懲らしめるという考えは今は否定的になっている。教師が児童や生徒を懲らしめようものならば、親が黙っていないだろう。では親がわが子を懲らしめるのはどうかと言えば、それは昔も今もさほど変わらないのではないか。
表向きは懲らしめているように見えなくても、親に歯向かえない子どもは親の言うことによくしたがい、そして大人になってから反抗期を迎える。あれほど優しく接して来たのになぜ子どもが反抗するのかわからないと親は戸惑うが、優しく懲らしめて来たことを自覚しない。とはいえ、子育ては難しいもので、筆者は偉そうなことは言えない。親はなくても子は育つと筆者は子どもの頃から周囲の大人が言っていたことを今もよく思い出すが、そのとおりで、生まれた時から親がいなくても子は大人になって行く。ただし、精神に多くの傷を負うだろう。だが、傷を負わずに大人になる子どもがあるだろうか。そして、その傷は比較出来ないものだ。苦労話を他者にしても、他人の痛みは誰しも感じることが出来ず、想像するだけだ。そして想像しながら、自分の方が幸福だとか、もっと苦労したと思うが、その苦労の度合いは他者にはわからない。さて、
去年12月に野口久光の映画のポスター原画展について書いた。同展では今日取り上げるフランソワ・トリュフォーの映画のポスター原画がひとつの見物であった。少年が黒のタートルネックを口元まで上げて視線を右に向けている上半身を描いたもので、トリュフォーはその絵を気に入り、後の映画に小道具として使用した。同展を見た後すぐに『大人は判ってくれない』を見てもよかったが、なかなかその気になれなかった。2,3年前にフランス映画のビデオを何本かまとめてネット・オークションで買っていて、その中に本作があった。それで見る気になったのは一昨日のことで、急に思い出したことによる。早速家内と見て、最後の場面になった時に、20代前半に見た記憶が蘇った。梅田のサンケイ・ホールで当時古い洋画を上映する会があって、それで見たはずだ。40年も経てばほとんど忘れるが、かすかに覚えているところもあって、本作ではそれが最後の場面であった。最後の場面がなぜ印象的であったかと言えば、そこで初めて主役の少年を演じる13歳のジャン=ピエール・レオーが観客に目を向けるからだ。映画では絶対に俳優はカメラに目を向けない。本作もそうだが、最後の場面の一瞬のみ、少年は観客と目を合わせ、そのことで本作がリアリティを持つ。撮影されている時にカメラを意識しないことは難しいだろう。筆者には無理だ。2年ほど前、難波の高島屋前でTVのインタヴューを受けた。撮影班は3,4名の若者で、大阪の芸人に対する感想と質問を求められた。ある写真を示され、それが誰か知っているかと訊かれたが、知らなかった。ビデオ・カメラが筆者の斜め前50センチほどで動いていて、それが気になって仕方がなく、答えている自分が自分でないような気がした。撮られた映像は没になったと思うし、またそうあってほしいが、そう言えば昨日天神橋筋商店街でも同様の撮影班が60代の女性をつかまえてインタヴューしていた。そのすぐ際を歩くと、おばさんはとても慣れた調子で熱弁を振るっていて、しかもカメラを全く気にしていない様子であった。それを見ながら、筆者はとても無理だと思った。筆者は顔を多くの人に晒すのは苦手だ。そう言いながら自治会長を何年もするなど、人目につくことをして来ているが、それは仕方なしであり、出来れば人前に出たくはない。こうして文章を書くことは顔を見せないから平気だが、実際のところは誰にも読まれなくてもかまわないと思っているほどで、前へ出たい、目立ちたいという思いゆえではない。
本作は1959年の製作で、トリュフォー初の長編で、長さは100分だ。もっと長く感じたが、それは時代の変化だろう。今ならもっと短く編集したのではないか。原題は最初に映し出されるが、『大人は判ってくれない』とは関係がないことが予想どおりであった。「LES QUATRE CENTS COUPS」の「CENTS(サン)」は、英語のCENTURYにあるように、「100」の意味だ。「COUPS(クー)」は「クーデター」に使われ、「打撃」の意味であることはフランス語に馴染みのない人でも知っている。『400の打撃』という直訳の題名では日本ではヒットしなかったはずだが、あえてトリュフォーがそうしたのは詩を愛好するからと思える。映画の内容は確かに「大人は判ってくれない」すなわち子どもと大人との間に壁が存在する様子を描くが、その壁はいわば400回も叩いてもびくともしないほど絶望的に強固で、遮られた子どもは行き場を失い、壁の向こうの平凡な大人になることを目指さない。それで普通はぐれてやくざになるか、絶望して自殺するか、破滅の道に進むことが多いが、もうひとつ別の道がある。世間で言われる芸術家になることだ。本作はそのことを描いている。ただし、前述したように、少年は最後は行き場を失って観客に目を向けるから、その少年がその後どうなるかは描かれない。だが、ジャン=ピエール・レオーは少年でありながら、ジャン・ギャバンのような格好いい大人になる風格を光らせていて、自殺などせず、逞しく生き抜いて世間から目立つ存在になるであろうことがはっきりと見て取れる。レオーが演じるのはアントワーヌ・ワグネルという12歳の少年で、日本の中学生に相当するが、男子ばかりの学校に通っている。級友は同じような経済状態の子どもばかりかと言えば、レオというウマの合う友だちは昔の貴族だろうか、大きな屋敷で暮らし、貧しいワグネルとは経済状態は天地の開きがある。これはレオにとってもワグネルにとってもいいことだが、日本の私学ではだいたい似た経済状態の子どもが集まり、経験する世間が狭くなる。そしてそのような私学では先日ニュースにあったように、私腹を肥やすとんでもない人物が頂点にいたりするが、それを言えばこれも先日、1万2000人もの少女を金で買って性交したという中学の校長が逮捕されたが、大人や教育界のいい加減さは本作でも描かれる。「大人は判ってくれない」ではなく、「わかろうとしない退屈で俗物の大人」で、ワグネル少年は両親や教師のような大人にはなりたくはなく、それで逃げられるだけ逃げ、最後に観客を一瞥する。その眼差しは、観客に同意を求めるものではない。観客の大多数は本作で描かれる大人と同じであるはずで、ワグネルやまた本作を撮ったトリュフォーは相変わらず孤独であったろう。ただし、類は類を呼ぶで、トリュフォーは本作の評判によって映画監督の地位を築き、その後の人生を決定的に切り開く。演じたレオーも同じで、トリュフォーによってワグネル少年のその後がシリーズ化される。本作はトリュフォーの自伝的な内容とされるが、本作では両親は平凡な人物として描かれる。父は安月給で働き、母も働いているが、浮気をしている。ワグネルはその現場を目撃するが、それからは母はワグネルになれなれしく接する。トリュフォーの両親は離婚したそうだが、本作での両親はそうなっても当然のように描かれる。ワグネルがいわゆる非行少年のレッテルを貼られ、ついには両親も見限って感化院送りにする。現在もよくある話だ。違う点は、ワグネルが映画好きで、レオと一緒に授業をさぼって映画館に忍び込むことだ。つまり、トリュフォーは映画に救われた。それがなければトリュフォーはやくざになっていたかもしれないが、そう考えるのは早計だ。ワグネルは文才がある。バルザックが好きで、狭いわが家に壁龕を作ってその奥にバルザックの有名な肖像写真を貼り、そして蝋燭を灯す。これはバルザックを神として崇めることで、12歳の少年にしてはかなりませている。筆者は10代半ばでバルザックを読んだが、おそらく彼の小説はフランス語を理解すると、もっと感動的であるだろう。バルザックならではの文体というものは、翻訳ではほとんどわからないのではないか。本作のワグネルは、バルザックの文章の味わいを理解した。それはフランス語の誌的なところがわかることで、そのことにワグネルの将来に光が見えている。ワグネルに文才がある、あるいは彼が文章で自己表現したがっていることは、本作が始まってすぐにわかる。授業中、彼は同級生が回し見していた1枚の印刷物を先生に見つかり、前に出て立っているようにと叱られる。運が悪いのだ。あるいは先生はワグネルが他の生徒とは違って、不敵な感じが許せず、事あるごとに懲らしめたいのだ。教室の前に出たワグネルは、布で覆われた奥に壁を向いて立つ。そして壁に文字を連ねる。それは理不尽な叱責を怨む内容だが、ワグネルにすれば詩だ。実際先生はそれを詩の形を取ったものと納得しながら、二種の形式の詩の韻律が混ぜこぜになっていると言ってそれを消させる。
その後、英語を教える先生が登場するが、ワグネルを立たせた国語の先生が再登場する場面では、文章の課題を全員に与える。そこでワグネルは尊敬するバルザックの文章を真似たのか、剽窃したのか、とても少年とは思えない文章を書いて提出する。それを見た先生はバルザックの文章をそのまま引用したと思って激怒する。ワグネルの隣りに座っていた生徒はワグネルは今この場で何も見ないでそれを書いたと言うが、先生は信用しない。中学校の国語の先生に、ワグネルの才能、あるいはバルザック好きが理解出来ないのだ。同じようなことは今でもいくらでも起こっているだろう。学校の先生の知識は知れている。であるから学校の先生になったのであって、そうでなければバルザックのような文豪になっていた。ところが、学校で教えることは、バルザックのような人間になることではない。それに親としてもそのような生き方は困ると思っていて、せいぜい学校の先生か、サラリーマンになってほしい。ではなぜ学校でバルザックを教えるのか。小説家も含めて芸術家になるには、今は芸術大学を出ることが絶対と思われているが、それは芸術の死を意味するだろう。本作のワグネルはその後芸術大学に行くのだろうか。トリュフォーが芸大卒の肩書きを欲したか。ワグネルは早熟で、また俗物が耐えられなかった。やくざになることも俗物がすることだ。トリュフォーの両親は芸術家はなかったが、そのことがトリュフォーという才能を生んだことは本作に描かれている。芸術家の両親を持つ自称芸術家がよくいるが、彼らはまあろくな仕事は残さない。小粒の芸術家にはなるだろうが、それ止まりだ。人生が面白いのはそこだ。両親が俗物であっても、いやそうであるからこそ、子どもは反抗し、芸術を築き上げることで心を満たそうとする。ただし、そうなる可能性はとても小さい。たいていは俗物たちに押しつぶされてしまい、それに同化するだろう。そうしなくても、ほとんど芽が出ないまま、作品というものを残せない。その点、トリュフォーは運がよかったことになるが、その前にまず早熟で、しかも熱中出来る映画というものがあった。映画の時代でなくなった時はたとえばロックであったが、次々と若者が熱中する文化は生まれる。そういう中で本作のワグネルがバルザックを持ち出し、詩文を書くというところに、映画としての香りの高さがあるが、日本でリメイクするのはまず無理だろう。バルザックに相当する大小説家が日本にいたとして、両親や学校の教師たちから理解されない子どもが、そういう小説家の肖像を壁龕に飾って大切にすることはほとんど考えられない。その意味で日本の子どもたちは憐れと言えるかもしれない。壁龕に飾るものはスマホやゲーム機というのでは、将来トリュフォーのような才能にはなりようがない。どこまでも行儀よくすることを強いられ、またそれに疑問を挟まない子どもが、将来日本を背負って立つ社会というのは、正しい意味での芸術は死んでいる。正しいというのは、批判的ということだ。親や先生は絶対的な規範として最初に子どもに立ちはだかる。それに本能的に抵抗する子どもでなくて、将来どのような型破りの批判が出来るだろう。常に新しいものは、常に批判精神を持っている。本作をアンドレ・マルローやジャン・コクトーが絶賛したというが、俗物から逃亡するワグネルすなわちトリュフォーに同種の人格を見たからだ。それはさておき、野口久光の描いたワグネルの姿は、留置所の内部にいるところで、本当は手前に金網が張ってある。野口はそれを描かなかったが、当時のスチール写真に留置所内部で撮影したものがあって、それを参考にしたのかもしれないが、本作では金網の外からの場面しかない。留置所に入れられたのは、ワグネルが父のオフィスに侵入し、タイプライターを盗み、それが換金出来ないことを知って元の場所に戻すところを守衛に見つかったためだ。どこまでも運の悪いワグネルで、確かに悪がきではあるが、その原因は両親や教師にあるだろう。それで本作は日本では間違っても文部省推薦にはなりようがなかった。だが、芸術や芸術家を称えるのであれば、本作は最適だ。大人がそのことをわかったとして、その大人は俗物ではないかもしれないが、かといって芸術家になることはもう不可能だ。本作は名作として評価が定まっているが、痛みを覚えながらそのことに同意出来る芸術家はきわめて少ないだろう。その現実を最後の場面のワグネルは鑑賞者に突きつけている。「大人は判ってくれない」とワグネルは思ったかと言えば、そうではない。大人の大多数は俗物で、「俗物は判ってくれない」とするのがよい。俗物には400回意見しても無駄で、それほど彼らの壁は強固だ。