絢爛と言えば豪華が続くが、金箔をふんだんに使った絵はその形容が最もふさわしい。そして洛中洛外図屏風はどれも金ピカで、金箔で表わされる雲が細かく描かれる建物や人物を取り囲み、京都がいかにも光溢れる豊かな街であるかの印象を与える。

京都が日本の都であった時代はそうであったが、江戸が栄え、また天皇が京から移った後、もはや洛中洛外図を描くにふさわしい都市ではなくなったのかもしれない。それが理由でもないが、洛中洛外図で思うことは、肝心の有名な作が京都にはないことだ。多少はあるが、名品を初め国立歴史民俗博物館は多くを所蔵し、「歴博本」という呼び方をよく目にする。この博物館は千葉にある。東京でも数年に一度も行かない筆者は、まだ同館に行ったことがないし、行く気もないが、なぜ同館に古き京都の景観を描いた豪華絢爛な代表作が収まったのか。国立の施設であるから、所蔵者から買い取ることはたやすく、その競争に京都は破れたのではないか。筆者の知り合いの古美術商は、京都のいくつかの大学から洛中洛外図の名品を探してほしいと頼まれているらしいが、時代が下がるものは珍しくないとしても、戦国時代や江戸初期となると、もうどの旧家にも眠っていないだろう。出て来ても億単位の価格になるはずで、大学が購入することが出来るのかどうかだが、それほどに京都はほしがっている。当然であろう。古い時代の京都を描いた屏風を所蔵すれば、金箔の輝きとは別の、長き伝統を絶やさずに保持しているといったような煌びやかな名誉を誇ることが出来る。その一方で、重文級の名品が関東の国立の施設に収まっていることを快く思っていないのではないか。大阪ほどに京都は東京やその周辺を強く意識していないが、それでも京都で生まれた独特の絵画の名作が京都で収蔵されないのは、国はいったい何を考えているのかと、嫌味のひとつも言いたくなるだろう。今調べると、国立歴史民俗博物館は1983年の開館だ。今日取り上げる展覧会は、同館所蔵の洛中洛外図屏風を19点も借りていて、副題は「NHK京都放送局 新会館オープン記念」だが、NHKの力添えがなければ開催は難しかったのかもしれない。NHKと国立歴史民俗博物館の宣伝に大いに役立った展覧会という見方が出来、京都の住民は頭を下げてありがたく拝見するということになった。会期は3月1日から4月12日で、筆者は家内と一緒に4月8日に見た。屏風という大作中心のため、4階と3階を使っての展示で、かなりの人の混雑ぶりはよほど洛中洛外図をまとめて見る機会がないことを伝えていた。昔買った図録を2,3冊持っていることもあって図録は買わなかったが、1冊を今引っ張り出すと、1983年秋に京都府立総合資料館で開催された時のものだ。全作品がカラー印刷で、屏風の金箔の雲は輝く金色の顔料を使っている。手がけたのは大日本印刷だ。挟まれているチラシを見ると、入場料は大人200円だ。本展は1200円で、30年ほどで6倍だ。1200円はまだ安く、今は1500円する時代だ。それはともかく、総合資料館での『洛中洛外図の世界』展は、国立歴史民俗博物館が出来た年度の開催で、早速同館から「町田家旧蔵本」が借りられ、作品番号1、2として展示された。三条家旧蔵で、室町後期の作だが、本展では「歴博甲本」として第2章の「洛中洛外図屏風の出現」の最初の作品として並んだ。『洛中洛外図の世界』展の作品3,4は重文の「上杉本」で、上杉隆憲氏蔵となっている。狩野永徳の作とされ、「町田家旧蔵本」から30年後の京都を描くが、金箔の輝きが圧倒的で、また祇園祭りの様子を描き込むなど、洛中洛外図の代表作と言ってよい風格と貫禄がある。所蔵者の上杉氏は上杉謙信の末裔だろう。今は山形米沢の博物館に入っているが、信長から謙信に贈られたとされ、信長は京都の威容を見せつけたかったのかもしれない。それは自分の力の誇示でもあるが、そうなると洛中洛外図は京都で必ずしも所蔵されるべきとは限らず、京の宣伝のため、京に憧れを植えつけるために、地方に所蔵される方が目的にかなっていると見ることが出来る。京都に住む人はいつでも描かれている洛中洛外の名所を見ることは出来るから、京都人のためのものとは言えないかもしれない。
上杉本を見るだけでも本展は価値があるが、実物を借りることがかなわなかったのか、歴博が所蔵する原寸大の模写が展示された。ガラスの向こうに展示されず、間近に人が群がっていたので、てっきり高精度印刷の複製かと思ったが、そうではないことを先ほど目録を見て知った。1か月ほど前に見たので記憶が薄らいでいるが、この模本とは別に、同じ部屋にガラスの向こうに上杉本があって、見比べながら鮮やかさが少し違うなと思ったが、別の屏風を見ていたことになる。また、印刷であっても金箔は手で貼る作業を経なければならないから、複製とはいえ、手が込んでいると思ったが、模写であった。これは町田家旧蔵本を持っている歴博が、同本の次に位置し、より芸術性が高い上杉本を模写してまでほしいと考えてのことだが、流行りの高精度印刷によって別の施設がいずれ複製を作るかもしれない。『洛中洛外図の世界』展の作品5,6は「岡山美術館本」で、上杉本をさらに豪華にした感じがある。上杉本が描く時代から50年後の京都で、江戸時代初期の1615年から3年以内とされる。そのように限定出来るのはもちろん描かれている建物による。西本願寺の伽藍が1617年の消失以前の様子を描くといった、細部を凝視することによる研究で、洛中洛外図屏風はぱっと見はたが金ピカと微細な建物や人という印象の点でどれも同じと言ってよいが、細かくじっくりと見つめて行く楽しみがもう一方にあって、地図を見る楽しさによく似ている。地図でも建物や街区を鳥瞰図として描くものがあるが、その先駆が洛中洛外図屏風ということになる。そして、本展の第1章「中世の京都」で展示された作品からわかるように、さらに先駆となる作品がいろいろとある。それは後述するとして、岡山美術館は岡山城内にあって、財界人が建てた美術館で、以前は林原美術館と呼ばれ、今はまたそう呼ばれている。『洛中洛外図の世界』展出品の「岡山美術館本」は、今は重文となって「池田本」と呼ばれているが、本展では出品されなかった。その代わりと言うべきか、池田本に似た作品が紹介され、池田本を描いた工房が求めに応じて量産したことがわかる。これはそれだけ描く内容や様式が定まって初期の面白みを失って行くことを暗示している。『洛中洛外図の世界』展の図録の説明によれば、池田本は上杉本などの初期の洛中洛外図屏風に見られた四季の景物や行事に対する配慮が著しく薄いものになっているとある。話が前後するが、本展のチラシやチケットに印刷されたのは重文の「歴博乙本」で、室町後期の狩野派の作だ。ぱっと見は上杉本に似るが、上杉本が金箔と描かれた部分とが半々の割合とすれば、歴博乙本は金箔地はより多い感じがする。金箔が占める部分が多いほど華麗に見えるだろうが、描く手間を省いたことになって、薄味の印象が増す。第4章「京の平和と人々」で展示された住吉具慶が描く江戸前期から中期の作では、金地対描かれた部分の比率は2対1に近くなって、賑やかな感じが著しく減退している。また、歴博の甲本と乙本は、池田本に比べて軽やかで、自由な気風が横溢しているが、池田本はよく言えば安定だが、厳めしさがある。こうして書いていると切りがないので第1章から順に簡単に書いて行く。
洛中洛外図は有名な寺社仏閣を配置しながら、人を多く描く。それらはさまざまに役立つ史料で、細部をじっくり鑑賞することに意味があると言ってよい。それが図録や画集では全く無理で、たとえば本展に出品された東京国立博物館蔵の重文「舟木本」など、重文指定されるものは、原寸ですべての細部を印刷した画集があってよい。それはデジタル時代では安価かつ便利なディスクで供給出来るはずで、本展では試しなのかどうか、舟木本であったと思うが、その細部をデジタル画面で見る装置があった。それはひとりが占有して楽しむもので、展覧会ではたとえその装置が使えたとしても、まずは実物を見る方が先決で、またそれだけで多くの時間が取られるので、洛中洛外図屏風をたくさん一度に見ても、何を見たのか印象にない人がほとんどであろう。筆者の見方は、嵐山に住んでいることもあって、その付近がどう描かれているかの確認に終始した。それだけでも面白いことがいろいろとわかったが、簡単に言えば、400年の間、嵐山や嵯峨、松尾の見所は全く変わっていないことだ。見事にそうで、土地の雰囲気というものは400年程度では変わらないことを実感した。また、嵐山や嵯峨は決まって屏風の左隻のしかも左端上に描かれ、現在の地図と何ら変わることがない。それほどに嵐山や嵯峨は京都の西の外れ、すなわち洛外の涯てで、これは電車や車が発達した現在、筆者や家内が大阪や河原町の繁華街からわが家に戻る時にいつも感じることで、交通網が完備してもそう簡単に地域が持っている特性は大きく変わらない。江戸時代は人は歩いて嵐山や嵯峨に観光に来たが、それが電車や車に変わっただけで、名所であることは同じだ。そしてそのような名所は京都にはたくさんあり、それらのどれを選んでどのように配置するかで洛中洛外図屏風がいくらでも変化する。また、江戸時代は絵地図が普通で、それは縮尺を無視していたが、そのことは洛中洛外図屏風ではもっと極端に実行され、その役割をうまく果たしたのが、金箔による雲取りだ。それによって隠されている部分は、田畑やどうでもいい民家と思えばいいが、それだけではなく、距離感をごまかすために不可欠な要素だ。洛中洛外図屏風の中には京都の絵師が描いたとは思えないような、いわゆる出鱈目に近い寺社などの名所の配置がある。それは嵐山、嵯峨、松尾辺りの地域に限ってもそうで、描き手は描く場所のみ重要と考え、それらを結ぶ道の長さやまた位置関係はさして重要と考えなかった。だが、それは縮尺が厳密な地図に慣れた現代人の見方であって、そういう地図がない時代の人は、見所さえ描かれていれば、多少の位置関係や距離感はどうでもよかった。これは人間の記憶を重視した描き方を採ったからで、絵画は地図の正確さは不要であり、また地図も本来は正確さを必要とするものではない。話を戻すと、本展の第1章に展示された作品は寺の伽藍配置図や参詣曼荼羅図、また室町後期の東山名所図や祇園社大政所図など、建物や風俗が描かれたものが紹介され、洛中洛外図屏風がそれらを参考にしながら統合したものであることがわかる。これは、天下を統一しようとした武将たちが、京都を一望する大作の屏風を描かせることで、自らの権力を再確認したかったからでもあるだろう。金箔の雲の上すなわち鑑賞者の目は天にあり、そこは神がいる場所で、神としての自分が、蟻のように細かく描かれるあらゆる人物の生を左右することが出来ると思ったと考えられそうだ。
だが、それと同時に天下を取った武将は蟻のように描かれる人物の世界に紛れ込みたい思いがあって、そういう楽しさが溢れている。また、武士や公家を含めてあらゆる階層の人々が描かれているが、天皇の姿はないはずで、そこに天下を取っても神を名乗ることはとても憚られる武士の遠慮があって、そのことが現在も洛中洛外図屏風が誰が見ても楽しいものとさせているだろう。これは第4章「京の平和と人々」の題名が示すように、京都が平和であったからだ。そして江戸時代前期から中期にかけて同屏風は量産されて行く。それに伴って定型化し、一方では新しい表現方法も生まれる。それは第5章「京の真景」で展示されたように、遠近感を重視した写実の考えが強まるからだ。これは正確さを求めることでもあり、縮尺が正しい地図の出現と結びついている。それは京都にやって来る観光客のためにより正確な地図や名所紹介の図譜を提供することと関係して、洛中洛外図屏風は名所の紹介を最優先するものになって行くと同時に、また今までにない美しい絵かどうかも考慮されるが、それも明治までのことで、本展では展示されなかったが、やがて吉田初三郎のような鳥瞰地図絵師がアジアを股にかけて各都市、地域を動き回り、洛中洛外図の伝統を持ちながら地図でもあるという、名所を強調した原色印刷による絵地図を量産して行く。初三郎のそうした地図は今でも安価で入手出来るので収集家になることはさほど難しくないが、その源に洛中洛外図屏風があることを知ると、より豪華で手描きされたそうした作品がほしくなるのは無理がない。毎年新たな発見があるようで、本展でもそうした作品がいくつか展示されたが、重文級の出現は望み薄だろう。となると、筆者が思うことは、現代の洛中洛外図屏風で、また京都ではなく東京を題材にして誰か描かないかと思うが、山口晃がパロディで描いているか。またパロディにしなければならないほどに、日本の都市の変貌は毎年著しく、描き終えた途端にそれは古くなってしまう。それに、建物や風俗を描くとして、ビルと車ばかりを強調せねばならない。車を省くと嘘になるし、また寺社仏閣を中心にすると現代を描く意味がないと思われる。では現在の京都はどうか。相変わらず寺社は昔のままにあるが、表向き身分の差がなくなり、また道行く人は何の仕事をしているかわからないから、人間を描いても面白くない。第一、絢爛な屏風を求める人がいないし、京都にしても東京にしても、その様子を知るのに無数に手立てがある。となると、重文の洛中洛外図屏風は、ごく限られた時代の稀有な作品で、もはや二度と同じ様式の華やかな作品は生まれない。それをわかったうえで京都を歩くのは、それはそれでまた楽しさもある。