●『法隆寺金堂壁画写真原板展』
災を予想した人が少しはいたかもしれない。虫の報せということがある。一昨日は韓国で個人が所蔵する国宝級の文物が火事で燃えたというニュースがあった。鉄筋コンクリートの大きなマンションでも火事に遭えば中にある家財は使いものにならない。



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それでも火を出さないようにすることは昔ほどには気が使われなくなっているのではないか。消火器や火災警報器など、昔より火事を防ぐ準備が整っているという思いがあるからだが、相変わらず火事は毎日どこかで生じている。筆者が恐いと思うのは漏電だ。古い住宅ではそうなりやすい。昨日はステレオのアンプのスイッチがオンになったままであることに気づいたが、1週間近くつけっ放しにしていた。これを書く机からリモコンで操作するが、6メートルほど距離があって、液晶文字盤がよく見えず、それで消したと思っていた。アンプの上部を触ると熱かった。真夏であれば発火していたかもしれない。高齢者が自宅の火災で命を落とすのは電気器具のスイッチの切り忘れが多いのではないか。法隆寺金堂壁画が火事に遭った原因は、模写作業中の電気座布団のスイッチの切り忘れが原因かもしれないとされているが、寒い金堂内部で一晩くらいつけっ放しにして発火するだろうか。あるいは昭和24年のことで、電気座布団の品質があまりよくなかったのかもしれない。模写は絵具の剥落がさらに進む前にしておこうという考えにより、まさか燃えることは予期しなかったであろう。700年代から800年代に描かれたもので、それが1000年以上も同じ場所にあったのに、電気座布団が使えるような文明になって燃えてしまった。壁画を描いた人たちはまさか内部から出火するとは思わなかったであろう。蝋燭しかない時代であれば、火事を起こさないように誰もが火の始末に気を配ったが、電気時代になってその意識が薄れた。便利なものが登場しても新たな油断も一緒に生まれる。法隆寺の壁画が焼けた時、筆者は生まれていなかったが、その壁画に描かれる観音菩薩が10円切手の図案であったことはよく覚えている。一方、茶色でニホンカモシカが描かれた8円切手もあって、これは封書でも上部の一部を切り取り、しかも中に印刷物を封入した場合に使った。筆者が10代半ばまではそうして送ることが出来たが、封書が5割値上げの15円になった時になくなったと思う。10円切手に法隆寺壁画の観音が選ばれたのは、筆者が生まれた昭和26年だが、2年後に銭単位の0ふたつが消えた新たな印面のものが発売され、筆者が記憶するのはそれだ。母がよく手紙を書いていて、切手には幼少時から馴染んでいた。つまり、筆者が最初に強く記憶した名画は法隆寺壁画の観音の顔で、10歳の時には10円切手は派手な濃いピンク地の桜の図案に変わり、それが蓮っ葉に思えた。ずっと観音の図案でよかったのに、60年代という新たな時代に際して日本は心機一転を強く意識したのだろう。また切手の話になったが、今日はTVニュースで知った小さな展覧会について書く。先月22日に京都の便利堂で見た。日曜日でもやっていて、女性の係委員が親切にどのような質問にも答えてくれた。展覧無料で、しかも撮影は許された。3枚撮影したが、それでほぼ全景を収められた。出品物について説明した8ページのパンフレットは興味深い資料で、去年夏にMIHO MUSEUMで開催された『二つの綴織』に展示された法隆寺壁画の全面模写の記憶と合わせるために同展の図録に挟むことにする。
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 もらって来た資料からかいつまんで書くと、便利堂が本展を開催したのは、昭和10年に原寸大で撮影した写真のネガ(ガラス乾板)がこのたび重要文化財の指定を受けたことと、撮影から80年、便利堂の写真工房、コロタイプ工房が開設されて110年になるからだ。文部省が『法隆寺国宝保存事業部』を設置したのは昭和9年で、壁画保存とともに原寸大写真を撮影することになった。前者は明治35年(1902)に決定され、実際の作業は昭和14年(1939)から始まり、撮影の方が早かった。撮影は便利堂に一任されたが、今日の最初の写真は撮影のために誂えられたセットの3分の1の模型だ。実際はレンズから壁画までの距離は90センチで、40秒から2分の間でシャッターを切った。テストを経て、6人が昭和10年8月から75日携わった。連日撮影し、原板を京都に持ち帰って夜中2時から現像した。昭和10年は盧溝橋事件の2年前で、まだ日本は平和であった。よくぞその年に撮影したものだ。もう数年遅ければ乾板が入手出来ず、またその他の物資も不足して、撮影どころではなかったであろう。また、当時コロタイプ用の撮影は技術的には完成していて、そのためにも法隆寺壁画を撮影しておこうという考えが生まれた。分割撮影したものをつなぎ合わせると、つなぎ目でずれが出るのではないかと思うが、大型カメラに大型の乾板であるから、その心配はなかったのであろう。カメラに興味のある人はそういうところを知りたいと思うが、そうした技術的なことについて触れた本があるかもしれない。現在のデジタル撮影によればもっと簡単にもっと精彩な画像が得られるだろうが、アナログとは一長一短であろう。戦時中は撮影されたガラス乾板は大原三千院に疎開させるなどしたそうだが、昭和24年の罹災を機に、万全を期するために東京国立博物館の委嘱でもう1組の複製乾板を作って納入し、オリジナルは法隆寺に新設された壁画資料収蔵庫に保管されて来た。乾板は永久保存するために約1センチ厚のガラスに張り替えられ、膜面の上からセロファンで覆って酸化を防いでいるため、現在でも非常に良好な状態にある。撮影は、原寸大モノクロ写真が363枚、赤外線写真が20枚、そして法隆寺の反対があったが、便利堂は独自に4色分解による原色版撮影を、12の全壁画に対して全紙版で行なった。全紙版とは50×60センチで、そのサイズに高さ3メートルほどの壁画全体を写すので、原寸大撮影よりかは粒子が粗くなる。法隆寺が反対したのは、撮影のために200ワットの電球を10個同時に灯すからで、壁画が損傷するとの思いからだ。だが、4色分解すなわち4枚で1枚の原色版となる写真を撮っておいたことは、壁画消失後の模写に大いに役立った。撮影のためにイギリスにガラス乾板を発注したが、全紙版50ダースで、あまりの大量注文に間違いではないかとの照会があった。50ダースは600枚で、撮影にはそれを全部使わなかった。モノクロ撮影では363枚、原色版や赤外線撮影に67枚で、これには中版や半切が含まれる。赤外線撮影にはフィルムも使われ、それは16枚だ。撮影に要した費用の書類があって、総額16510円となっている。
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 昭和10年の物価を現在と比べる必要があるが、封書の郵便料金は当時3銭で、今は82円であるから、22733倍だ。したがって約4500万円となって、妥当な金額ではないだろうか。ただし、これは撮影後の焼付をつなぎ合わせた原寸の軸装2組と分割のまま1組を含む。そして、焼付では変色の恐れがあり、コロタイプで刷ることが昭和11年に文部省で検討された。これは国産のインクの開発から始まり、越前で特別に漉いた雁皮紙を使った。コロタイプ印刷は便利堂の得意とするところで、2006年に投稿している。早いもので、今回は9年ぶりに同社を訪れた。コロタイプの詳細については同投稿に譲るとして、コロタイプで原寸大に刷るには、資料によれば「莫大な制作費」とある。それで複数作って頒布することになり、昭和13年までに12壁20数組が完成し、国内外のミュージアム、大学などに収蔵された。本展では最初に刷られた試作のうち、6号壁画の掛軸が展示された。全部を見せるには天井が低いので、中央部のみとなったが、最初に書いた10円切手の図案の観音菩薩を間近に見ることが出来た。それは今日の3枚目で、写真右にその観音の顔部分のみの原色版印刷が展示されている。前述のように、その原色版は6号壁画全体を全紙で撮影したもので、それを引き伸ばして原寸大にしているので、モノクロのコロタイプ印刷による大きな掛軸と比べると、鮮明さは劣る。なお、この試作は9年前にも見た。便利堂では長年展示し続けて来たようで、和紙の焼けが認められるが、画像はしっかりと残っているという。去年MIHO MUSEMUで見た12壁全部の模写は、本展の係員の女性に訊ねたところ、前述の20数組の原寸大コロタイプ印刷の掛軸を参考にしているのではないかとのことであった。また、昭和14年に始まった壁画の模写は、入江波光、荒井寛方、中村岳陵、橋本明治を中心とした16名が、コロタイプ複製を下図にして壁画を見ながら描く方法が採られたが、入江班はコロタイプの上に和紙を置き、透かし写しし、他の3名の班はコロタイプ印刷された和紙の上に胡粉を塗ってから彩色した。それらの作業が終盤に差しかった時に火災に遭った。翌25年に文化財保護法が制定されたが、最初に書いた法隆寺壁画の観音の10円切手の発売は、この法律の制定から1年半ほど後で、壁画を失ったことが文化財保護の意識の高まりにつながった。金堂は昭和29年に再建され、昭和42年に再現模写が始まり、昭和14年の模写と同じ方法が採られた。また、前回の模写も参考にされたが、それはどこで見ることが出来るのだろう。その焼けることのなかった模写を差し引いた分のみを昭和42年に模写してもよかったと思うが、縁起が悪いと考えられたのだろうか。携わった画家は安田靫彦、前田青邨、吉岡堅二、そして前回も参加した橋本明治の4人を含む14名が約40名の助手を使った。1年で完成し、火災から20年ぶりに金堂は元の姿を取り戻した。『二つの綴織』展で展示された原寸大模写は、6号壁画以外は菩薩の顔などに損傷が目立った。剥落した箇所を想像して復元すればいいとの考えもあるが、1000年前の雰囲気を調和させることには無理があるだろう。現在の画家は現在の雰囲気を描いてしまう。それでいっそのこと現在の画家に全部新たに描かせ、1000年保存し続けることもいいが、大切にし続けても予想しない出来事で失ってしまう。そして、大切にされるのは、製作から数百年経ってからであって、その頃にはかなり損傷している。罹災を心配してどんなものでも複製しておくに限るか。デジタル時代になってそれは便利になったが、簡単に複製出来るものは、一瞬で消える恐れも抱える。それに、複製を作る価値のあるものがどれほどあるかだ。
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by uuuzen | 2015-04-02 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON | Comments(0)


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