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●『東山魁夷 わが愛しのコレクション展』
けた東山芸術の世界の肥になったのが画伯愛蔵の美術品という考えに沿った展覧会で、東山魁夷が集めて手元に置いた美術品と、それらと関係する魁夷の作品が楽しめた。



●『東山魁夷 わが愛しのコレクション展』_d0053294_15101264.jpg今調べると、魁夷の展覧会図録は2冊所有している。1冊は1980年3月、今はない大阪北浜の三越百貨店で見た『第二期 唐招提寺障壁画展』で、もう1冊は1982年4,5月に大阪吹田の国立国際美術館で開催された時のものだ。それ以降も関西での開催はあったはずで、2冊の図録に挟んである魁夷展のチラシを確認すると、1983年4,5月に大丸梅田店開店記念として『樹々は語る展』、1988年5,6月に京都市美術館、8から10月に兵庫県立近代美術館で画業60余年展、1991年9.10月に大丸京都店で『わが旅の道展』そのほかに守口や尼崎で版画展があって、版画展以外は全部見た。それら以外に、鑑真和上の命日の6月のある日に家内と唐招提寺を訪れて鑑真像や障壁画を見たことがある。20年ほど前と思うが、記憶は定かでない。ともかく、最初に見た『第二期 唐招提寺障壁画展』からは今回は35年ぶりの展覧会だ。1982年展はあの広い美術館の内部が大変な人で、魁夷の人気の凄まじさを目の当たりにした。魁夷は1999年に亡くなっているが、関西でも人気は高いようだ。その人気の高さゆえに、精巧な版画が晩年ないし没後にはよく製造され、それらも1点数十万円はしていた。あまりの多さに画集の印刷とどのように違うのかと思ったものだ。魁夷の絵は青や緑が主になった優しい女性的なものが多く、白馬が水辺にたたずみ、その背後に森が広がるような絵は甘ったるくて童話の世界を思わせ、一般には歓迎されるだろう。悪く言えば通俗的だ。だが、どれも清潔な印象が強く、また風貌が僧侶の趣があって、大衆に迎合していると断言するのは当たっていない気がする。やるべき仕事というものに迷いに迷って温和な画風を選んだというのが正しいような感じがあり、そこに優しい人間性を見たいが、そう思う一方でそのような選択をするほどに、どこか日本画というものとその世界に生き苦しさのようなものを絶えず感じていたのではないかと、やや同情を寄せたくなる。忸怩たる思いがあったと言えば魁夷は否定するだろうが、それに近いもどかしさを抱えながら描き続けたように思う。だが、そういうところを感じさせるとして、それは敗北であったかと言えばそうとは言い切れず、そのような見方もされることをよく知りながら、あえて画風を守ったところに、男らしさや偉大さがあったとも言える。
●『東山魁夷 わが愛しのコレクション展』_d0053294_15104457.jpg 画家が美術品を手元に置くのは珍しくないが、あまりそういうところに的を絞った展覧会は開かれない。その点、本展は会場を訪れるまで知らなかったが、意外なことがいろいろとわかってとても興味深かった。そして魁夷の作品に対する見方が変わったかと言えば、それはない。前述のように、より魁夷の苦悩のようなものがわかり、それが表向きは童話の挿絵のような優しい色使いと構図の画面の中に見えなくされていることを知って、昔から感じていたことが正しいことを実感する。魁夷は明治41年横浜生まれで、3歳で神戸に移住し、東京芸大に入ってからは関東の人となる。有名なことは20代半ばでドイツ語を学び、芸大を卒業してすぐに貨物船に乗ってベルリンに行くことだ。そこからヨーロッパを旅するなどして、2年後に帰国し、当初は生活のために絵本の原画を描いた。その絵がどういうものか知らないが、後年の代表作の画風と大いにつながっているだろう。また、ヨーロッパの絵画を20代半ばでたくさん見たことは、その後の画風に影響を及ぼしたのも当然だ。本展で最初に驚いたのは、先日まで兵庫県立美術館で開催されていたホドラーの山の絵の模写だ。今年のホドラー展にはその元となった絵が来ていたらしいが、筆者は20代半ばに京都市美術館でホドラー展を見たこともあって、同展には行かなかった。魁夷の模写は水彩で、また縮小しているが、ホドラーの特徴をよく捉えつつ、全体に柔らかい仕上がりとなっている。これは食生活の差、文化の差、体力の差によるだろうが、魁夷がホドラーの激しい画風に注目したのは興味深い。だが、その後の魁夷の画業はホドラーのような強い色彩対比はないし、また人物をほとんど描かなかった。象徴性は学んだが、魁夷の作品のそれは信仰を背景にしたものかと言えば、晩年に鑑真和上像を祀る唐招提寺に障壁画を描きはしたが、平山郁夫のように明らかに仏教をテーマにはせず、無宗教に徹した雰囲気がある。ホドラーの模写は20代半ばのものだが、その隣りに展示されていたのはもうすでに後年の画風そのままの日本の山を描いた作品であった。それが何歳の絵か忘れたが、30歳半ばとして、その後魁夷の画風は変化がなかった。ホドラーの山の絵に興味を示したのは、山だけを描いて作品になることを実感したためと思うが、「東山」の名字からして、山を画題にすることは本能的に好んだのだろう。大学に行くまで神戸に住んだことも影響しているかもしれない。
 本展で次に驚いたのは、京都生まれの長谷川利行の小さな油彩画を、魁夷が生まれて初めて他人の絵として買ったことだ。画家が他の画家の作品を買い求めるのはよほど魅せられるからで、それが長谷川利行となると、魁夷の画風や魁夷の人気度からしてとても意外だ。魁夷はなぜ利行のような画風、そして生き方をしなかったのかと思わせられるからだが、それは人さまざまだ。利行のようには生きられず、また画風を模倣するつもりもなかったのが理由だろうが、静かな風景画を描く魁夷の心の奥に利行の絵を愛する思いが渦巻いていたとなると、前述のように、魁夷は迷いながら自己の画風を肯定し、そこに多くの思いを封じ込めたと見るべきであろう。そして、世間では利行のことを知る人はとても少ないが、魁夷がそのことで利行に勝ったとは思わなかったはずで、名声の大きさと芸術のそれは比例しないことを自覚していたであろう。本展では最初に伝宗達の「源氏物語図屏風断簡」が展示されていて、これがとてもよかった。秋の紅葉といった色合いで、それは魁夷の作品を思い出させるが、日本美術から装飾性を学びながら、一方でヨーロッパ芸術をも摂取するというのが、魁夷の目指すところであった。その画風は戦後ますます西洋化する日本で人気を博さない方がおかしいが、モダニズムというものからも一歩離れたところに立ち、精神性を重視したのは、その寡黙な風貌からもわかる。その果てに唐招提寺の障壁画を手がけたのは、本人も周囲も魁夷の装飾性と精神性をよく知ってのことで、晩年に代表作を得て幸福な画家であった。手元に置いた美術品は美術商から買ったものばかりではなく、師の結城素明や松岡映丘が所有していたものを譲り受けたものも混じり、また日本の茶碗やキモノからエジプトやギリシア、ガンダーラ、そして中国の美術品やロダンやガレの作品など、どれも小品ながら味わい深く、世界の美術と向き合っての自己の作品を思っていたことがわかる。ただし、そういう態度と肝心の芸術が釣合い、また人もそのように見るかとなると話は違うのが芸術の不思議なところだ。魁夷の作品がヨーロッパで展示された時、評判を呼ばなかったと何かで読んだことがある。エスペラント語のように、世界を目指すとかえって広まらないのかもしれない。だが、明治生まれの魁夷は列強に学ぶという意識が強かったのだろう。その態度は若い頃に芽生えるといつまでも去らないものだ。後年またヨーロッパを旅し、画題を得る。
 魁夷は、日本画は日本を画題にすればよいという考えを持たず、その点を松岡映丘はどのように思っていたであろう。筆者が松丘映丘展を見たのは1978年だが、そのやまと絵の美しさと伝統に驚嘆した。そして今思うのは、西洋人に映丘と魁夷の絵を見せれば、どちらが日本的で素晴らしいと言うかどうかだ。昨日は攘夷について少し触れたが、映丘はまだその思いが濃厚にあった。魁夷になると、日本を守るには外国を知ることが大事との思いで、それが昂じて日本も外国もないではないかという境地に進んだ。それは日本人が何をどのように描いても日本人であることが表現されるはずという思いがあったためとも言えるが、映丘はそのようには考えなかったであろう。そして、両者のどちらが正しかったかは、有名度からして圧倒的に魁夷だが、魁夷は映丘を越えたとは思わなかったであろう。やまと絵をいくら研究しても映丘のようには描けないし、それを越え得てもさして見栄えは変わらないのではないか、それよりもそのような1000年近い前の日本の一画風と言ってよいようなところから離れて、もっと自由に描きたいと考えたのではないか。そのことは、誰にもわかりやすく親しみやすい絵を描くこととは本来結びつかないが、魁夷は色の冒険的交響を試みるということはあまりせず、モノクロ写真にうっすらと色をつけたような単彩的な画風を獲得する。それは山や海、空を画題とする風景画であれば仕方がないとも言える。魁夷は装飾性を重視していたが、それは堂本印象のような画家とは全く違う。絵を構成する意識が希薄というのではないが、写真のように、つまり眼前に見える景色を重視し、したがってそこに白馬を描き込むと、たちまち甘い童話を連想させることになった。それは写実に徹する態度ではなく、装飾性を歓喜で称えるというのでもなく、ただ愛らしい美しいものを描きたいという思いによる。そのことが中途半端な芸術に西洋の人には見えたのかもしれず、同じように評価する日本人も少なくないだろう。魁夷の名作に昭和25年の「道」がある。中央に白い道、その両側に緑の草地、そして水色の空という、おおまかに言えば白青緑の3色でしかもほぼ左右対称の構図だ。掛軸仕立てであったと思うが、絵具の小さな剥落が画面右上にあった。全面に隙間なく絵具を使っているので、絹地はこわばる。何度も巻いているうちに絵具が剥落するのはやむを得ない。映丘ならそのように絵具を使うことはなかったから、魁夷の絵は日本画のいいところ、つまり画材の脆弱性を最大限に考慮した画題や構図とするところから遠く、顔料を油絵具に変えればそのまま油彩画となるとして評価しない人があるが、今では日本画はほぼ全部が魁夷のように全面に岩絵具を用い、また厚塗りをする。掛軸を用いる生活空間がなくなり、欧米と何ら大差ない日本となれば、それが自然の成り行きというもので、かくて映丘のような絵は特殊な空間にしか似合わず、ごく一部の愛好家しかいない。
 つまり、魁夷が20代半ばでヨーロッパに行ったのは、日本画にとって先駆的によかったことと評価される。ならばなぜヨーロッパ人にさほど歓迎されないのか。彼らは今はもうほとんど残っていない日本の大昔の幻影に憧れているだけで、100年後には魁夷は世界中で評価されると主張する人もあるだろうが、それは誰にもわからない。魁夷が手元に置いた美術品の中に、呉須の器があった。鮮やかな藍色の模様は磁器の艶やかな肌と相まって、誰でも憧れる。魁夷はその青と白地の妙を自作の絵画に再現しようとしたが、呉須の器をそのまま描くのではない。その色合いだけ参考にして森や山を描いた。見比べると、確かにどちらも青と白の諧調だが、磁器の味わいが顔料を使った日本画に再現されるはずがない。素晴らしいとされる美術品のその素晴らしさの理由は色彩だけではない。そのことを魁夷はよく自覚しながら、それでもなお評価が定まっている美術品のその色彩を自作に再現したかった。このことは、「拓く」と言えるか。呉須の染付の青色は自然に内在する青を再現しようとして生まれて来たものであろうが、磁器の透明度と合わさっての効果を考え、次第に風景の中の青色を再現するというより、染付そのものの美を追求する中で純化して行った思いの産物であろう。魁夷は目に見えるものを描く再現絵画をもっぱらとし、呉須の青に魅せられ、その色合いを景色に認めるという逆の方法を採ったとすれば、どこかわざとらしい雰囲気を作品に付与したのではないか。もっとも、魁夷の青を基調とした多くの作品がどれも呉須を発端としているのではなく、実際は青い景色を目の当たりにしたことがきっかけとなっていると思うが、その青を表現するにはまず絵具が必要で、岩絵具に寄りかかる不自由さとまた自由さを味わったであろう。不自由さというのは、たとえば呉須の美しさに見せられれば陶芸家になるのが本当だが、それを絵具で再現しようとなると、派手な工業製品のペンキを使えば日本画にはならず、なっても前衛絵画になるであろうし、岩絵具となると、どれほど鮮やかな色合いのものが手に入るかだ。それに青の岩絵具はとても高価だ。本展では魁夷が使い残した青や緑の岩絵具が瓶や試験管に入ったものが数百、いや1000種を越えるだろうが、ずらりと収めた箱が展示された。それを見て溜息を出す若い日本画家が多いのではないだろうか。魁夷ほどの画家であったので、岩絵具もそれほどたくさん手元に集められたが、そのように微妙に色合いの異なる大量の青や緑の絵具を傍らに置くと、自由に色遊びをするような思いで新たな作品を手がける意欲が湧いたであろう。本展の最期の部屋は、どの絵も青や緑を基調としながら、どの絵も色調が違って、それは1000種に及ぶ同種系の絵具を所有していたためであった。チューブ入りの油絵具ではそのようなごくわずかの色の差に準拠した絵を描くことは出来ない。自然界に存在する岩を砕いた絵具を用いて樹木の緑や空、水辺を描くことは、魁夷なりの呉須を用いた磁器と同じように、それでしか表現出来ない作品であり、映丘とは違うが、日本画の可能性を拓いていると自らを鼓舞したのではないか。最後に、これは美術品ではないが、ヨーロッパ各地で買い集めた高さ7,8センチの鮮やかな色合いの人形が数十個展示された。同じ色合いと味わいのものは日本の郷土玩具にもあるのに、魁夷はそれに関心がなかったのであろうか。ヨーロッパの小さな玩具を好んだのは、神戸育ちであるからかもしれない。
by uuuzen | 2015-04-16 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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