幇間と呼ぶにふさわしい人がいるもので、筆者が勤務していたことのある大阪の設計コンサルタンツの会社の忘年会や一泊の旅行などの宴席で、必ず浴衣の上半身をはだけて踊る男性がいた。

40歳くらいであったと思う。小太りで目の大きな優しい人で、筆者とは部署が違ったが、飲むと一気に陽気になり、周囲が囃し立てることも手伝って、両方に扇子を持ち、それを広げて喝采を浴びながら踊る様は、実に堂に入り、みんなを大笑いさせた。ある時、同じように踊り始めたのはいいが、周囲が普段より乗っていなかったことを察知して、その人は2分と経たずにやめてしまった。その時、筆者をさびしそうに見ながら、「大山くん、今日はあかんよ」と小さな声で言ったが、筆者はその人が周囲を和ますためにいつも裸踊りをしていたことに初めて気づき、なおさらその人の優しさを思った。アホになってみんなを笑わせようとしていたのが、その日は酒癖のあまりよくない人がいて、ちょっとした口論があったのだ。それを止めさせるためにその人は十八番の裸踊りを始めたのだが、いつもより席が盛り上がらないことを察知し、やる気を失ったのだ。筆者はその人のような「たいこもち」の真似はとうてい出来ないが、会社ではそういう人は必要だ。その人は高学歴ではなかったが、それを自覚していたこともあって、酒の席ではアホな役を買って出ていたのだろうが、「大山くん、今日はあかんよ」と言った時の顔は、どう言えばいいか、まるで筆者がその人の上司ででもあるかのようなおうかがいを立てるような素振りで、その人はまだ新入社員同然の筆者をそれなりに一目置いていたのだろう。だが、それは社内で難しい仕事を任される存在であるからというのではなく、ウマが合うという性質上のことだ。普段あまり話をせずとも、お互い性質がわかるというような間柄だ。だが人間はややこしい。ウマが合う人がいれば必ずそうでない人がいる。それはさておき、その人はとっくにその会社を定年退職したはずだが、今頃どうしているかと思う。調べられないことはないが、今会ってもお互いわからないだろう。年月の経つのは速いし、それに肉体は著しく変化する。さて今日は12日の日曜日に見た大阪造幣局の桜の通り抜けの写真を載せる。家内と大阪に出たのは久しぶりだ。今年は二度目であったと思う。菜種梅雨と言うにふさわしい雨天が続き、桜は早々と散ってしまったが、造幣局の桜は八重が多く、京都の仁和寺の桜と同じように、ソメイヨシノよりかなり遅れて満開になる。前回造幣局の桜を見たのは3年前の20日で、そのことは
「今年の桜、その14」に投稿した。今年は15日までで、年々開花が早まっているのではないだろうか。3年前に投稿したので、今年は別の桜を見に行くつもりで出かけた。大阪城西の丸庭園だ。そこで12日まで2月に天王寺公園で実施されたイルミナージュが開催されていることを知った。天王寺公園内に設置された電飾をそっくり移設したらしいが、水辺はないので安宅船の電飾は使われなかったであろう。桜が目的というよりも、そのことも含めて、天王寺公園に用いられたものがどのように西の丸庭園で飾られているかを確認するために行きたかったが、どうも12日はもうすっかり花は終わっていると思え、造幣局だけにした。どっち道、地下鉄の天満橋まで行く必要があり、天候がよく、また歩く気力があればまず南方の西の丸庭園に行き、それから天満橋に戻って今度は橋を北にわたって右手の造幣局に行こうと考えた。だが、その日は午後2時に家を出て、しかも花園や心斎橋で用事を済ますと、筆者はまだ元気であったが、家内は靴があまり合わずに疲れを口にし始めた。それで西の丸庭園は諦めた。

ネットで調べると、西の丸庭園は殺風景らしい。入園料は200円だったか、それにイルミナージュは午後6時からで、一旦全員外に出され、イルミナージュ料金の300円を支払ってふたたび庭園内に入る。300円は天王寺公園の時に比べるとかなり安い。それは電飾を使い回しするからかもしれないが、それはいいことだ。以前書いたように天王寺では真冬でもあって観客はとても少なかったはずで、花見客を当て込んだ西の丸庭園では300円でも天王寺公園の時よりも総入場料ははるかに多かったのではないか。だが、だだっ広い庭園の中であるから、電飾の見栄えはさほどでもなかったかもしれない。天王寺公園では出入り口に紫禁城のような電飾があって、その右手奥に同じ電飾で光る城の形をしたラヴ・ホテルが聳えていた。西の丸庭園ではその城は本物の大阪城であり、電飾門と大阪城を一緒に捉えた写真を撮りたかった。また来年があるかと言えば、来年はデザインの違う電飾となるはずで、機会の神は前髪しかないことを思う。西の丸庭園は大勢で花見をするのに最適らしく、筆者が家内と連れだって出かけてもわびしさを感じただけかもしれない。こうして書きながら、桜の下でビールかカップ酒を飲むことを想像しただけで楽しくなるが、家内は飲まないし、ひとりで飲むと寒さを感じてすぐにトイレを探し始めるだろう。そのため、想像だけにしておくのがよい。ニュースでは東京上野の花見客の半分は外国人であったそうだが、さぞかしみんないい気分であったろう。その点、造幣局の通り抜けは飲食禁止で、一方通行となった局内の道を600メートルほど歩くだけだ。それではさびしいので、大川沿いに多くの屋台が出る。これが壮観で、またさまざまな臭いが漂って来る。出口を出て右に折れて「通り抜け」を逆行して川沿いを天満橋まで歩く間のその両側に屋台が連なるが、12日はそうせずに出口を左折し、西に歩いて天神橋筋商店街に向かった。800メートルほどであるのに、足が痛んだ家内に合わせてゆっくり歩いたので、2キロほどに感じた。それはともかく、造幣局は夜桜がよいと昔聞いたことがあって、筆者が最初に見たのは10代前半であったと思うが、家内と30数年前に夜桜を見たことがある。その時は押すな押すなの人で、桜よりも人の背しか記憶にない。それに比べて12日はゆったりとしていた。3年前と同じような写真になると思いながら、数枚撮った。家内とお互い撮り合ったのに、家内が筆者を撮ったものは写っていなかった。夕方であるのでなおさらシャッターが下りにくく、写すにはちょっとしたこつが必要だが、桜を背後にゆっくり撮影出来ないほどには大勢の人であった。中国語や韓国語、それにどこかわからない言葉が飛び交い、上野公園と同じように国際色豊かになっていることがわかったが、警察だろうか、若い男の大きな声で英語のアナウンスがあった。タイ人の男子が迷子になり、母親を探しているもので、10分ほど後に繰り返された。タイ人の母が英語を理解すればいいが、そうでなければ親子が出会えるのは1,2時間はかかるだろう。タイからの観光客が急増しているらしいが、やがて地下鉄その他の表記で、中国語や韓国語の下にタイ語の表記も必要になるかもしれない。3年前とは大きく違うのはそうした外国人観光客の急増で、これが今後どのようになって行くのか、それなりに興味深い。世界一ひとり旅をしやすい都市のランキングが一昨日にネットに掲載され、東京に次いで大阪は第2位であった。それほど安全で見るべきものが多いという評価で、桜がその役割のかなりの部分を担っているとするならば、安藤忠雄が始めた大川沿いを桜で埋め尽くすという考えは先見の明がある。じっと黙っていても観光客がやって来ると考えている京都はそのうち外国人観光客にそっぽを向かれるかもしれない。なので、四条通り西端の桂川右岸の罧原堤を渡月橋まで桜で埋め尽くせばいいと思うが、まあ、無理だ。

国際色豊かを言えば、今日の最初の写真だ。天満橋の半ばを歩いている時にかすかに音楽が聞こえ、筆者は家内に
ソル・デ・ロス・アンデスの演奏ではないかと呟いた。そして橋をわたり切ろうとする時、左下に彼ら3人の演奏する姿を見た。それが最初の写真だ。3年前か、それより前か、彼らは橋の下流側ではなく、上流側の交番横で演奏していた。その場所は「通り抜け」を見始める前、あるいは屋台の列が終わった後に位置し、「通り抜け」を見るためにやって来た人は必ず演奏を目にすることが出来たのに、おそらく警察もしくは屋台を取りし切る機関が難色を示したはずで、それで「通り抜け」の客がまずまともに見ないような場所に移動させられたのだろう。以前の交番横から50メートルほど下流だが、そこはほとんど人は歩かない。それに天満橋の上からでは演奏の音は聞こえにくく、仮に関心を抱いたとしても、その場所に行くには一旦信号を越え、交番の際から下流へと遠回りする必要があるだろう。せっかくの稼ぎの多い機会であるのに、かわいそうなことだ。ショバ代を払えば屋台と同じ区域で演奏出来るかもしれないが、大きな音を発するではそれも難しいだろう。彼らは去年5月のゴールデン・ウィークの中之島祭りの舞台に出演したから、大阪人にはそれなりに名が知られている。それで新鮮味がなく、「通り抜け」の期間中はわざわざ演奏する前で見る人は少ないかもしれない。それにしてもCDを何枚か出し、大阪でそこそこ名が知られているのに、TVに出演してお笑い芸人並みに知られることがない。それはマネージャーの力量と、所属する事務所の力関係が大きいだろう。かくていつまでも路上ミュージシャンのままということになりそうだが、どうにか食べられるのであれば、それはそれでいいではないか。この1枚目の写真から2,3,4枚目と順に夕暮れが暗くなって行くのがわかるが、筆者は3年前とは違ってあえて夜桜を楽しみたかった。灯るぼんぼりと一緒に桜を撮ろうと思ったからで、3枚の写真はどれもぼんぼりの光を写し込んだ。人の頭、それに桜の向こうの屋台の灯りはなるべく入らないようにしたが、それでは「通り抜け」の本当の様子を伝えることにはならない。「通り抜け」の楽しみは桜もそうだが、雑踏を見、それに紛れることにもある。つまり、にぎやかな桜だ。迷子が出るほどで、人出の多さは八重桜の賑やか雰囲気と釣り合っている。咲いてすぐに散る一重の桜もいいが、花の重みで枝先が地面に着く豪華な八重桜もいい。出口付近でその大きな手毬のような桜を両手で触れて花を散らしている老齢の女性がいた。中国人かと思えば、サングラスをかけた盲人であった。彼女が桜を愉しむには、手で触れてみなければならない。耳は敏感に人々のざわめきを捉え、鼻は屋台の食べ物を嗅いでいるが、肝心の桜は見えない。それで付き添いの人が触れさせていたのだが、そのことに目くじらを立てる必要はない。笑みを浮かべたその口元はとても嬉しそうで、こっちまで嬉しくなった。桜は花の中の最高位の「たいこもち」だ。