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●『突然炎のごとく』
壕戦を経験したのかどうか、第一次世界大戦の記録映像が挟まれていた。本作の本編と同じ白黒だが、記録映像は画面幅が狭いのでそれとすぐにわかる。



●『突然炎のごとく』_d0053294_15511617.jpgそのような映像を挿入するのにトリュフォーはいくら支払ったのかとふと思った。記録映像はそのそれだけはなかった。有名なベルリンの焚書もその後挿入された。それは1933年5月10日のことで、ちょうど82年前のことだ。トリュフォーがその映像を本作に使ったことは後の『華氏451』の伏線だろうとただちに思ったが、それとともに、ヘルツォークのことも思い出した。ヘルツォークの作品は鎖のようにつながっているところがある。それはともかく、たいていの観客はトリュフォーがナチの焚書行為の記録映像を本作に使ったことを、本作の物語が第一次大戦前から第二次大戦前夜までを描いていることを把握させるためだと思ったのではないか。原作は邦題と同じ題名の小説で、1953年に出版された。著者はフランス人のアンリ=ピエール・ロシェという画商で、若い頃の実話をかなり基にした。そんなことは映画を見るだけではわからないし、また知る必要もないだろう。ただし、本作には青の時代のピカソや、スタンランだろうか、彼風の作品『接吻』が部屋に飾られているなど、原作の小説ではそうしたことがどのように描かれているのか知らないが、ロシェ役を演じるフランスの若者ジムの職業や、また物語の発端となった時代を伝えるために絵画を小道具として有効に使う意図が見える。それと、焚書の映像の転用を併せて、トリュフォーの文学好きや芸術愛好ぶりを思うことは許されると思うが、そうした本編のいわばおまけのような部分に監督の才能の貫禄が刻印される。同じ小説を別の監督が映画化するとして、原作に焚書のことが書かれていても、その実際の記録映像を使うだろうか。トリュフォーがわざわざ焚書の様子を挟んだことは、つい30年前の出来事がまだ過去として忘れることの出来ないものであったからだろう。もう少しその焚書について書くと、筆者がよく覚えているのは、30年ほど前、ケストナーの本をあれこれ読んでいて、彼がベルリンに残って焚書を目撃したことだ。ケストナーはヒトラーを快く思っておらず、そのことが苦々しかったナチはケストナーの本も焚書の対象にしたが、本を燃やしたのはナチに賛同する大学生らであった。同じことは今後も起こり続けるだろうが、今はネット時代で、為政者が自分たちのつごうの悪い本をこの世から完全に消し去ることは不可能かもしれない。そうであっても言論を封じ込めることは簡単で、いつそのような世の中に逆戻りするかわからないことを自覚しておいた方がいい。話を本作に戻すと、筆者は記録映像の挿入に感じ入り、そういう時代の若者の恋愛物語として本作を見るべきかと思った。それに、ジムはさほど金持ちでもないが、友人となるドイツ人のジュールは貴族であったか、広大な領地を持って、毎月の収入を考えなくてもいいような暮らしをしている。そのため、本作は金の話は全く出て来ない。その点、きわめて優雅で、日本の平安貴族と一緒で、恋愛のことだけを考えて生きればよい。そこが本作を娯楽として楽しむ日本の大多数の庶民にとってはきわめて非現実的で、筆者は「ああ、そうですか」というくらいにしか見ることは出来なかった。このように書けば身を蓋もないので、もう少し書くが、何しろ本作は展開がとても早く、また筆者はビデオで一回だけ見たので、細部をよく覚えていない。そのため、間違ったことをたくさん書くかもしれないが、最近トリュフォーの『大人は判ってくれない』について書いたので、彼の第3作目で1961年公開の本作についても多少の感想を書いておく。ビデオは『大人は判ってくれない』やそのほかのフランス映画と一緒にまとめて買ったもので、先日の連休中にTVが面白くないので急に見る気になった。また、『大人は判ってくれない』と同じように、最後の場面に至る時、昔見た記憶が蘇った。
 本作の原題は『ジュールとジム』で、ジュールがドイツ人、ジムがフランス人というのが、なかなか覚えにくい。「ジュール」はいかにもフランス語の響きで、「ジム」はイギリスかアメリカ人の名前ではないか。「ジュール」は原作の小説では「ジュール=フランツ・ヘッセル」で、「フランツ・ヘッセル」となると全くのドイツ系だ。となれば、「フランツとジム」とでも題してほしかったが、ま、仕方がない。このふたりはパリで知り合うが、映画ではテンポが速く、どういう経緯で仲よくなったのか忘れた。ひとつ思い出すのは、どちらかが女を欲していて、片方が何人かの女をあてがうが、あてがわれた方は気に入らない。そうしてある日、古代の彫像のスライド・フィルムを見る機会があり、その1枚にとても美しい女性像を認めた。そしてふたりはその実物を見に行く。その彫像は映画のために用意された小道具なのか、それとも実際にあったものか。たぶん後者であろう。そのほかの彫像とほとんど似ていないからだ。ギリシアのアルカイック時代の彫像の微笑みに似ているが、ギリシア時代のものではないし、またローマでもないだろう。原作の小説ではギリシア時代のコレ像を見たのではないか。それはともかく、その彫像を見た後、その顔とそっくりな女性カトリーヌにふたりは出会う。ふたりともすっかり参ってしまうが、そのことが本作の発端だ。カトリーヌはフランス人で、ジャンヌ・モローが演じる。彼女は本作当時何歳であったのだろう。第一次大戦前夜から1933年までを描くので、20年の変化を演じなければならない。そのため、さすがに第一次大戦前は顔が老けて見え、そのことにかなり違和感を覚えた。同じ人物が1年を要さない期間に演じるからには仕方がないが、若いふたりの男性が理想の美女に出会って心が動いたという設定は映像からは説得力がない。小説ならば読者はそこを想像するしかなく、かえって女の魅力を何倍にも膨らませる。となると、映画は残酷なものだが、そこは女優の演技のしどころで、小説と同じかそれ以上に説得させなければならない。そして、本作はモローが演じて正しかったのかどうかだが、モローのファンはそう思うだろう。筆者はさほどでもないので、モロー以外でもよかったと思うが、美女というより個性的な女性という点でモローの起用は現実感を付与したと考える。原作ではモロー役はドイツ人女性で、またモローのように、つまり女優ほどに美しくはない。現実のジュールとジムもそうではないか。熱烈な恋愛は美男と美女の間にだけ起こり得るものではない。むしろ大多数は平凡な顔や体つきの男女のものだ。それが作品化されると、その受け手は美化する。では本作のジュール、ジム、カトリーヌは美男、美女かと言えば、そうではないだろう。それで本作が現実的に思える。必要以上の美化は必要ないということだ。
 トリュフォーはなぜ原作の題名を使わずに「ジュールとジム」にしたのだろう。そのことがまず気になった。「突然炎のごとく」はカトリーヌの性格を意味しているだろう。自由奔放、気儘、男に束縛されない。このように形容するとだいたい当たっているが、そういう女にジュールもジムも惚れてしまった。いろんな女を経験したのに、どれもしっくり来ないジュールは、古代の女性像を見てそこに女の理想を感じ取る。そしてそれとそっくりな本物の女が出現すればのぼせ上がるのは無理もない。だが、カトリーヌは男を弄ぶことに快楽を感じる女かと言えばそうではない。男がやきもきしているのを喜ぶという性悪ではなく、常に何か満たされない思いを抱いているのだろう。筆者はそういう女性を知らないのでとんちんかんなことを書いているかもしれないが、本作を見ながら思ったことは、記録映像の挿入で、時代が人の愛の行動に与える影響だ。本作はそう考えればいい、あるいは考えなければいけないのではないかと思った。つまり、原作を現在に置き換えて描くと、おそらく説得力がない。そのあたりのことをトリュフォーはどう考えていたのか知らないが、原作と同じ時代設定で描く必要を感じたはずで、そのために記録映像を挿入した。ジュールとジムとカトリーヌの関係がいつの時代でも通用することならば、いっそ1960年代の物語として撮影してもよかったが、それでは現実味が帯びた作品にはならないと考えたであろう。ということは、本作の本当の主役は戦争で、それがカトリーヌの破滅的な性格を形成したとみなせばいいのではないか。だが、戦争反対とか、戦争の陰の犠牲者という読み解きは飛躍し過ぎているし、トリュフォーはそこまで思っていなかった。
 最初に塹壕戦と書いたが、第一次大戦では兵士は悲惨な経験をした。ジュールとジムは親しかったのに、戦争のために戦う間柄となった。それだけでも大きな物語で、別の小説がいくらでも書けるだろう。だが、本作はそこを記録映像で表現して全部飛ばす。大戦前にジュールはカトリーヌと結婚し、戦後ジムはジュール一家の山荘を訪れる。一家は6歳であったか、娘がひとりいるとの設定で、また倦怠期の真っ盛りで、カトリーヌは村外れのアコーディン弾きの男性のもとに平気で通うようになっている。公然と浮気する妻を見ながら、ジュールは離婚する気が全くない。そして、ジムと妻が関係を持つことを厭わないと言い、ジムとカトリーヌは燃え上がってしまう。この点が本作の題名からして一番の見所というか、問題となる箇所だ。妻が愛人を持ってもかまわないと考えるところ、ジュールはマゾヒストと言えるが、現実にはそういうことはよくあるだろう。それに昔からの友人の方が行きずりの男よりも安心出来るかもしれない。先に平安貴族の恋愛と書いたが、金を得るために働くという生活感が全くなく、気持ちを満たすために好きなことだけをするというカトリーヌやジュールは貴族そのものだろう。だが、そのことを責めるつもりは毛頭ない。貴族でなくても男女のことは同じで、妻が満たされない思いをしているのを見ると、夫としてはどうにかしてやりたいと考えて無理はない。では妻の方はそんな夫の優しさをいいことに、あちこちの男と寝てもいいのかとなると、それは夫婦の問題であり、他人がどうのこうのと言っても始まらない。夫婦がよければそれでいい。だが、カトリーヌがジュールの優しさというか、軟弱さと言えばいいか、自由に振る舞うことを許されてそれで身も心も満足したかと言えば、そうではないように本作は結末を迎える。そこは原作ではどうかと言えば、カトリーヌ役のドイツ人女性は本作のように死ぬことはなかった。ただし、ジュール役の画商ロシェとは1933年に別れた。それで夫ジュールのもとに戻るが、夫は第二次大戦中に病死する。本作ではカトリーヌは車の運転が大好きで、また曲芸運転に近いことをやるが、その運転の様子を建物の2,3階から撮影するところに、その後が多少暗示される。
 カトリーヌはジュールの見ている前で、ジムを同乗させ、そのまま壊れて向こう岸まで届いていない橋を進み、車は橋から落ちて水中に沈む。ふたりは死に、ジュールは安堵したような気分になって娘と一緒に暮らして行くというところで幕となる。カトリーヌは第一次大戦前にジュールとジムと出会った時、3人で夜のパリを歩きながら、突如セーヌにひとりで跳び込む場面がある。内面に突然炎が燃え上がったのか、その意味不明な行為と、最後の車で川に突入する行為は重なる。セーヌに飛び込んだ時と同じように、カトリーヌは川に落ちた車の中で死ぬとは思わなかったかもしれないが、そのような無茶をする性格は結婚前もその後も変わりはなく、いずれ不意に死んでも仕方がないとは思っていたであろう。彼女は絶えず何を求めていたのか。性に奔放とはいえ、それは愛を前提にしたものだ。ただの色情狂では自殺行為をするはずがない。彼女は完全には満たされない思いを抱き続けたと考えるしかない。正直なのだ。惰性で結婚生活を続けるということが出来なかった。子どもがいるのに無責任だと言う人がほとんどだろうが、そういう理屈で割り切れないことは世の中にはいくらでもある。そういうことを描くのが小説や映画の役割だ。カトリーヌはジュールもジムも、そして村外れに住む演奏家も理想の男ではなかったのだろう。だが、理想を手にしてもそれはすぐに色褪せる。そのことを彼女は知ったのだろう。そして、そのように思い詰めるところに彼女の不幸があった。あるいはジムと心中することで、ジムを永遠に手にすると考えたか。本作はどのように解釈することも許されるが、ひとつはっきりしていることは、愛が絡んで死ぬことがあるということだ。あたりまえのことだが、それは誰もが実行出来ることではない。そして、実行する者は激しく純粋と讃えられるかもしれないが、トリュフォーはどう思っていたのだろう。カトリーヌを古代の笑みを浮かべた彫像になぞらえるところ、永遠なる美は謎めいていて、しかも美しいままであることが条件で、老いた姿を曝してはならないとは思っていたのではないか。大多数の平凡なる存在は長寿をまっとうし、それで世の中は辻褄が合っている。美人薄命とはよく言ったもので、西洋でも通用するようだ。
by uuuzen | 2015-05-10 23:59 | ●その他の映画など
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