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●長楽寺、その1
笑混じりに聞こえるのが中国語で、3月末日、円山公園の桜を楽しむために訪れていた人たちの半分は中国人であったように思える。昔は西洋人が目についたが、今はアジア人の観光客が多い。



●長楽寺、その1_d0053294_2371661.jpg

八坂神社前のローソンで信号待ちをしていると、背後で笑う中年女性数名がいて、黄色い旗を掲げた引率者がそばにいて、ほかにもそのツアー客が周囲に何人かいた。話す言葉に耳をそば立てると中国語ではなく、東南アジアのどこかの言葉のようであった。タイ人ではないような顔立ちで、ではどこかと言えば、わからない。ともかく、今の京都は観光客でいっぱいだ。東京もそうらしく、ビジネス・ホテルが一泊3万円でも満員になると昨日のネット・ニュースで読んだ。そんな状態では筆者らがどこかに旅行しても泊まる施設の確保が難しいかもしれず、今春は遠出をしないことにした。それでは家内が不満なので、近場を花見に近日中に出かけるつもりでいる。今日は3月31日に円山公園の枝垂れ桜を見た後に言った長楽寺について書くが、写真をたくさん撮って来たので、数回に分けて投稿する。この寺に行くためにその日は出かけたのではなかった。予定では清水寺まで歩くつもりであったが、家内が渋った。それで喫茶店の長楽館の前まで行ったところ、急に長楽寺に行ってみる気になった。実はここ10年ほど、ずっと気になりながら、機会がなかった。家内はこの寺のことは知らないから、筆者が東山に向かって坂を上って行くのを10メートルほど遅れて搗いて来た。一直線だ。左手は円山公園で、桜が点在し、人もたくさんいる。坂道は公園より3,4メートル高く、終始見下ろす形だ。円山公園は明治になって少しずつ造られた。それ以前は真葛ヶ原と呼ばれて、葛が生い茂る原野で、池大雅が妻と書画三昧で暮らした小さな家があったりした。今ではほとんどその面影はないが、何百年も前のままというのが、寺だ。その代表格が長楽寺で、筆者がその名前を知ったのは、そこで今も売られている素焼きの布袋像だ。それを教えてもらったのは、山崎在住のMさんで、円山公園奥にあると聞いてぴんと来た。長楽館だ。それはかつて男爵が暮らした洋館で、宿泊施設を伴った喫茶店になっているが、そこに初めて入ったのは20歳であったと思う。それ以降円山公園を訪れるたびに入ったが、ここ10数年は御無沙汰している。先日その前まで行くと、相変わらずの客の多さで、その繁盛ぶりを見れば今後もそのまま経営が続けられるだろう。長楽館と名づけられたのは、その東の突き当りに長楽寺があるからだ。また、男爵はその土地を長楽寺から買ったのかもしれない。この寺は円山公園の大部分を含み、また大谷廟建設のために境内を割かれたというから、東山を代表する大きさであった。それが今は旗地となって、円山公園と大谷廟に挟まれた車一台が通行可能な細い坂道である参道と、山門奥の山手の境内を残すのみとなった。そのため、その坂を上って行く人はほとんどおらず、当日も筆者らのみであった。正確に言えば、若いカップルがいたが、彼らは山門を潜らず、その前を左手に向かって山道を北上して行った。女性が半ば嫌がっていたので、男は藪の中で彼女を抱きたかったのではあるまいか。そんなことが出来るほどに人影がなく、すぐ下の円山公園とはあまりに対照的な静けさであった。
●長楽寺、その1_d0053294_2373215.jpg

 もう少し言えば、山門の30メートルほど手前の大谷廟出入り口の前で大柄なヒスパニックの男女数人がへたばっていた。廟に入るのでもなく、また長楽寺に関心があるのでもなさそうで、座るのにちょうどいい石の階段を見つけたのでしばし休憩しているというふうであった。彼らを尻目に山門に着き、家内を待った。その間に写したのが最初の写真だ。境内案内図の大きな看板が山門左手にあって、これがとてもよく出来ていた。現在地は赤い矢印で記されていて、そこにこの看板を縮小した図が描いてある。その小さな看板の中にも現在地を記す赤い矢印があるはずだが、さすがそこまで細かくは描いていない。それはわかるが、そういう遊びをするほどにこの看板はリアルに表現されていて、拝観してみようという気を起こさせる。山門を入ってすぐに拝観料500円の立て看板があった。家内はそれが不満で中に入らないと言うが、せっかく長楽館前から200メートルほどは坂道を歩いて来たのであるし、また次の機会となると10年後かもしれず、入ることにした。家内にすれば筆者がなぜこの寺に来たのかわからないが、いつものごとく理由は言わない。それに筆者としてもその理由がさして目的でもない。未知なることを体験したいことが目的で、何に出会うかわからない。だが、境内案内図の看板を見ると、それなりに見物がたくさんありそうで、そのことを看板の前で家内に力説した。こうした支払いはいつもすべて家内で、家内は筆者に1000万円は貸しているといつも言うが、実際そのとおりだ。それでも筆者は「つけといて」を繰り返し、家内に返したことはない。夫婦で稼いだ金は夫婦のものと思っているからだが、実際は預金通帳は別々だ。それでもほとんどの出費は家内の財布からで、筆者は使うのが専門になっている。では家内が稼ぎ専門かと言えば、1年前に退職したので、今はふたりとも無収入で、預金は目減りする一方だ。それでも呑気を貫いている筆者で、時に家内はそれが不満で、拝観料の1000円でも文句を言う。それに筆者が真顔になればそれこそ精神衛生上よくないので、とにかく今を楽しもうとしている。それが長く楽しみながら生きられる秘訣で、何事もあまりくよくよしないことだ。何度も書くが、筆者らの数十倍もの収入がある人でも幸福に見えず、いらいらした顔をしている。足るを知らないからで、小金を貯め込むほどにそうなる。先に池大雅のことを書いたが、大雅夫婦の絵が売れるようになって、金が貯まり始めた頃、その金を壺の中に無造作に放り込んでいると、ある日それが泥棒に奪われた。それを知った夫婦は笑い合ったというが、それほどの境地に今はどれだけの人がなれるだろう。安田靫彦の絵に、西行を描いたものがあって、西行が歩む方向とは反対に、小さな貧しい子が銀の置物を抱えて走り去る。その高価な置物は西行が与えたもので、それほどに金に執着がなかったということだが、その絵を昔画集で見て、その西行の表情が今でもはっきりと思い出せる。また、西行と子どもであるので、体の大きさは何倍も違うが、絵から受ける印象はもっとで、西行が巨大に見える。西行にしても大雅にしても、金の使い方を知らなかっただけと見る人もあろうが、金に執着するあまり、もっと大切なことを忘れてしまうことの恐さがある。
●長楽寺、その1_d0053294_2374433.jpg そのもっと大切なことも金なくしてはかなわないと言う人に対してはどう応えよう。その必要はなく、相手にしないことだ。金の話になったので書いておくと、さきほど家内はイギリスで1億数千万円の宝クジに二度当たった人の話をし、「宝クジを買って当たればいいのにね」と言った。それに対して筆者は「別に当たった人がうらやましくはないし、今の生活で充分」と返すと、笑顔でうなずいた。今考えるに、1億数千万円が転がり込むと、やはり筆者は使い道がない。あるいは全部絵画を買うだろう。数千万円の絵が2,3点だ。それを手元に置きながら余生を過ごす。経済的に困ってもたぶん売らない。そして、数千万円も出さずとも、いい絵はいくらでもある。話を戻して、山門は小型ながら立派で、「長楽寺」の名札の金文字がよく似合っていた。入って10数メートル左に受付窓口があって、住職らしき貫禄のある70代の男性が境内図を印刷した紙を示しながら、順路を説明してくれた。その紙にしたがって歩き、寺にいたのは40分ほどだ。2枚目の写真は帰りに撮ったが、順路から言えば2番目に提示するのがよい。拝観料を支払った場所から2メートルほど先に写真のように素焼きの布袋像を大小2体並べた小さな祠状の箱がある。小が500円、大が1000円であったと思う。土産としては安い。筆者はどちらも所有するが、この布袋が長楽寺で販売されるものであることをMさんに教えてもらった。筆者はこれとは別に同じ焼物ながら、臙脂茶色の小さな布袋坐像も持っている。それは長楽寺ではなく、もっと南の、先日涅槃会を開いた東福寺の開山堂にある布袋さんを縮小した土産ものだ。ただし、今も売られているかどうか知らない。筆者は開山堂には行ったことがなく、ある人からその土人形を譲ってもらった。長楽寺で素焼きの布袋像を売るようになったのはいつ頃からか。これは古くから伝わる土製の布袋像をそっくり模して焼いたもので、その本物の布袋像がどこに展示されているのかと思ったが、収蔵庫やまた寺宝を展示する拝観所の建物の中にもなかった。東福寺開山堂の布袋もそうだが、焼いたものではなく、土をこねたままで、壊れやすいとの理由で普段は展示していないのかもしれない。どちらも聖一国師が作ったものとされ、それが正しければ13世紀のものだ。寺でもらった由来書によれば、長楽寺は桓武天皇の勅令、伝教大師の開基による805年の創建で、古さに驚くが、それほど歴史があれば寺宝がいろいろとあるのは当然だろう。だが、収蔵庫はあまり大きくはなく、国宝は所有しない。本尊は秘仏で、厨子の中に収められ、由来書には「歴代天皇ご即位のときのみご開帳しております」と書かれている。これは即位したその日限り、誰でも拝観出来るとの意味であろうか。そうだとしてもめったに見られない。庭に面した拝観所は座敷がいくつかつながり、詩仙堂を思わせたが、畳がかなりぶかぶかとして、老朽化が顕著だ。拝観者がとても少ないので、どう財政を成立させているのかと思う。すぐ南の大谷廟の広大さと比べるといかにも日陰にあるようで、先の金の話で言えば、慎ましやかに満ち足りている雰囲気で、「長楽」の名と釣り合っている。あるいは、「長楽」であったために、境内を著しく削られながらも今なお健在で、布袋の坐像も哄笑し続ける。3、4枚目の写真は次回説明する。
●長楽寺、その1_d0053294_238082.jpg

by uuuzen | 2015-04-03 23:59 | ●新・嵐山だより
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