喚声が内心沸き起こったが、地面にはもうたくさん花が落ちていて、哀れさを誘う。今日は久しぶりに自治会内を歩いて一周した。大きなマンション横の小さな公園に濃いピンク色の一本の桜の木が満開の花を咲かせていた。
嵐山では一番気の早い桜だ。高さ4メートルほどで、梢近くに二羽の目白が花を転々として芯の中に顔を突っ込んでいた。しばらくそれを見て振り返ると、目の前に一眼レフのカメラを持った50歳ほどの西洋人の美女がいて、笑顔で筆者と筆者の後ろの桜を交互に見つめ、筆者が動き始めるのと同時に、桜の木を見上げるのにちょうどよい、筆者が立っていた場所に進んだ。1本でも桜が咲いていてよかった。たぶんその女性は観光客で、せっかくいい景色を求めてやって来たのに、桜がまだ開花していないとなれば、あまり思い出にもならずに帰国するだろう。それはさておき、桜を見上げながら風の冷たさに多少震えた。今日は冬に戻ったようで、せっかく満開になった前述の桜は、早まったと後悔しているかもしれない。あるいはどの木よりも先に満開になって、鳥がたくさん蜜を吸いにやって来てくれるので、それを見越しての真っ先の開花かもしれない。昨日はコートがなくても少し歩くと汗ばむほどであったのに、今日は10度も気温が下がって、「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉どおり、季節の変わり目のややこしい時期を実感させる。満開の桜をたくさん見て喚声を上げるのはまだ少し早い。その季節の変わり目にふさわしいかと思って今日はしつこくもまた近所の小さな植え込みの冬薔薇のそこ後の様子の写真を載せる。これを撮ったのは一昨日だ。今日はもっと変わっているかもしれない。なぜこの写真を撮ったか。
「その3」に書いたように、薔薇ではないかもしれないと思ったからで、一昨日は間近で確認した。「その3」に比べてめっきり多くなった葉は確かに薔薇で、「冬薔薇」であるのは間違いがなかった。また、この木は根元がかなり大きい塊状になっていて、本来はもっと枝も花も多いはずだが、あまり成長しないように毎年かなり切っているのだろう。花がすっかりなくなった後、葉がどのように増え、蕾がどのように出来るかを観察し続けると面白いかもしれない。そして、花がいつ咲くのかも関心がある。11月頃に開花するならば、8か月の間は葉ばかりで、その葉によって充分に陽射しを受け留め、開花のための力を得る。葉ばかりの状態を撮影しても楽しくないので、定点撮影するとしても夏の間は停止してもいいかもしれない。そしてひょっとすれば今日載せる写真が最も面白いのではないかと思う。花弁はどれもめくれ上がって、もう花としての役目は完全に終えているが、色がまだ残っているので華やかさはある。そして新しい葉がたくさん出て来ている。まさに今の時期そのもので、寒い冬が死んで暖かい春がやって来ることを象徴している。死と生の同居だ。悲しみもあれば喜びもある状態だ。今日は満開の一本だけ早々と満開になった桜を見たが、植物は季節や日照に正直に反応して生きている。同じ生物の人間にもそういうところがあるはずで、今の時期の人間はあれこれ考えさせられて多忙ではないだろうか。筆者はそうだ。そのことは最近のブログに表われていると思う。どこかおざなりな調子と内容ばかりを続けていて、腰が据わっていない。実際は机の前に座っている時間は長いが、考えること、やることが多く、ブログに熱中出来ない。それでも毎晩書くことに決めているので、こうして深夜になると文字を連ねる。それはそれで健気なことだ。こうして書くことが癖になっているとはいえ、集中力と連想力は必要で、また書くからにはそれなりに自分で楽しいものでありたいし、写真も必要だ。ま、今日の投稿は今日の写真のように過渡期的な内容との思いがあるが、それをいいことにどうでもいいようなことばかり書いている。そうそう、今日は数日前から待っていたことがあったが、届いた報せによれば願いがかなわなかった。その落胆もあって喚声が内心起こらず、はははは、ブルースばかり聴いている。鼻が詰まって息苦しいからなおさら。