琢磨の技術を競う面白い番組をNHKで2週続けて見た。日本とドイツが500グラムの球を作り、どちらの歪みが少ないかを30メートルの長さの平らな石の上を転がして測定する。
素材は、日本は特別に造った不純物のない石英の塊で、ドイツは鉄だ。ベアリングを製造する有名な会社で、機械で量産する。日本はレンズ会社で、手作業だ。素材も技術も違うが、真球作りを目指すことには変わりがない。最初の番組で対決があったのに、測定機器のお粗末さによって、せっかく作った日本の球は石板上を転がり始める前に手前に落下したので、二回目の番組が企画された。床は硬く、落下で球の表面に傷がついた。それでは勝負は出来ない。日独とも2個ずつ作ったが、日本は若手社員の兄弟で、中学を卒業して研磨の仕事に携わって来たので、10数年の経験がある。立方体の素材を手で少しずつ研磨して真球に近づけるが、それで思い出したのは、10年ほど前か、どこかの小学生が校庭の土を丸めて野球のボールほどの大きさの球を作ることに夢中であったことだ。その球体の表面を毎日磨いてピカピカにするのだが、土であるので脆い。その子どもは勉強が得意ではなかったと思うが、球体作りには熱を入れる。単純な作業であるから、誰でも出来るが、その気になるかどうかは別問題だ。中卒で始めなければ優れた技術が身につかないレンズの研磨技術であるはずで、必要なことは指先の鋭敏な感覚だ。熟練するほどに精度の高いものが作られる。そのような単純作業は機械に任せればよいという考えが西洋に興り、ドイツの有名なベアリング会社では量産で精度の高いものを作る技術を開発し続けて来た。機械対手仕事の戦いとなると、筆者はその番組の結末を知らない間から、後者に軍配が上がるはずと思い、実際そのとおりの結果となった。手先以上に精密な仕事が出来る機械はないと信じる。ただし量産は不可能で、番組に出たレンズ職人の会社はハッブル望遠鏡のレンズを磨くなどの特別の仕事をしている。これは人件費の問題に置き換えることが出来るかもしれない。同番組では落下した球の傷を調べ、再研磨することになったが、ふたりの社員が1か月ほど同番組のために従事したはずで、NHKからいくらかは支払われたにしろ、会社としては宣伝と威信を考えての参加で、直接の儲けにはならない。また、日本の中小企業の底力をその会社に見るが、人材は今後も育てて行かねばならず、その点でも量産可能な機械に比べて効率が悪過ぎる。それはさておき、球の歪みを測定するのにレーザーの機器を使っていた。それがなかった時代はどのように精度を計測したのだろう。その計測機器も手技の賜物と言えるかもしれないが、レーザーがないでは精度の確認が出来ない。となると、機械の発展とともに物作りの精度も上昇して来たことになるが、アンデス文明では素朴な道具のみで暦その他を現代とさほど変わらぬ精度で知り得た。それはさておき、太秦に新たな施設が出来たことを最近チラシで知った。それで天気がよかった18日に家内とともに自転車で行った。時間があれば右京中央図書館で久しぶりにDVDを借りるつもりが、土曜日であったので午後5時で閉館していた。出かける前にチラシに印刷される地図を確認すると、天神川沿いにある。方向音痴の筆者でも迷うはずがない。図書館が入る右京区役所の駐輪所に自転車を停め、そこから歩いたが、100メートルもない。そのような場所に入場無料の文化施設が出来たことは知らなかった。たまたまチラシを見かけたのでよかったが、そうでなければ何年も知らないままであったろう。去年10月9日のオープンで、半年知らなかったことになる。地元であるのに、また美術に関することなのに、筆者の情報把握は程度が低い。

DNPというのは大日本印刷の英語の頭文字だ。天神川沿いに大きな工場がいくつかあるが、大日本印刷があることは知っている。太秦に自転車で行くことはほとんどなく、バスを使うにしても天神川沿いを走る系統は、昔はなかった。今は松尾橋からの一系統あるが、本数は少ないのではないだろうか。それに、大日本印刷の工場は敷地が大きいせいもあって、道が閉ざされているなど、周辺はややこしかった。今もそうかと思うが、右京区役所のビルが出来る時に新たに区画整理されたのではないだろうか。その右京区役所が出来たこともあって、大日本印刷はDNP京都太秦文化遺産ギャラリーを開くことにしたのだろう。人の流れが変わり、来場者が見込めると考えたに違いない。このギャラリーのすぐ南は洒落たイタリアンのレストランで、今後賑わいが加速化するかもしれない。天神川沿いをもう少し北上すると、ピカポロンツァという日本で一軒しかないスロヴェニア料理店がある。梅津に住む従姉の姻戚の店で、2年ほど前に階下も店舗にしたとのことで、天神川右岸は観光客がそぞろ歩きするちょっとした名所に発展して行くかもしれない。ついでに書いておくと、天神川四条には30年前には樹齢100年以上は確実の太くて大きい柳の木が何本もあった。それが少しずつ姿を消し、18日はギャラリーを見学した後、天神川四条に至って梅津に向かおうとした時、1本だけ残っていた柳がついに姿を消したことを知った。風情があってよかったのに、もったいない話だ。さて、このギャラリーは「文化の保存と継承。」と但し書きされている。大日本印刷は本社は東京だと思うが、最初は京都に本拠地があったかもしれない。いい加減なことを書いているが、便利堂のほか、京都には印刷の長い伝統があり、それで大日本印刷も京都から発祥したかと想像する。便利堂は手仕事、大日本印刷は機械と言ってよいほど、印刷といえども住み分けているが、当然後者が大会社となって儲けが大きい。薄利多売する方が儲かるものだ。だが、時代が進んで新たな印刷方法が生まれ、大日本印刷は便利堂が手がけるような美術品の複製において実力を発揮するようになった。そういうことを紹介するのがこのギャラリーのひとつの目的で、便利堂はコロタイプで今後どう生き残って行くのかどうかと思う。チラシ裏面にはこのギャラリーの3つの見物について説明があり、その2番目に「高精細複製「伝匠美」」とある。高精細は便利堂のコロタイプもだが、それとは全く違う方法で、もっと精密に印刷出来る方法がデジタル時代になって生まれた。コロタイプはアナログの方法で、それにはそれなりの味わいがあるが、原色印刷となるとデジタル技術には負ける。

本ギャラリーで展示されていた高精細複製は、大きなものは知恩院方丈の金碧の障壁画4面で、実物大で印刷し、実物と同じように襖仕立てにしてある。金地はどうしているのかと思うが、それは印刷ではなく、手作業で金箔を貼ったのかもしれない。この金箔によって間近で確認しない限り、複製とは思えない。撮影禁止であったので展示の様子は紹介出来ないが、向かい側に幅50センチほどの壁から突き出た畳敷きの細長いベンチがある。それに座ると、2メートルほど前に障壁画の複製が光度を落とした壁面に厳かに鑑賞出来る。かなり狭いコーナーであるのが気になるが、入場無料では文句は言えない。そのコーナーは出入り口を入って右手で、左手には芦雪の有名な水墨画の虎図の襖絵がある。串本の応挙芦雪館所蔵で、4年前のMIHO MUSEUMでの芦雪展では展示されなかった。原寸大の複製であるから、迫力充分で、画集で見るのとはかなり印象が違う。各地の寺社に油を蒔く輩がいるようでは、こういう複製を今後はもっと積極的に実物の代わりに展示されるかもしれない。本ギャラリーの目玉はこの2点で、チラシ裏面に紹介されるもうふたつは、モニター鑑賞だ。そのひとつは「高精細(4K)映像で捉えた古都京都の文化財」で、知恩院の障壁画の壁面と直角になる突き当りの壁だ。それは幅2メートルほどであるから、モニターの大きさはそれ以上にはなり得ない。筆者らが見た映像は竜安寺の石庭で、ほかにもいろいろとあるのかどうかは知らない。画面はさほど大きくなく、4Kであることはわからなかった。石庭の塀を越して視線が移動するので、ドローンを使ったのかと思うが、それでは4Kの撮影機器は取りつけられないだろう。となると、クレーンだが、石庭の外際までクレーンが入り込めるだろうか。そんなよけいなことを考えた。出入り口を入ってすぐ前は大きな地図を収納するような平たい引き出しが5,6段重なった設備で、その最上段を引っ張り出すと、滋賀義仲寺の芭蕉翁堂の若冲による天井絵の1枚が原寸大で複製されたものが収まっていて、触ってもよいと書いてあった。実物は絵具の剥落がひどく、それで7,8年前に複製が作られると聞いたが、それを手がけたのは大日本印刷であったようだ。板目がくっきりと印刷されているので、それを触ると凹凸が感じられるかと思ったが、つるつるであった。高精細というのであれば、表面の凹凸まで再現出来ないものか。チラシ裏面の3つ目は「ルーブル-DNP ミュージアムラボの美術鑑賞システム」で、ルーブル美術館内の写真があって、てっきり同美術館の多くの作品がモニターで見られるのかと思ったところ、そうではなかった。同美術館に行けばそれなりにモニターを使って作品をさまざまに分析して見せるサービスがあるのだろうが、そういうシステムを大日本印刷が開発しただけで、美術品の著作権はルーブルにあるから、本ギャラリーで同美術館と同じ映像サービスを受けることは無理だ。本ギャラリーにあったのは、2台の小型モニターで、ひとつは古代ローマの棺桶に貼りつける故人の肖像画の修復の順序を紹介するもの、もうひとつはギリシア時代の塑像か、宙に浮いているそれを指先ひとつであらゆる角度から眺められるものだ。前者は平面、後者は立体で、ともに小品だ。画集では見られない内側をデジタル技術によって自在に見せようとするが、何分デジタル画面であり、またほかの作品を見ることが出来ず、ありがたみが少ない。それを言えば高精細複製も同じと言えるが、大型の作品であるのがよいし、光る画面を見るのとは本質的に違う。定期的に展示物を変えるのかどうか、同じままでは一度で充分だろう。美術品はやはり手仕事によるものであり、いくら機械技術が切磋琢磨して発達してもかなわない。