痰壺が駅のプラットフォームの柱のそばに置いてあったことを覚えている。筆者が4,5歳の頃と思う。大阪の環状線の京橋駅だ。琺瑯製で、母に何かと訊ねた。痰を吐いて入れる容器だと教えられたが、大人はよく痰を吐くのかと思った。

公共施設で痰壺が消えて行ったのはいつ頃からだろう。筆者が中学生になる頃にはもうなかった気がするから、東京オリンピックがきっかけではなかったか。痰壺がなくなると、痰は道端に吐かれるかと言えば、人々のマナーの向上と、痰を以前よりは発生させないように空気がきれいになって来たのか、あるいは摂取される栄養が改善され、また痰を防ぐ薬もたくさん出て来たことによって、痰壺の設置は必要なくなったのだろう。それと同じことはゴミ箱だ。危険物がそこに入れられることもあるとの理由もあって、駅を初め、ゴム箱が少なくなって来た。嵐山もそうで、観光地がゴミだらけになるのを防ぐには、ゴミ箱を置かないようにすればよいという逆の発想が採用されるようになった。ゴミは自分で持って帰れというわけだ。痰が口の中に湧き上がれば、ブルーな気持ちで飲み込むか、トイレに駆け込んで吐くしかない。それはさておき、今日取り上げるブルース曲を歌うアメリカの黒人歌手のボビー・ブランドは、しばしば痰を吐くような、あるいは軽くうがいをするような音を発する。それがトレード・マークになっている。その音から汚さを連想する人は彼の歌声を好まないかもしれない。それに、美男子を好む人はボビーの独特の貫禄ある顔を見ただけで、別世界の人種と思って拒否感を覚えるのではないか。去年4月末にJJ・ケールのバンドに長年在籍していたクリスティン・レイクランドの曲を取り上げ、またYOUTUBEで紹介されている1987年のスタジオ・ライヴの様子についても書いた。彼女は1954年生まれらしく、87年では33歳で、なるほど年齢相応の姿に見える。JJ・ケールと一緒に演奏している姿でもっと若いものに、レオン・ラッセルを加えたスタジオ・ライヴもあって、それは1979年で、クリスティンは25歳だ。JJ・ケールは16歳上の41歳で、今の筆者から見ればとても若い。それはいいとして、クリスティンの87年のスタジオ・ライヴは筆者が見始めた頃はアクセス数が200台であったのが、現在は8340で、1年で8000ほどという数字は少ない気がする。ま、彼女の知名度ではそれは仕方ない。筆者には彼女の演奏する姿はとても恰好よく、セクシーに見えるが、もう一方で思うのは、彼女好みの男性像だ。JJ・ケールとその後結婚するので、ブルースの演奏家が好きであったのはわかるが、白人である彼女はやはり白人を選んだかという気がする。ブルースを黒人だけのものと言ってしまうと偏見と思われるが、個人の好みを言うことは勝手であり、黒人が演奏するブルースしか認めないと主張する人がいてもいい。黒人のブルース演奏者が白人のそれを好むこともあるだろうが、概して白人が黒人を崇拝する場合の方が多いのではないか。それは黒人が何と言ってもブルースを生んだという本家の貫禄を感じるからで、黒人からすれば白人のブルース・メンはいつも自分たちから剽窃して来たと思うことが多いだろう。それは、剽窃しておきながら、金をたくさん儲けるのは白人の方であるという恨みも混じっているだろう。それでもブルースをやるしかないような黒人ミュージシャンは自分の仕事をし続けるしかない。そこに、ブルース本来の悲哀さが出る。そして、その悲哀さは何も搾取される立場にある人だけが感じるものではなく、人間ゆえに逃れ得ない感情で、それをブルースが歌い上げるとすれば、黒人も白人もない。実際、前述のように黒人のブルースをいつも白人が模倣し、うまい具合に洗練させて白人から人気を得るという図式ばかりではなく、いい曲であれば黒人も白人も関係なしに愛されるだろう。
さて、WIKIPEDIAによればボビー・ブランドは1930年生まれで、2013年まで生きた。50年代から歌い始めたというから、60年ほど活躍した。レコードは61年の『TWO STEPS FROM THE BLUES』 が最初のようだが、筆者はそれと74年の『DREAMER』しか持っていないので、YOUTUBEをよく聴いているが、ボビーの声は聴くほどに味があり、またどのアルバムもきわめて時代をよく体現していることに驚く。たとえば66年のアルバムは筆者はビートルズの『REVOLVER』と比べてしまうが、確かにビートルズの同アルバムは1966年を代表する作品に思える一方、当時筆者が知らなかっただけで、36歳のボビー・ブランドは彼なりに格好いいアルバムを出していたことに感心する。しかも、現在の筆者の年齢からは、ビートルズの同アルバムを聴くより、ボビーの歌声の方が身に染みる。そこには、ボビーがビートルズと比べて時代遅れの音楽をやっていたという思いは全くなく、前述のように、むしろ66年という時代をビートルズ以上に実感させるほどだ。66年当時、ビートルズを熱烈に聴く者がいた一方で、ボビーのアルバムに心酔していた人もいて、良質なものはあらゆるところに存在していたのだ。そのことはビートルズしか聴かないでは実感出来ない。誰の音楽をどのように聴くとも自由で、生涯ビートルズしか聴かない人もいるだろう。だが、筆者はそこまで偏執的ではない。実は今月の曲を何にしようかと悩みながら、ブルックナーとボビーを交互に聴いていた。それが後者になったのは、去年4月末にクリスティンのブルース曲を取り上げたからかもしれない。春はブルースに似合うということか。筆者にとってそれが事実であれば、来年の3,4月もブルースをしきりに聴いているだろう。今日のような5月さながらの陽気であれば、心がブルースを欲するのはおかしいと言うべきだが、今日は円山公園などで満開の桜を見ながら、ボビーの歌声ばかりを思い出し、また口ずさんでいた。桜が満開になって悲哀を覚えるのはおかしいか。そうとは言えない。満開の桜は花見、酒盛りを連想させ、その後には2,3分の短いブルースが浮かび上がらせる。満開の桜は豪華なようだが、どちらかと言えば安っぽい花だ。そのため、ブルースが似合う。ブルースを聴かない人にとっては演歌かもしれない。ボビーは楽器を演奏せず、歌専門で、その点でも日本の演歌歌手を連想するのは当然だろう。そしてボビーは日本の演歌歌手のような人気があったのではないだろうか。『DREAMER』のジャケットは煙草の煙をくゆらす44歳の姿だが、その顔を見ればどのような図太い歌声かは容易に想像がつくはずで、熱狂的なファンがいたこともわかる。そうでなければ60年もの間歌い続け、多くのアルバムを出し続けることは出来ない。それにブルース・メンは早死にが多いのに、83まで生きたのは、恵まれた体力があってのことは当然として、摂生を続けたからであろう。

筆者が『DREAMER』を買ったのは、今日取り上げる曲「24時のブルース」をクリスティンが87年のスタジオ・ライヴでカヴァー演奏しているからだ。つまり、去年の今頃に知った。クリスティンの演奏がとてもいいので、原曲を探すと、ボビーが歌っていることを知った。クリスティンの演奏は『DREAMER』から13年後で、彼女はどれほどボビーのアルバムを熱心に聴いていたかと思わせる。ボビーのファンであることと、また「24時のブルース」が特に好きであったのだろうが、その彼女がJJ・ケールと仲よくなって行くのは、ボビーに感じるあまりの男臭さと、ケールの物静かな優男ぶりとをどう比較していたのかと、女性の男性観を想像させて面白い。ブルース好きなクリスティンは、否応なしに黒人の魅力に曝されたはずで、ブルースを演奏すると同時に、黒人のブルース・メンの本質に嵌り込んだであろう。そのことがクリスティンの一種怪しい魅力になっていて、それを筆者は去年YOUTUBEで87年のスタジオ・ライヴで感じた。もう少し言えば、女性はどういう男に魅せられるかだ。女も男もさまざまで、そのために世界は釣り合っているが、一方では釣り合っていないところが常にあって、持てる男や女とそうではない男や女がいる。クリスティンがボビーのような男と結婚せず、JJ・ケールを選んだ理由は彼女に訊いてみないとわからないが、ボビーの曲をカヴァーして切々と歌っている様子は、その曲が好きというレベルを超えて、ブルースの世界、そしてボビーの歌声にどっぷり浸っていることを感じさせ、彼女の色気がぷんぷんと伝わって来る。ブルースは色気で、ボビーは男としてのそれを爆弾級に発散していた。好き嫌いはあっても、その事実は誰しも認めないわけには行かない。そして、ブルース・メンだけではなく、人間は結局色気ということを気づかせる。それのない者は何をやっても駄目で、そのことに気づくことがまず先決だ。『DREAMER』の中ジャケットを見て笑ってしまう。水着姿の若い黒人美女ふたりを前にして、お洒落な格好をしたボビーが嬉しそうだ。これほど正直な写真があるだろうか。若い美女と親しげに話し、世は春という気分で、歌を歌い続ける意味はそこにある。この写真を見ながら、筆者はボビーをJJ・ケールに、女性をクリスティンに置き換えたが、そこにはそれなりの男女の色気の応酬があるはずで、クリスティンは自分にふさわしい色気ある男と一緒になれて幸福であったと思う。16歳も齢が違えば、JJ・ケールが先に逝ってしまうのは仕方がない。さて、24時を2時間も過ぎてしまった。ボビーは自分でも作詞作曲したかもしれないが、筆者が所有する2枚はどの曲も他人が書いている。アルバムが録音年の雰囲気を醸すのは当然だが、ボビーの場合、楽器の演奏やアレンジが特別に流行を追っているというほどではなく、ボビーの声を引き立てるために背後で全員が演奏しているという感が強い。つまり、どこまでも主役はボビーの声で、その事実の前にあって、誰が作詞作曲したかは重要でない。どれもボビー色になっていて、それに一旦魅せられると、散歩していても頭の中に鳴り響く。それを言えばどのような音楽でもそうだが、声だけで人生を泳ぎ続けた歌手の歌声は特にそうで、日本の演歌歌手もそうだろう。
「24時のブルース」はいかにもブルースという歌詞内容で、英語が聴き取れない人が想像するのとほとんど違わないはずだ。クリスティンは多少言葉を減らしたり、変えたりして歌っているが、それほどに自分の曲にしている。また彼女は中間部でギター・ソロを奏でるが、ボビーは歌だけなので、より演歌っぽい。「毎朝起きてプールいっぱいの涙で泣く。お前が去って7日だが、7年のようだ。さびしさがドアにぶら下がり続けている。嫌な友だちほど失わないものだ。毎日が同じ暗くて古いことばかり。24時のブルース。さびしい数分が数時間になる。電話を待ち続けているのに、お前はかけてくれない。今夜もひとりで眠れないだろう。自分が自分でないようで、お前なしでいることは全く悪いニュースだ……」といったように続くが、演歌にもよくある失恋の曲で、こういう歌を10代が好きと言えば、大人はませた子どもだと非難するかもしれない。失恋は子どもでもあるし、時代や人種に関係のない永遠に繰り返されることで、そのために陳腐過ぎて芸術作品にはなりようがないと言うことも出来るが、失恋をただただ嘆いてやり過ごすしかないことは真実であり、こういうあまりに月並みなブルースに慰められる人はいる。博士のような人種はもっと別の失恋を忘れる高尚な方法を知っていて、こういうブルースを下品とみなすかもしれないが、人さまざまで、どんな人もさびしさを乗り越えて行かねばならない。そのためにどのようなものに助けを求めてもよく、また助けられないと思うのであれば、本曲のように7日を7年と感じるほどに悲しみに浸り続ければよい。悲しみのドン底にいる人が、たとえば本曲を聴いて慰められることはなく、しょせんこういう流行歌は悲しみから脱した心の余裕のある人が楽しむだけのものという見方がある。だが、どのような幸福にあっても、それを客観視出来るほどに人間は心に余裕があるもので、そういう余裕の中でたとえば本曲を思い浮かべれば、ボビーが一緒になって悲しんでくれているという思いになれまいか。そういうことも人さまざまで、誰もが筆者と同じように考えることはない。そのために、たとえば今日は阪急電車が人身事故で電車が遅れたが、飛び込み自殺するほど深刻に悩んでいる人に、ブルースを聴いて慰められることを提案しても無駄かもしれない。万能薬は存在しない。しかも2,3分で歌い終わるブルースは他愛のないもので、芸術と呼べるものではないだろう。だが、そんな存在であっても必要とされるから生き残って来ている。人間というものは他愛のない存在で、芸術の真髄に触れることは人生のほんの一瞬に過ぎない。そのことが、ブルースで形容され得る。人生はブルースだということだ。それがわかれば、格好よく生きたいと思うことだ。ボビーのようになるのは無理でも、誰でも自分なりの方法で、個性を磨くことは出来る。その磨きをボビーは60年やり続けた。