今日観て来た。手元に1981年4月29日に観た『須田国太郎展』の図録がある。24年前に買ったもでも、ほとんど開いたことがないので新品同様だ。オール・カラーで分厚い。

表紙に横長のバラを描いた油彩画を図録の裏面続きにレイアウトし、端に少しあまった地部分はバラの色と同じエビ茶色にしてある。そのエビ茶色がすっきりとした単色であるため、絵の中のバラと同じ色であることにはすぐに気がつかず、かなり浮いた印象を与える。そのためにこの図録がかえって強烈に記憶されると言ってよい。絵を図録の天地いっぱいの高さにすれば、装丁デザイナーが勝手に選ぶこうした地色は不要だが、そうすると「須田国太郎」という文字を絵のどこかに印刷する必要がある。それでは須田に申し訳ないと考えたのだろう。だが、絵は上部5分の1程度が真横に真っ直ぐ黒段を描いていて、その黒段がエビ茶色の枠と同じような幅となっているため、2段がまえの横段が図録上部にある。この効果をあえて考えて、デザイナーがわざわざエビ茶地の段を設けようとしたとも思える。須田の絵の黒段に展覧会名称を白抜きで入れることは出来るし、そうすればバラを何ら邪魔することはないが、それでも絵の中に勝手に文字をレイアウトすることには変わりはない。デザイナーがそう考えたかどうかは知らないが、そのように須田の絵を侵す勝手をするには、何かとてもはばかるような雰囲気が須田の存在にはある。それほど須田がほとんど冗談を言わず、真面目一方の、しかも関西の油彩画では大御所であるからだ。
26年前に同じ京都国立近代美術館で観た『須田国太郎展』はあまり感動はしなかった。と言うよりあまりよさがわからなかった。マチエールや光と影の対照的効果にこだわり続けた、そしてとにかく暗くて渋い画面であるので、重厚な感じはよくわかるのだが、決して面白い絵とは思わなかった。そして、素人が油彩を始めて間もなく須田を知ったとしたら、きっと大きな影響を受けて同じタッチの絵を量産するだろうなとも思ったものだ。その意味で典型的な油絵だが、派手な流行とは無縁で、実直で堅実過ぎる点が何か面白味のあるドラマに欠ける気がしてならなかった。須田は他の明治生まれの画家と同じように、20代でヨーロッパに行って絵を学ぶという経歴の持ち主で、ティツィアーノ、ティントレット、エル・グレコの絵の模写が24年前にも展示されていたことは今でもよく記憶している。それらは今回はまず最初のコーナーにまとめて出ていたが、須田の絵を考えるうえでこれらの模写絵の存在は決して小さくはないと改めて感じた。ヨーロッパ絵画から出発して、その後どのように日本の風土を納得行くように描き続けることになったかという、いわば画家としての格闘の歴史を一同に展覧出来るのが、こうした大規模な須田の回顧展だが、四半世紀ぶりに観た感想を率直に言えば、ようやく須田の味わいがわかる年齢に自分も達したかということだ。逆光の中にぼーっと浮かび上がる事物はスペインで生活して学んだ記憶の反映という面がよほど大きいのだろうと想像させるが、それでも日本でもどこでも光と影は存在するし、それを強調した絵を描くことは何もスペインの絵の圧倒的な影響だけを見るのはよくないだろう。確かに若い頃に観たそうした圧倒的な影響が生涯続いたとしても、須田はずっと日本で描き続けたから、日本の空気や光をこそ表現した。しかし、そう簡単にヨーロッパの呪縛から逃れられるだろうか。
手元の図録にはチラシが挟んである。その中に1992年に開催された生誕100年の記念展のものがある。大津市歴史博物館での開催で、約100点が展示された。また、同じく生誕100年記念だが、おそらく1991年開催だろう、京都市美術館でのものもある。これも約100点の出品で、チラシを見る限り、大津とほぼ同じ作品が展示されたのではないだろうか。また3年前には伊丹市立美術館で「須田国太郎 能・狂言デッサン展」が開催された。ほかにもチラシがあって、須田の絵は割合と観る機会があると言ってよいのかもしれない。1981年の大規模展は没後20年を経てのもので、遺作展以降の空前の規模であった。油彩130点、水彩、パステル、素描などが20点、日本画20点という内容で、図録を見ると、今回の展覧会には並んでいなかったものがよく目につく。今回は図録を買わなかったので正確な出品数はわからないが、チラシによると能や狂言を描いた素描も加えて150点だ。24年前よりは少ない。それでも代表作はみな網羅されているはずで、須田の画業を再確認するにはまたとない機会であると言ってよい。さらにチラシのことを言おう。1981年展のチラシでは「真名鶴」を近景に5羽置いて描いた1953年の油彩画が大きくレイアウトされている。今回の構成もほとんど大差ないが、絵は1952年の「鵜」が用いられている。これはなかなか巧みな戦略を感じさせる。「真名鶴」と「鵜」は描いた時期が隣接していて、どちらも風景の中の鳥を描いているので似た絵だが、「鵜」の方がずっと明るく華麗で、これは全般に暗く黒い絵が多い須田のイメージを植えつけないでおくには最適で、観客動員にはより効果がある。「鵜」は逆光で見た鵜を同じく5羽描いている。3羽が近景、2羽がその向こうにかすんで見え、奥行きがあるように置かれている。鵜はもともと黒いので、逆光に置かれた影としての黒さと、鵜本来の黒とが一体となって、黒がなおさら強調されたような、そしてどこか戸惑わせる夢幻的な印象を与える。鵜はほとんど輪郭だけで鵜とわかるように描かれていて、近景の3羽にしても、羽や顔はほとんど細部は無視されている。そして遠景の切り妻屋根の日本家屋の家並みがところどころ須田好みの錆びたオレンジ色が塗られ、それがまた一部の水面の緑ととてもよく調和し、全体に荒いタッチでありながら、絵のどの細部の箇所もいとおしいような味わいがある。この味わいは、御馳走をふんだんに目の前にして、一体どこから食べようかと迷っているわくわく感と言えばよい。それこそ油絵具の巧みなマチエールのなせるわざで、油彩画を見る醍醐味がそこにあると言えるのだが、須田のような絵は実物に接してよくよく絵具の肌触り感を目で体験しなければ、本当の面白さはわからない。平板の印刷図版にしてしまうと、荒々しいタッチがただの荒々しさにしか見えず、ぞんざいや粗悪といったイメージが真先に連想されかねない。この微妙な味わいであるべきマチエール感について誤った先入観を一旦抱くと,もうそこで須田の絵は何ら心には入って来ない。そのためにもこうした回顧展が時を置いて定期的に開催されるに限る。何でもネットで事足りると思っているととんでもない間違いを起こす。ネットで須田の絵を見てもそれは本物とは何の関係もない、むしろ誤解を与えるだけのものとなる。
会場は5つのコーナーに分けられていた。最初は1932年に東京銀座の資生堂画廊で開催された第1回個展の再現だ。この年、須田は41歳、前年には長男が誕生しており、和歌山高等商業学校やや京都定刻大学文学部で美術の講義をしながら創作していた。ヨーロッパに向かったのは28歳の時で、32歳までちょうど4年間を外国の各地を回って過ごした。それから第1回個展までの約10年は生活も画業も基礎作りの時期であった。だが、この最初の個展での出品作には後年の須田の特徴がみな出ている。ほとんどタッチはその後変わらなかったと言ってよい。当然のごとく、より自在に、より華麗にと変貌して行くが、ヨーロッパで学んだことの影響はあまりに大きかった。西洋のまねではなくて、日本独自のリアリズムを追求したというのが須田の絵に対しての定まった評価だが、前述した「鵜」における錆びたオレンジと緑のアクセントとしての対比は、初期の絵にすでにあるものと言ってよく、それはそのまま西洋の絵から学んだ色調のような気がする。確かにオレンジと緑の対比など、どの国にもあるものに過ぎないが、それを絵の見所のように特徴づけて描こうとする態度の根本に、ヨーロッパで見聞したことの反映が感じられてならない。それをあえて捨てようと須田が生涯を費やして格闘し続けたとしても、残滓として現われ出て来ないわけには行かないほどに、日本を離れて生活した4年間の記憶は大きいのではないだろうか。あるいは、元々自分の内部にあったものを見出すためにわざわざ4年の外国生活が須田には必要であったのかもしれないとみなすことも出来るだろう。しかし、やはりそうではない気がする。油彩は最初から西洋のものであり、それを日本化するためには西洋の地に実際に立って学び、また日本に戻って違う風土の中で多くを悩み続ける必要があるし、その一連の過程で圧倒的な西洋のものに対する憧れとその影響をすっかり消し去ってしまうことは不可能であるし、またその必要もない。つまり、「鵜」におけるオレンジと緑の対比がいかに西洋のさまざまな絵を連想させても、それで須田の絵が無意味ということにはならないし、それこそ逆に須田が大いに格闘して、どれほど西洋のものを自分の血肉にしたかという証となる。それはまた、西洋的なるものが戦前の日本においてさえ、どれほど多く入り込んでいたかを示すであろうし、そうした西洋文明の恩恵を無視し、除外して生活することがもはや出来ないことを改めて示してもいる。西洋的なるものを否定することになれば、油絵を描くことそのものが無意味となる。日本が和洋折衷文化であるならば、須田の絵もまたそうでしかあり得ない。そして、須田の絵からは、日本という国がどれほど西洋化しつつ、また日本独自のものを残すことが可能かということを吟味することも出来る気がする。だが、そうした大きな枠組みの問題はさておいて、絵そのものを味わい楽しむという、それこそ絵の本来の意味からして、須田の絵は特筆するに値するほど、上等で豪華な鑑賞感をもたらしてくれるわけで、それだけでも充分ではないかと思う。
第1回個展の再現として前述した模写作品も含めて18点が並んだが、81年の図録には須田がヨーロッパで撮った写真が何点か参考に出ていて、それと須田の絵を比較すると面白い。写真と油彩画とは10年近い開きがあるが、写真を見て描いたのが確実であるにもかかわらず、油彩画にはかなりのリアル感がある。須田のタッチは緻密な細部再現性を重視するものではなくて、かなりザクザクと塊で対象を捉えるという風なので、白黒写真1枚からでもまるでその現場に立って描いたかのように絵を構成することが出来やすいと言える。それに写真そのままではなく、多少は描く対象の位置関係を変えるなりしているから、リアルさと言っても、それは写真どおりのリアルというのではなく、あくまでも描かれる物体に現実感があるという意味だ。だが、須田のリアリズムは本当にそうしたモノに存在感が確実に感じられるようなリアルさだけだろうか。先にも少し書いたが、須田の絵には幻想性がある。それを言えば絵というものはみなそれなりに幻想性があることになるが、須田の場合はさらにそう感じさせるものが絵から濃厚に漂っている。モノに徹して行きながら、ついにモノをも越えた幻を画面に定着したと言ってよい。その幻は情緒性に深く関係しているもので、須田の場合は精神性と言い換えてもいいかもしれない。そこでふと思い当たるのが須田が絵以上に熱心に学んだ謡曲だ。須田は能に深く関心があり、能や狂言の演者を鉛筆で素早くデッサンしたものを5000点ほど描いた。ほんの1分とかからぬ間に描かれたようなものばかりだが、動きあるものを的確に要所を把握して描く訓練にもなったであろうし、一方では能の世界にある象徴性やそれこそ幻想的なものに関心を持つことになったであろう。西洋によく学んだ者が反動的に日本古来のものに憧れを抱くことは珍しくはないが、須田の場合はどういう経緯からかは知らないが、能や狂言に深く関心を持ち、時にはそれで油彩画をものにした。そして、日本の家屋や風景などを描く時、ヨーロッパに負けないほどに日本にも古い伝統というものがあることを改めて考えたであろうことは充分想像出来る。日本にしかないものを描いたから日本を描いたということにはならないのは当然で、須田はもっと根本から日本を見つめ直すことのひとつの手段として能を選んだのであろうか。だが、それは文学的な世界であり、須田が描く西洋的なモノそのものに徹するリアリズムとは多少相入れない気がするが、能という文学性豊かな幻想的視覚性の世界における人間性のリアリズムというものを目指したのではないだろうか。そのため、須田の絵は西洋的なリアリズムの伝統とは違った文脈で語られるべきものを持っている。能における象徴性は須田の絵においてどのように現われたかを考えると、それはたとえばよく描いた猛禽類を思う。そうした鳥はみな黒く、そして孤独な雰囲気に満ち、果敢にたたずんでいるように描かれているが、それは須田自身の姿であったかもしれない。江戸期の四条派の描くような、小鳥と花を少々描いてどの床の間にもすっと違和感なく収まるような洒落た絵と、寸法はさほど変わらないのに、何か異様な迫力といったものがそうした須田の花鳥画にはある。美しくこじんまりとまとまった絵をものにしようという気が須田にはなかったからかもしれない。一見すると須田と同じような荒くて激しいタッチの絵は日本画にはよくあって、確かに豪華な印象はしても、どこか金持ちの居間に置かれることを意識したいやらしさがあったりする。ところが須田の絵はそうではない。それがチラシにも書いてある「高潔な人格と広く深い学識、そして東西絵画の融合をも視野に収めた壮大な…」という表現の言わんとするところなのだろう。
第1回個展はほとんど無視同然の扱いであったが、里見勝蔵や川口軌外と出会い、その紹介によって独立美術協会に入会して画家としてデビューすることになった。書きたいことは多いが、長くなっているので、大急ぎで先に進む。美術館の第2のコーナーは1933年から1944年までの戦前期に焦点を当てていた。1941年の「大和岩船寺近郊」、同年の「夜桜」、40年から61年にかけて描かれた「葛城山」、43年の「石組(保国寺後二羽)」などが特に目を引いた。「石組」はその習作として44年に2点が描かれるが、43年の作品と比較すると、まるで具体から抽象の道を突き進む様子がうかがえる。モンドリアン張りのちょっとしたドラマがそこにはある。四角い大きな石がごつごつとある光景に関心を抱くのは、ブラックのキュビズムの出発を連想させるが、須田の場合はそれもどこかにあったとはしても、絵具によるマチエール作りをどうするかで異なった絵がいくらでも生まれることの興味を追求している様子がより大きい。第3のコーナーは1945年から1961年の戦後を扱っていて、ここでは55年の「杉」や58年の「偶感」が面白かった。前者はまるでムンクの絵を思わせるモチーフの捉え方だが、それ以上に松と月という日本的情緒の典型のような光景をよく油絵具で表現し切っているところがいい。円山四条派の伝統が全く形を変えてここに登場しているとみなすことも出来るだろう。「偶感」はよく見れば中央に横向きの鷲か鷹と、それに追われる豹が小さく描かれているが、それを無視すれば完全な抽象画だ。色は明るくなって来ていて、すでに最晩年を意識している。4番目のコーナーは「珠玉の小品」。これは個人的に収集されているものが中心になっていた。大画面の会場用作品とは違って、須田は求められるとそれなりに小さな絵も描いていたようで、それらは花や鳥などを描いた場合が多いが、どれも須田特有のタッチとモチーフであるため人気が高いという。これも写真で知ったが、最晩年は病院のベッドに横たわりながら、仰向けになって油絵の小品を描いていた。絵の鬼とはそこまでしてでも描き続けるということだ。1961年に70歳で亡くなった。少し早い死と思うが、こうした回顧展で初期から晩期まで一堂に見ると、充分到達するとこまで進んだように見える。最後の5つ目のコーナーは「能・狂言」であった。5000点にものぼる素描は順次ネットでも観覧出来るように現在作業が進んでいるということを新聞で読んだ。須田の人気はまだまだ今後高まるような気がする。