悶着が生じると困る。不愉快な思いは誰しも嫌だ。それで見て見ない振りをすることが往々にしてある。たとえば、先週「風風の湯」でのこと、サウナ室に刺青を上半身に入れた若者が入って来た。
筆者はひとりで12分時計の前に座った。刺青男は筆者から離れて部屋の奥の端に座った。間もなくふたり入って来て筆者と刺青男の間に座った。誰もが無言だ。「風風の湯」は玄関にも脱衣場にも「刺青した人は入れません」を知らせるステッカーが貼ってある。市販のもので、ほかの場所でも見かけたことがある。上半身の半分をキモノを脱いで見せる大岡越前のイラストで、その上に「NO」と書いてある。外国人が見てもわかるようにとの配慮だ。玄関扉にそれがあると、刺青を入れている人は躊躇するだろう。日本では特にそういう感覚だ。だが、刺青をファッションのように入れている若い芸能人は日本でも多いはずで、外国ではほとんどタブー視されていないだろう。そのため、温泉になぜ刺青を入れた者が入ってはならないかが理解出来ない。日本もそれに近くなっているが、ファッションでごく小さなものを入れるのとは違って、上半身びっしりとなると、ヤクザ映画の登場人物を思い出させる。正確に言えばサウナに入って来た男性は背中が未完成で、観音の顔はまだ淡い線彫りであった。それで止めたのではなく、現在少しずつ入れている段階だろう。そういう男性が玄関前の警告ステッカーを無視して入って来るのは勇気がある。あるいは、「風風の湯」はたいていとても空いているので、見られても数人と思ったのかもしれない。その日は午後5時頃で、比較的混んでいたが、誰も刺青を凝視する者はいない。ましてや、「あのお、ここは刺青禁止ですけど」などと話しかける者は絶対にない。それを言うと、「何を!」と食ってかかられるかもしれないという恐怖があるからだ。そのために温泉は刺青を禁止している。気分よく入りたいからだ。筆者が思い出したのは、息子が2,3歳の頃によく見せた絵本だ。福音館の名作の1冊で、言葉抜きで銭湯の様子を描いてある。それは子どもに銭湯でのルールを教えるのに役立つ。その絵本で目を引くのは刺青を入れた男が描かれることが。その刺青をきょとんとして見つめる子どもがいるが、刺青禁止ではないので、大人は誰も注目しない。昔はそうであった。筆者が子どもの頃に通った銭湯でもたまに全身刺青の男が入って来たが、誰も気にしない。それがいつから刺青禁止になったのであろう。暴力団という言葉が有名になってからだろう。刺青は大っぴらに見せるものではないという意識が広まった。銭湯やサウナで広められたと言ってよい。では、すでに入れてしまった人はどうするか。自宅で入るしかない。あるいは堂々と銭湯を利用するか。それには注意される心配があるが、その心配より、悶着が起きるかもしれないという心配の方が大きい。銭湯側はいちおうは注意するかもしれないが、裸になったばかりであるのに出て行くのはばつが悪い。それで「何を!」と言う。すると銭湯側は警察に伝えるしかない。そうなれば事が大きくなる。
「風風の湯」のサウナ室では4人が5分ほど黙ったままでいたが、筆者側に扉があってガラスが嵌め込んであって、そこに係員の若い女性がたくさんのタオルケットを抱えてやって来たのが見えた。下に敷くのを交換するのだ。その作業は2時間置き程度に行なわれる。乾いたものに代える間、全員一旦外に出なければならない。刺青男も出た。そして5メートルほど先の露店風呂に向かった。その時に背中の刺青が未完成であることを知った。筆者は扉のすぐ外で待ち、交換終了直後にまた同じ場所に陣取った。刺青男がまた入って来るかと思うと、露店風呂に入っていて時間も短く、そのまま脱衣場に向かった。筆者はそれまでサウナに30分ほど入っていたから、刺青男がサウナを利用したのはわずか5分ほどであったことがわかる。つまり、彼はそそくさとして入って来て、そそくさとして出て行った。タオルを交換するのにサウナ室に入ろうとした女性は、最後に出て来た刺青男に目が点になったようだ。彼女の背後から彼女を見ていたが、首の回転具合が、不思議なものを見るようであった。あるいは、注意しようかどうか一瞬迷ったという雰囲気がありありと伝わった。もちろん彼女は注意しなかった。悶着は嫌だからだ。注意しても気まずいだけだ。まさか食ってかかられることはないだろうが、男の虫の居所が悪ければそれもわからない。結局見て見ぬ振りだ。一番あり得ることは、誰かがこっそりと係員のところに行き、「刺青禁止ではないのか。あの男に注意しろよ」と言うことだ。支配人ならばその声を無視出来ないだろう。ネット社会であり、悪い評判はすぐに立つ。そして禁止しているものを黙認することは悪とされ、それを指摘するのは正義とされる。そのため、最初から刺青禁止のステッカーを貼って、刺青を入れている人に理解してほしいと考える。だが、全身に刺青を入れるような人はそういう常識が通用しないかもしれない。「風風の湯」は銭湯とは違って脱衣場はずっと奥にあって、そこにはめったに係員は入って来ない。そのため、咎められる可能性は低い。それを知ったうえで刺青男は入ったのだろう。それでも長居せずに、そそくさと出て行ったのは恥ずかしいというより、悶着を嫌ったからだろう。刺青OKにすると、その評判を聞いてそれこそ毎晩のようにたくさんの刺青男がやって来るかもしれない。それでは一般客が減少するが、ひとりやふたりなら別にいいではないか。誰とも目を合わそうとせず、それなりに刺青男も気にしているようであった。さて前置きが長くなった。一昨日松尾橋バス停で撮った写真を載せる。白いスミレだ。2,3か月前、このスミレが育つ場所がすっかり清掃され、葉がむしり取られていたことを書いた。それで全滅と思っていたが、根が地中にしっかりと残っていたようで、早々と写真のように満開になった。右京区の天然記念物にしたいほどだが、ほとんど誰も気づいていないだろう。気づけば根こそぎして持って帰る人があるかもしれない。アスファルトで囲まれたほんのわずかな土の露出から生えていて、逞しさと健気さの権化だ。「スミレ」は「墨入れ」が由来だったと思う。「墨入れ」は刺青で、それを紫と昔の人は見た。白のスミレは語義が矛盾するが、通常の紫のスミレは全身刺青を入れた人で、白スミレは真っ白な肌だ。「梅雨時の白い花」と題して2年前の夏に10数回投稿した。その先駆けとして今日の白スミレは位置する。そう言えば、もう梅雨のような天気で、今日は終日雨であった。日曜日というのに一歩も外に出なかったが、桜はどうなっているのだろう。週末に大阪に出て桜を楽しむつもりでいるが、今週はまだ雨天の日が数日あるらしく、週末にはすっかり散っているかもしれない。