橘と桜は御所ではペアになっているが、先日渡月橋の南詰めで、満開の桜に混じって黄色い実がたくさん実っている木を見つけた。グレープフルーツくらいの大きさがある。
近所でもよく見かける実で、食べられないのかどうか、収穫されているところを見かけたことがない。柑橘類は一昨日かいた「たんかん」というあまり耳慣れない実があるし、品種改良によって新たな実が作り続けられていて、大きな実が成っても酸っぱければ誰も食べないだろう。だが、酸味がきついとそれはそれでレモンのように食べられる気がするから、グレープフルーツ大の実がたくさん出来ているのにひとつももぎ取られるところを見かけないのは、苦味でもあるからだろうか。渡月橋で見かけた大きな黄色い実は、誰にも注目されず、そのまま実が地面に落ちて腐って行くのだろうが、桜のピンク色が圧倒している景色の中、鮮やかな黄色はとても目立ってきれいであった。菜の花がちょうどその役割を果たすが、渡月橋付近にそれは咲かない。御所の紫宸殿の右近の橘は、どういう実が成って、それをどう収穫するのだろう。それはいいとして、右近の橘は紫宸殿に向かって右かと言えば、左だ。つまり、西で、応仁の乱で東西に軍が分かれて陣を張った時、西の陣は橘を意識したであろうか。西陣は地名として残り、またそこで織物の産業が今も続いているから、桜とは違って橘の大きな実が成ったというべきだろう。とはいえ、その西陣の織物もキモノ離れによって人気が衰え、廃業した織元が多い。その傾向がいつから始まったかと言えば、60年代初めには深刻化していたことが、今日取り上げる記録映画からわかる。この作品を8日に京都文化博物館のフィルム・シアターで見た。同館で展覧会を見る時は出来る限り、フィルム・シアターで映画を見ることにしているが、見たことのない作品であれば何でもよい。『西陣』は同館がフィルムを所蔵し、たまに上映するのは、義務と言ってよい。京都が上映しなければどこがするだろう。だが、そうでもないようで、本作は監督の松本俊夫の名声によって、DVD化もされ、映像と詩が融合した名作と評価されているようだ。1961年製作、25分のモノクロ作品で、当時筆者は10歳であった。その頃京都には毎年のように訪れていたが、今見ると、同じようには現存しない西陣の家並みや西陣会館など、とても古い時代に感じるし、またそれだけ筆者も古い人間であることを自覚させられる。記録映画はその点が面白い。本作では地方から西陣の機屋などに就職するためにやって来た中卒の男女が何人か映る。彼らは今70近い年齢になって生きている人も多いだろうが、本作以降どのような人生を歩んだのか、そっちの記録映画がないかと思う。また、彼らを面接し、雇用する織物問屋の社長たちもたくさん登場するが、こっちの方は全員死んでいて、遺族が見ると感じ入ることが多いだろう。だが、手放しで喜ぶかと言えば、多少疑問だ。それは松本監督の眼差しが、かなり批判的と言っていいからで、衰退して行く西陣織に対して、その責任の一端が業者にあることをかすかに風刺しているように伝わる。筆者が友禅を学ぶために京都に行くと決めた時、周囲は猛反対したが、それは斜陽産業であることが誰でも知っていたからだ。実際そのとおりになって、西陣織も京友禅も花形の業界とは到底言えない。1か月ほど前か、烏丸通りに面したビルの所有者の40代と50代の兄弟と「風風の湯」のサウナで話した。ふたりは株や不動産で食べていて、兄は祇園祭りの長刀鉾の稚児を二度経験したというから、まあ大金持ち育ちだ。彼の言葉の端に、かつて呉服で潤っていた近所のビルの所有者が次々と廃業し、中には夜逃げ同然に出て行った人もあると語ってくれた。その兄弟の両親は昔は呉服を扱っていたのかもしれない。それが株と不動産というのは、時代の推移を読み取り、いかにすれば同じ場所で生活し続けられるかを考えた結果のことだろう。
それでも、京都らしいキモノや帯を商うのではなく、株と不動産というのが何となく夢がない。それをマネー・ゲームと批判すれば、大量のキモノや帯を扱うことも同じマネー・ゲームであると言われるし、そのように呉服問屋が考えていたので衰退を招いたと言ってもよい。筆者が勤務していた染色工房を抱える呉服問屋の社長から直接聞いたことがある。キモノや帯が売れなくなれば、鍋や釜でも、売れる物なら何でも売ると言った。だが、物を売るにはそれなりの専門知識と愛情が必要だ。筆者が友禅の世界に入ったのは、美しいものを自分の手で作りたいと思ったからだ。金を儲けるのが一番であれば、株をやっていたかもしれない。そこに職人と商売人の差があるが、だいたい昔から前者は貧しく、後者は金持ちで、前者を食わしてやっていると思っている。最近書いたように、売ってほしいと待ちかまえている物は無数にあるし、また物を作る人も無数にいるが、肝心なことはそれを売ることであって、商人はキモノでも鍋でも同じと思っている。つまり、商品に対する愛着は職人のようにあるはずがない。筆者が勤務していた染色工房を抱える問屋は筆者がそこを辞めてすぐに会社を畳んだ。呉服に代わってうまみのある商品を売ることが出来なかったのだが、あたりまえだ。どんな商品にも、それを専門に扱う業者が昔からある。筆者が最初に友禅を学んだ師匠は、自動車のトヨタが呉服を販売し始めると、一気に販路を広げて日本一の呉服問屋になると言ったことがある。それに筆者は、いくら金があってもそう簡単に別の業種に乗り込んでも業績を上げられるはずがないと応えた。物を売るには信用が欠かせないし、信用は商品に対する愛情から生まれる。どんなものでも売ると言う人をまともな誰が信用するか。現在京都の呉服問屋で残っているのは、最も歴史のあるような会社だけと言ってよく、長年かけて培った信用を保持している。バブル期にうかれてあぶく銭をつかもうとしたような会社はどこも今はない。商人は金を儲けるのがあたりまえとしても、商品に対する愛情なくしては、買い手の心をつかむことが出来ない。その意味において株や不動産は愛情を仲介するものではなく、よりマネー・ゲームと言える。だが、世の中はマネー・ゲームの勝者が称えられるべき代表のようになり、こつこつとささやかな商品を売るような商人は「負け組」とみなされるし、職人に至っては憐れな人種とさえ思われる。そういう職人の代表格を本作は描く。本作で描かれる西陣の町並みは、狭い道を挟んでびっしりと木造の機屋が並ぶ地域だ。今は道はそのままながら、廃業した家が多く、空から見て瓦屋根が並ぶ整然とした美しさは激減しているが、かつての京都らしい家並みの西陣を美しかったと表現すれば、それはそこで働く織り手たちの苛酷さを想像出来ないお粗末さを言われるかもしれない。本作のナレーションにあったように、美しい西陣織は美しい場所で織られるものではない。狭くて暗く、寒い家の中で全身で機を扱う人の血と汗と涙によって作られる。本作はそういう職人の顔を写さず、代わりに織られた帯を売る問屋の人々の顔や姿が執拗にと言ってよいほど、つまり記憶に深く刻まれるように何度も登場する。そこに松本監督の西陣業界への見方が反映されているように思える。西陣織の帯は華麗だが、それに反して織工は陽が当たらない仕事と生活ぶりで、また業者連中はほとんど醜悪と言ってよい顔つきや話し方、笑顔だ。もっと言えば、松本監督は商売人を嫌悪しているかのようだ。それで記録映画の監督になったのかもしれないが、そこで思うのは、たとえば本作はどこの委託で制作したかだ。松本監督が個人の趣味として、つまり芸術作品として撮ったものではないだろう。25分の短さとはいえ、ナレーションや音楽など、製作には多くの人が関わる。それにはまとまった資金の提供者が欠かせない。『西陣』との題名からすれば、京都市か西陣の織元の組合だろう。おそらく後者と思うが、だとすれば、本作の仕上がりを見たはずで、そこに風刺味があることをどう思ったのだろう。それすら感じ取れないほどに問屋の社長連中が鈍感であったのかもしれない。
西陣の織元の組合が出資したとすれば、それは織業界の活性化が目的であった。最も重視したのは後継者問題だろう。本作後半では、前述の中卒の金の卵としてやって来た子どもたちが組合の幹部らから歓迎される場面や職安での求人状況、そして機屋に貼られた求人広告が何枚も映る。その一方で西陣会館でのキモノ・ショーやそれを見る人々が印象的で、西陣としては今のままでは未来が暗いという危機感が伝えられる。つまり、本作を西陣の宣伝材料として使いたかったのではないか。だが、松本監督が記録映画の撮影を依頼されたとして、西陣の現状を調査するのに多くの日数をかけて多くの人たちから考えを聴き取ったはずで、その結果、西陣織の美しさだけを強調するものにはならず、むしろ問屋の代表者たちの打つ手なしという諦めに似た態度を炙り出した。その点が記録映画としてとても公平で、また西陣の裏表を描くことに先駆的であった。京都の呉服業界の不景気さは半世紀前も同じであったことがわかるし、その意味で本作は古さを感じさせない。本作の中である子どもの思いが語られるが、それは父が一生懸命織り上げた帯を納品すると、ささやかなものを買ってもらえたが、2日後にはもうもらった金が残らなかったという苦労話だ。織工が安い賃金に甘んじていることの告発と言えるが、本作を西陣の織元の組合が委嘱したものとすれば、その職人家族の箇所は隠したいところだろう。長年の経験を積んだ職人がまるで日雇い労務者と同じような賃金では、誰が夢見て新たに職人になるためにやって来るか。だが、問屋にすれば帯を織るには、本作で描かれていたように、下絵を描くことや糸を染めることなど多くの工程があって、織手のみでは織れないことを言うだろう。運命共同体と言ってよく、どこかひとつでも欠けると帯は製造出来ない。そして最も肝心なことは、美しい帯を買えば美しい女性になれるという幻想をばら撒いて、可能な限り高価で売ることで、商人の収入が一番多いのは当然とされる。そして、商人は売れなくなると、鍋でも釜でも、売れる何かを扱うことを考える。さて、本作で特に印象深かったのは音楽だ。いわゆる前衛音楽で、それが却って時代を感じさせるが、それを言えば音楽を伴うどのような映像作品もだ。三善晃が音楽を担当していて、当時彼は28歳だ。松本監督は29歳で、どちらも若い。本作の音楽はエドガー・ヴァレーズ風で、またテープの逆回転や、今で言うサンプリングを映像とシンクロさせてとても効果的に使っている。その録音やまた映像と一致させるための労力は若さあってのことだろう。ヴァレーズのLPは1950年にアメリカで発売されていたから、それを入手して本作の音楽を書くことは可能だが、それにしてもわずか10年ほどの差であり、また三善の当時の若さを考えると、驚くべき熱意と実力だ。筆者が1966年にビートルズの『リヴォルヴァー』のアルバムを聴いてテープの逆回転を楽しんだ時、ビートルズがそういうことを初めてしたとは思わなかった。何で知っていたか記憶にないが、テープを逆回転させた音はすでに馴染んでいた。そのため、ビートルズはあらゆる音を発明したのではなく、以前にあったものを応用したに過ぎず、そのうまくまとめる才能が素晴らしいと思ったが、それを言えば本作における三善の音楽もそうだと言える。そして、ビートルズより5年も早いことに驚き、またサンプリングの短いフレーズを繰り返す手法に至っては30年は早かった。昔NHK-FMで電子音楽の特集があって、本作で使われたサンプリングの手法をもっと拡大した曲が放送された。その録音を探すのが面倒なのでこのまま書き続けるが、簡単に説明すれば、多くの会話を録音し、そこから意味をなさない断片の言葉を切り取って無数につなげる作品だ。たとえば「たとえば」とか「のような」といった短い言葉で、本作でもそれとほとんど同じことが西陣の問屋のお偉方たちの言葉を用いて録音編集がなされた。それはいかに商品を売る人たちが打つ手なしと諦めているかを象徴するもので、また彼らが無能の集団にも思える。本作を見た彼らは、自分たちの発言がずたずたに切り刻まれ、無意味なつぶやきの洪水と化していることに怒るのではなく、笑ったとすれば、まだ当時は救いがあった。ザッパが『ランピィ・グレイヴィ』のようなアルバムを出そうとすると、レコード会社の重役たちは何が売れるかわからない時代で、さして反対しなかったという話がある。今なら絶対に損しないように、出資者は冒険をしないだろう。松本俊夫監督が本作を作ることが出来たのは、60年代のザッパと同じようにまだ時代が前衛の気風が溢れていたからだ。のびのびと自由にやってよろしいと言われると、却って若者は真剣になる。松本俊夫はその後も撮り続け、西陣も帯を製造し続けているので、50年1日のようであることを思う。