舐め合うという表現を耳にしてどきりとした。恋人同士の話ではない。新興宗教の類の勧誘に乗って出かけた集まりが、心に傷を持った人たちの傷の舐め合いというのだ。
つまり、そういう集まりを侮蔑しての言葉で、それを言ったのが仏教の僧侶だ。ではその僧侶は何のために頭を丸めて坊主になっているのだろう。他人の悩みを聞くことが大きな仕事だと思うが、自分は心に傷を負っていないというのだろうか。傷のない僧侶であるから、悩みを持った人の苦しみや悲しみを少しでも取り除くことが出来るという見方が出来るが、傷を負ったことのない人に傷を負っている人のことが理解出来るだろうか。精力みなぎる僧侶であるほどに、その言葉に慰められることは確かだと思うが、その僧侶が悩みをもった人の話を聞いてあげる時、そこに傷の舐め合いという光景が皆無かと言えば、筆者はそうは思わない。傷を克服して精力みなぎる僧侶になるのであって、傷を負ったことのない人間は他人の痛みがわからないのではないか。先日展覧会を見るついでに気になっていた寺を2,3か所回ることにした。展覧会は会場前に着くと休館日で、一昨日出かけ直したが、市バスの1日乗車券を使っての市内巡りは、昼過ぎに家を出ると思ったほどあちこち回ることが出来ない。5時閉館の施設がほとんどで、バスに乗っている時間が2時間近くあるから、昼過ぎに出かけては3か所をたっぷり時間をかけて見ることは難しい。それで先に書いた2,3か所回るつもりでいた寺も1か所だけになったが、今日はその寺について書く。千本上立売にある釘抜地蔵だ。この寺は昔から知っていながら、訪れる機会がなかった。4月8日に家内と京都文化博物館で展覧会を見た後、フィルム・シアターで
『西陣』という記録映画を見た。これがとてもよかった。松本俊夫の作品で、『ドグラ・マグラ』は封切りの頃から気になりながらまだ見ていないが、右京中央図書館にDVDがあったような気がするので、また自転車で天気のよい日に出かけるつもりでいる。それはさておき、『西陣』は西陣の織物業界の現状を描いた作品で、その中にほんの少しだが、釘抜地蔵の境内が映る。それを見た時、家内は「どこにあるの?」と訊いたが、千本釈迦堂の近くとだけ答えた。それで近いうちに訪れようと思った。その機会が1か月後にあった。最初は展覧会を見るつもりでいたのに、丸太町通りを走るバスが円町を過ぎてしまい、満員でもあったので下りそびれた。それで千本丸太町で下りて北向きのバスに乗り換えることにした。大極殿跡のすぐ前にバス停があって、そのバス停で下りて中央図書館に昔よく通ったものだが、家内は大極殿跡のある小さな公園の中をほとんど横切ったことがないようで、バス待ちの間に大極殿跡の石碑などが建つ囲いの前まで行った。バス停から30メートルほどで、住宅に囲まれているが、そこだけ昔と同じで、時間が止まっているような雰囲気があって筆者は好きだ。筆者はバス停で待っていたが、家内の後ろ姿を見ていると、7,8メートル先に烏が2,3羽と、見慣れない野鳥がいた。雀より少し大きく、ほとんど聴いたことのない声だ。晴天で、暑くなく、とても気持ちのよい日の時間帯だ。バス停のすぐ背後に、高さ2.5メートルほどの立派な石柱があって、そこに大極殿跡の文字が刻まれているが、初めてその裏側を見た。明治17年であったか、とにかく100年以上前の建立で、おそらく当時のままの場所にあるのだろう。周囲の店はすっかり変わったのに、大極殿跡地のみはそのままで、そのことがありがたいような不思議なような気がした。バスは5分ほどでやって来た。どれに乗ってもいいはずと思って乗り、そして中立売で下りた。そこはいろいろ思い出がある。まず母方の今も健在の叔父がそのバス停から西100メートルほどのところで西陣織の仕事場を持っていた。また東へは20年ほど前か、K先生に連れられて酒を飲み歩いたことがある。その時先生は中立売の猥雑な雰囲気が好きだと話されたが、今も昭和レトロの雰囲気が濃厚に残っている地域だ。だが、ここ20年でそうとう変わってしまったであろう。西陣が潤っていた昔は河原町より千本中立売界隈が賑わった。そのことを叔父は懐かしく話す。
てっきり中立売に釘抜地蔵があるものとばかり思っていたのに、千本通り沿いや一歩その東に入ったところを歩いてもそれらしきものがない。家内がまたぶつぶつ言い始めるであろうから、さっさと先を歩き、千本通りより一本東を南北に走る狭い道を北、そして折り返して南に進みながら、扉が開いて60代の太った男性が顔を出した小さな家のすぐ前まで来た。ちょうどいいと思ってその人に釘抜地蔵の場所を訊くと、首をかしげる。だが、すぐに奥さんらしき女性ともうひとりのもっと年配の女性が顔を覗かせ、千本通り沿いにあるはずで、もっと北だと教えてくれた。そして、今出川通りからでもかなり距離あるとのことで、そこで筆者は初めて中立売と上立売を間違っていたことに気づいた。幸い市バスの1日乗車券があるから、中立売のバス停からまた北向きに乗ればよい。今出川通りから北はぐんと静かな、そしてきれいな街並みになる。商店が少ないからかも知れない。何より中立売にはある巨大なパチンコ屋がない。今出川通りの南北で雰囲気ががらりと変わるのは面白いが、筆者はK先生と同じように、中立売界隈の方が性に合っている。観光客の目で見れば北側がよく、歩いていても京都らしい落ち着きがひしひしと感じられる。上立売のバス停から北に歩いていると、家内は有名な漬物屋を目に留めた。そこで買い物をしたがったが、先を急ぐので信号をわたって東側の歩道に入った。すると、今度はまた有名な昆布屋がある。今度こそは家内はその店内に入り、いくつかの商品を買った。とてもサービスのよい店で、昆布茶を出してくれるし、また売られる商品のほとんどは味見出来る。その店で10分ほど過ごしてまた北へと歩いた。すると中立売で教えてもらったように、間口の狭い寺の出入り口に至った。おばさんはあまりに狭いので見過ごすかもしれないと注意してくれたが、注意しながら歩いたので見逃すことはなかった。予想していたのとはかなり違う境内で、狭いながらとても清潔感に溢れ、また背の高いビルが見えず、この寺だけ1200年前のままではないかという気がした。街中にある寺はたいてい4,5階建て以上のビルに見下ろされる。それがここではない。そのため、空が広く感じられ、開放感がある。ベンチがないのでゆっくりしにくいが、何時間でもいたいようなところだ。「釘抜き」は「苦抜き」に由来するらしいが、苦を釘抜きで抜いてくれる御利益があるということだ。奉納される絵馬はどれも釘抜きとその右側に5寸釘を二本セットにしている。1000枚ほどが本堂の四方を整然と覆っていて、平成のものばかりであったと思う。平成8年がたくさん目についたが、となれば、1000点が入れ替わるのに20年はかかるかもしれない。これは効率があまりよくないだろう。伏見稲荷大社の鳥居はもっと建て替えられる年数は短いはずだ。西陣の一画にある寺で、弘法大師の創建というが、石像寺と呼ばれ、重文の阿弥陀三尊がある。これはガラス越しではなく、すぐ目の前で拝むことが出来る。またそのほかの形がさまざまな石仏が周囲を取り囲んでいて、雑多な印象があるが、それだけ民衆が祈るものとして機能して来たことを示す。撮影可能であったと思うが、その気にならなかった。無闇に撮影するものではないという気持ちからだが、それはふたつの理由がある。ありがたいものであるという思いと、バチが当たるのではないかという一種の怨念のようなものが渦巻いている気がふとしたからだ。家内は、本堂脇の建物の中に住職らしき男性がいて、「悩みの相談受けつけ」といったことを書いた貼紙を目にしたらしく、帰宅してから寺はそうであるべきだと言った。苦から逃れたいために訪れる寺であるから、釘抜きと釘を張りつけた絵馬を奉納するだけでは手抜きであろう。話を聞いてもらえることで心を軽くしたいと思うのは人間の本性で、これは時代が変わっても変わらない。他人の悩みを聞くことはエネルギーを要する。相手の悩みが減じるということは、聞き手がその悩みを受け留めると言ってもよく、またそのように真剣に相手の身にならなければ、相手は心を閉ざすこともあるだろう。そして相手の悩みを受け留めると、今度はそれを受け手が跳ね返さねば病気になってしまうから、僧侶は精神の逞しさが必要だ。これは相手の悩みに鈍感になって聞き流す術を習得することではない。僧侶になるためには、他人を救って自分が救われるという思いが必要であるとして、それは傷の舐め合いというより、傷が癒えて逞しくなった僧侶が相手の傷を癒してやるということが前提になっているし、またそのためには僧侶は心身ともに鍛え続け、物事に動じない精神を保持しなければならない。