慄然とさせられるほどの感動的な作品との出会いは、あまり経験のない若い頃だけのことか。美術館にほとんど行ったことのない人は絵画や彫刻に大きな感動を覚えることはないのではないか。
昔新聞の読者の投稿に、美術作品を美しいと思わないが、美しい景色や夕焼けにはいつも心を動かされるというのがあった。そういう人でも家の形や庭が美しいことはわかるはずで、自然の美が人間が作る美より価値があるという見方は、美を求める人間の本性を理解していないように思える。それに、美術作品はそれなりに見所がわからねば、どこがいいのかわからない場合がよくある。作品の前に立っておののくはそういう経験をある程度積む必要がある。だが、それには年月も時間も要するので、それらを費やしてまでも美の奥を感じ取りたいと思う人は稀だろう。それで、いつの時代も通俗的な作品に人気が集まる。日本では百貨店がついでに買い物をしてもらうために、そういう作家の作品の展覧会をよく開催するから、通俗的な作家はさらに名前が世間でよく知られるようになる。また、そういう作家は美術のための美術であるような作家を否定的に見がちで、内心『悔しければ自分のように金も名声も得てみろ』と自惚れることもあるだろう。だが、名声を決定づけるのは普段ほとんど美術に関心のない人たちから得る人気ではなく、評論家の力によるところが大きいだろう。また、絶大な人気があるので通俗的な作品ばかりを作り出すとは言えない。昨日ピカソの絵画が史上最高額で落札されたニュースがあって、TVに数秒映し出されたその作品を見て筆者はとても美しいと思ったが、ピカソの絵は筆者の子どもの頃は、子どもが描いたようであるのに、なぜ高く評価されるのかわからないという声があったことを思い出した。昨夜の作品はピカソのそういう時代の作品だが、色合いが花畑を連想させ、素早いタッチながらどの箇所も気配りが行き届いた力作で、子どもでは無理な技術力がほとばしっていた。それで史上最高額に納得し、またピカソは古典になったと思った。家内は150億近いその絵が、将来値下がりすることはないのかと言ったが、ピカソの安定した評価からしてそれはあり得ないだろう。子どもが描いたかのようなピカソの絵はまだわかりやすく、同時代に生きながら、もっとわかりにくい作品を遺した画家はいくらでもいる。そして、そういう画家も没後に次第に評価が定まって来るが、それは年月を経るほどに熱気が消えて作品の本質がより露わに伝わるようになるからだ。たとえば、昭和生まれでない若者が昭和のデザインの製品を見ると、懐かしさのようなものを感じる。その時代のことを詳しく知らないのに、形や色に時代の空気を読み取る。同じようにして昭和の絵画への理解も得る。人間が作る物にはそういう面白さと価値がある。美しい景色や夕焼けは確かに美だが、それは人が工夫して造形した美を面白いと感じることとは違う。
今日は3月13日の内覧会にMIHO MUSEUMで見たバーネット・ニューマンの作品について書くが、この2か月の間、いつどのように書くかずっと考えて来た。会期は6月7日で、まだ少しあるので、今のうちに感想を書いておく。ニューマンはその名前からユダヤ人であることがわかるが、名前はアメリカの現代美術にそこそこ関心のある人は必ず目にしたことがあるが、日本でのまとまった作品の紹介はなく、今回はその点でとてもいい機会であった。ただし、副題にあるように「十字架の道行き」と題される14点の同じ大きさの油彩画のみの展示で、画風がどのように変化した画家なのかはわからない。そこは大判の図録の解説が大いに参考になるが、一読したのは1か月ほど前で、大半は忘れてしまった。そこで思い出すままに書くが、まずニューマンはニューヨークのメトロポリタン美術館に通うことで美術を学んだ。このことはとても重要だ。ネットで簡単にニューマンの作品の画像を検索することが出来るが、ニューマンはそのようにして作品を知ろうとはしなかった。「REAL THING」すなわち現物を前に感動を覚えた。これは美術鑑賞の基本であり、またそれ以外に感動を得る方法はない。ニューマンもそう思ったはずで、彼の作品を味わうためには実物を前にしなければならない。そうして何を感じ取るかだ。作品の前に立った時の感情に思いを馳せて製作に励んだことは、彼の作品に一種祈りとして込められているはずで、小さな図版を見てわかったような気がするのは不遜だろう。だが、人は忙しいもので、最初に書いたように、美術館が近くにあっても無関心な人は多く、そういう人は本展を見ても何も感じず、美術のための美術で、世の中になくていいものと考えるかもしれない。それは仕方のないことで、ニューマンはピカソのようには今後も有名にならないに違いない。話を戻して、ニューマンは画家を目指すが、もはやあらゆる絵画は描き尽くされ、やるべき仕事が残っていないと感じる。描き始めた頃の作品は全部破棄されたようで、それは誰かの作に多少似て、影響を受けていることを認めたくなかったからであろう。そして、本展に並ぶ14点の連作のような、縦の細い線が1,2本引かれ、その間の面をフラットに塗るという画風の作品しか残さなかったようで、そのスタイルを誰のものでもない独創とみなした。ニューマンはジャクソン・ポロック、マーク・ロスコ、デ=クーニングといった日本でもよく知られ、また大規模な展覧会が開催された抽象表現主義の画家とは仲間であった。ところが、自分の様式を見出すことがなかなか出来ずに世に出遅れた。鬱屈した時代に何をしていたかと言えば、賭け事をしたり酒を飲んだりとなかなか人間臭かった。収入はないから、苦労もしたが、のた打ち回る間に方向性を見つけた。それで本展の14点が代表作になり、20世紀抽象絵画の金字塔とまで言われているそうだが、ニューマンもポロックやロスコと肩を並べられる名声を得たということだ。
ストライプにフラットに塗られた面と言えば、モンドリアンを思い出す。だが、ニューマンはそれを否定する。モンドリアンは最初は風景を、抽象っぽくはあるが、点描などで描いていた。それが次第に簡略化され、白地に細い縦横の途切れた線の絵画となり、やがて白地に赤、青、黄の3色の長い縦と横の線を引くだけの画面になり、最晩年はニューヨークの陽気と喧噪さを図案化したような華やかな色合いがストライプに現われるが、目に見えるものを抽象化して行ったその行為はニューマンは歩もうとはしない。つまり、いきなり線と面だ。ただし、図録によれば画面に縦に引かれる2,3本の細い線は自分自身あるいは人間の立像とみなす思いがあったようで、モンドリアンの具象から出発した抽象ではないが、人間の姿を念頭に置いていた点で、具象から出発あるいはそれを基礎としていると言ってよい。これも図録に書いてあるが、ニューマンはジャコメッティの限りなく細い人物の彫刻を評価していて、その影響がストライプにつながったかもしれない。また、ストライプを導入した頃は、色面はフラットに絵具を塗らず、筆のタッチがよく見えるものであったらしい。それではより感情が出ると考えたのか、筆跡を全く見せない画面に移行する。ただし、本展の14点には、ストライプを表現するのに、テープを貼り、そのテープの際を筆跡がよくわかるように塗った作品が混じる。テープはストライプを描くのに便利な道具で、ニューマンはストライプを描くと同時にその線の両側で色を違えることが出来ることに目をつけた。後者は画面をストライプで二分することで、40年代半ばにはそのような作品があるが、ニューマンはストライプが画面を二分するのではなく、ふたつの面を統合すると考えた。これはそのように説明を受けない限り、そのようには見えにくいところがあるが、ストライプによって二分された左右の面は、色合いや描き方が違っても、ひとつの画面に収まっているのであるから、対立よりも調和を思いがちだ。そこにニューマンの意図があり、彼は温かい心の持ち主であったように感じる。実際彼の写真を見ると、神経質そうでは全くなく、おおらかで逞しい印象が強い。顔写真からの雰囲気と作品をつなげて考えるのはよくないかもしれないが、作品は人間が生み出すもので、作者の顔や姿は作品の理解を助ける。あるいはこう言えばいい。作品を見て感じることは作者の顔写真を見てより納得出来る。だが、まずは作品の前に立つことであり、図版を見て作品がわかったつもりになることを戒めるのであれば、ニューマンの顔や姿の写真を見てその人間性を理解したと思うことは間違いであろう。そしてニューマンがいない現在、もはや作品の前に立つこと以外、ニューマンの考えを知る手立てはない。
ニューマンは1905年にマンハッタンに生まれた。心臓発作で死ぬには1970年で、65歳であった。本展の14点は1958年から1966年にかけて描かれた。1951年に個展を開くが、作品は認められず、7年間はほとんど描かず、発表もしなかった。それどころか、病の床に就くなど不遇の時代で、58年にようやく本展の14点の第1,2作となる作品を描き、それをきっかけに注目され始める。その頃はまだ連作の思いはなかったが、64年にグッゲンハイム美術館で個展の話が持ち上がり、その2年後に14点と別の1点を加えた個展を開く。グッゲンハイムはユダヤ人で、そのよしみでニューマンに個展を持ちかけたのではないかと思うが、ニューマンは宗教や人種にこだわって作品を作ることを拒否していて、ユダヤ人であることを強みとすることはなかった。それはともかく、病から快復し、そうして描いた作品がやがてシリーズとなって14点に結実するが、それは「十字架の道行き」の14の場面になぞらえられた。いきなり宗教を持ち出した感があるが、病の床にあって死を思ったからか。この14の道行きの場面は、マティスがヴァンスの教会に描いたことがあるが、それとは違って完全な抽象のニューマンの作品は、道行きの14の場面を想像させるものは何もない。この14の場面は、キリストが十字架を背にしてゴルゴダの丘に至るまでで、筆者はそのうちのいくつかを映画『ベン・ハー』で小学生の頃に見て強い感動を覚えた。これは1959年の映画で、大ヒットしたが、ニューマンは当然見たであろう。それがヒントになって「十字架の道行き」というシリーズにすることを思いついたかもしれない。シリーズを決めたのは1960年の4点目で、それは大いにあり得る。また、1958年はロスコが教会の壁画を思わせる大作のシリーズを描き、その彼岸と此岸を結ぶ扉の口のように見える瞑想的な連作はニューマンに闘争心を燃やさせたのではないだろうか。グッゲンハイム美術館での個展は「十字架の道行き―なんぞ我を見捨てたもう」と題され、またそれを補足するものとして「存在せよⅡ」も並べられたが、十字架上で死に、墓に埋葬されたキリストがその後復活して「存在せよ」と言ったとすれば、物語としてはとても感動的で、そういう文学趣味をニューマンが持ち出したのは絵画鑑賞を誘導するものとしてあまり誉められたことには思えないが、病に伏して死への思いを切実に抱えていたためと見るべきだろう。そして、ストライプが人間のなぞらえで、それが画面とひとつにする機能を持っているというのであれば、ニューマンの作品はロスコの絵画とは違って生への希求が強く、その逞しさはいかにも当時のアメリカに似合っている気がする。言い換えればモダニズムそのものの絵画で、今その画面を見ると、昭和レトロのように温かくまた懐かしい感じがする。もはやすることがないと思われた絵画であっても、またこれ以上に削ぎ落とした抽象絵画はないと思っても、制作した時代から逃れることは出来ず、確実に時代の雰囲気を漂わせる。本展はグッゲンハイム美術館での展示以降初めてアジアで展示されるもので、また他都市に巡回しない。それが実現したのは、所蔵するワシントン・ナショナル・ギャラリーが改装されるためで、また同館の設計したのがMIHO MUSEUMの設計者のイオ・ミン・ペイであるからだ。