
図録を引っ張り出すと、1981年7,8月に京都国立近代美術館で開催された『異色の水墨画家』で、3人取り上げられた中のひとりだ。同展開催時は存命中で、1984年に83で亡くなっている。それはそうと、今大きな雷が鳴って雨が降り始めた。カーテンを閉め切っているのでわからないが、天気が急変したようだ。午後10時を回って不気味な夜だ。それはさておき、今日は今月6日に家内と訪れた六道珍皇寺について書く。なぜ急に行く気になったかについては次回にでも書くが、ひとつの理由は、ゴールデン・ウィークはどこにも旅行していないので、せめて最終日に行ったことのない寺にでもと考えたからだ。近場でも記憶に残ることがあると家内は喜ぶ。そして、この寺ではそれなりに面白いことがあった。さて、まず「六道珍皇寺」はどう読むかだ。「六道」は「りくどう」とも読むが、この寺では「ろくどう」だ。「珍皇」の「皇」は「篁」と同じで「こう」は「おう」だが、「ちんこう」と読むと笑いを誘うから、ここは想像どおり「ちんのう」と読む。そして「ろくどうちんのうじ」は長いので、縮めて「ろくどうさん」と呼ばれるらしいが、それはこの寺の近辺に住む人ならわかるが、京都はそれなりに広く、寺が多いので、嵐山の住民はこの寺の辺りまであまり足を延ばさず、「ろくどうさん」と聞いてもピンと来ないのではないだろうか。筆者はこの寺の門の前に10数年前に立ちながら、入らなかった。その時も家内と一緒で、そのことを今月6日に言うと、記憶にないとのことであった。10数年前になぜこの寺の前を歩いたかだが、大和大路通りを四条から南下し、松原通りを左折して東大路通りに出た時のことだと思うが、記憶の中では逆に松原通りを西に向かって歩いている光景が浮かぶ。もっとも、10数年前が最初ではそれ以前にも歩いているかもしれず、また以降も当然歩いているから、記憶が混同しているのだろう。この寺で思い出すことは、門の扉の赤がとても目立つ色調で、また鮮やか過ぎず、地味過ぎず、筆者好みの赤であることだ。この寺とセットで思い出すのは六波羅密寺で、150メートルほど西にある。そこも気になりながら、まだ訪れていない。何かきっかけでもなければなかなか境内に入る気が起こらないもので、その点今回はその気になる理由があった。話を戻すと、10数年前にこの寺の前に立った後、あるいはその直前に、ややわかりにくい出入り口のスーパーに入って家内は何か買った。出入り口の趣からして内部は狭いと思ったが、奥に長く、またかなり広かった。変わったスーパーで、また地元に根差した庶民的な雰囲気が面白く、惣菜や魚、野菜は豊富であった。スーパーと呼ぶより、昔から経営が続く市場なのだろう。なぜそのスーパーをよく覚えているかと言えば、中を回っていると、客の数より店員が多いという状態で、また白の割烹着のような上着を着た若い女性がこっちを物珍しそうに眺めていることに気づいた。彼女は40歳くらいだろうか。主婦のパートであろう。彼女の視線は筆者を追い続けているようで、筆者らを観光客と思っているような目つきではなかった。こう書けば全くおめでたいおっさんの自惚れになるが、異性として意識したような目つきで、そのくらいは筆者でも感じることは出来る。そういう視線の交わし合いは人生に何度かは誰にでもある。彼女の顔は覚えていないが、視線を交わしたことはよく覚えていて、六道珍皇寺と言えば連想する。だが、毎日客を値踏みしていた彼女はさっぱり覚えていないはずで、男というもののおめでたさを自覚せねばならない。
女の話になったのでもう少し書くと、お互い意識したような視線の交わし合いがあっても、筆者が強く心を動かされる場合はきわめて少ない。そのため、そういう女性は顔までよく覚えていて、普段何気ない時にふと思い出すことがあるほどだ。そんな時に思うことは、筆者の記憶とは違って、もう何年も経っているので、色香が失せたであろうことで、昨日書いた「聖ジェームズ病院」の歌詞ではないが、霊となって彼女の姿を見ることが出来たとしても、きっと幻滅する。そう思うと、日常生活で予期せぬ時に擦れ違って心に残る女性というのは、ロマンそのもので、そこから想像を広げると小説が書けるのだろう。ボードレールがそのような一度限りしか出会わない女性について詩を書いているが、男のそういう心は女にもあるはず、また結婚している、していないにかかわらず、生じるもので、不謹慎と謗るのは当たっていない。その程度の心の動きがなければ生きていても楽しくない。それはさておき、今月6日に六道珍皇寺に行くと決めた時、近くのスーパーのことやまた視線を交わした彼女のことを思い出し、清水寺のバス停で下りて松原通りを西ね向かう途中、家内に「スーパーが近くにあったはずやけど」と言うと、知らないとの返事で、ひとりで通りの南側を見つめながら、10年で街並みは激変するから、きっとなくなったのだろうと思った。それでも気になるので、つい先ほどヤフーの地図を見ると、寺の門より50メートルほど西であることがわかった。「ハッピー六原」で、確かにその名前であった。6日は寺を出た後、そのまま清水寺のバス停に戻ったので、わかりにくい「ハッピー六原」の出入り口を見ることがなかった。ついでに当日もうひとつ気になりながら、探せなかった店を書く。清水寺のバス停から松原通りの西へと入る角に電気店だったか、昔から同じ店がある。そこに「幽霊子育飴」の赤い幟旗と、貼紙があって、ショウ・ウィンドウにはその飴の実物もひとつ置かれている。六道珍皇寺の門を思わせる赤い紙で、人が大勢歩く東大路通り沿いのその店が代理店のような形で宣伝している。バス停を下りてその店の前に立ち、家内にその飴のことを言うと、知らないとの返事で、昔ハッピー六原で何か買った後、その飴の話になったはずなのに、覚えていないようだ。それに、当時家内とその飴を売るいわゆる本店の前を通り、その前で立ち止まって飴について説明した記憶があるが、店の場所がわからない。ハッピー六原の近くであったはずで、そのスーパーがなくなったとなれば、その店もなくなったのかと思うことにしたが、これも六道珍皇寺をもう少し西へ行ったところにあることを寺を後にして知った。そのことは「その2」に書く。結局その日は清水道のバス停と寺を往復しただけで、松原通りをさらに西へとは歩まなかった。それには理由があるが、そのことも「その2」に回す。
六道珍皇寺の門の前に立つと、間口が狭く、また少し上り坂になっている。普通の寺と違って奥がどのようになっているか見えず、どこかの家をお邪魔するような一種の勇気がいる。ところが、一旦中に入ると、視界が開け、また本堂はずっと奥にあって、開放的な雰囲気だ。壬生寺を思い出したが、「ろくどうさん」と呼ばれるだけあって、庶民に馴染みのという気安さが漂っている。それは門を入ってすぐに拝観料を徴収されないからでもある。拝観料は500円で、家内はまた渋ったが、500円の拝観料は今は常識で、支払った分記憶に留めればよく、筆者としてはこうしてブログのネタになる。家内が渋ったのは、午後3時半に着いたので、30分しか見られないからでもあった。もっと早く家を出ればいいものを、午後から出かけ、しかも連休の好天であれば東大路通りはとても込む。それで予定が狂って30分しかないという時刻に入る羽目になった。結果的にそれで充分で、それほどに見るものは少ないと言えるかもしれない。写真をたくさん撮って来たが、筆者のたくさんというのは10数枚で、全3回の投稿となる分量だ。さて、靴を脱いで本堂に入り、拝観料を支払って最初に見るのは、本堂裏、北西角にある井戸だ。庭に下りるのにサンダルが用意されていて、それを履いて順路の立て札にしたがって歩むが、庭に下りる場所からすでにその井戸は見えている。その井戸の写真は今日の2枚目だが、男性が井戸の奥から出て来た時にシャッターを切った。あえてそうしたのは、井戸の大きさを示すためで、また男性の目は画像加工で消した。男性がどこから出て来たかだが、さらに奥にある井戸で、それが4枚目の写真だが、井戸そのものを写さずに、井戸のある場所を伝えようとした。このふたつ目の井戸は、近年探し当てられたようだ。本堂の裏手の庭は民家と接していて、ふたつ目の井戸は以前は民家の敷地になっていたのだろう。それが寺の所有になり、発掘のようなことをしたところ、井戸が見つかった。4枚目の写真からは文字が小さくて読み取れないが、まだ新しい祠があって、そこに井戸に因む話が書かれている。その前に3枚目の写真を説明しておくと、2枚目の右に写る男性が歩んで来たふたつ目の井戸に通じる小径に立って、一番目の井戸や本堂を眺めたものだ。前述のようにこのふたつの井戸は庭の西端にあって、庭は東西に細長く、井戸の周辺は石仏や石塔が多い。これもついでに書いておくと、最初の写真は帰りがけに撮った。4枚目と同じく家内が写っている。ふたつの井戸は、この寺の伽藍を整備したとされる小野篁が閻魔大王に仕え、冥界を出入りするのに使ったとされる。一番目の井戸が入口で、さらに奥に見つかった井戸は冥界から現世に戻って来る時に使われたとの伝説がある。つまり、この寺は冥途の入口とされ、毎年盂蘭盆の8月7日から10日の精霊迎えでは、数十万の人が訪れるという。このことは本堂での説明で知った。