錠がかかっていると入ることは出来ないからそのまま帰るしかないが、ガラスの扉を押すと動いた。しかも内部は蛍光灯が点き、司書もカウンターの向こうに座っているのが見えたから、てっきり開館していると思ったが、司書は利用出来ないと言う。
このことは1月の中旬の
「薔薇の肖像、その10」に書いた。京都市芸大の図書館で見たい本があったのだ。家内が検査を受ける病院から片道徒歩4000歩だ。往復とも歩いたのに、肝心の本は見せてもらえなかった。また日を変えて訪れてもよかったが、家内がその病院に行く次の機会は3か月後で、4月だ。それまで待てない。ではどうするか。同じ本は関西では大阪府立図書館にある。それがよく行く中之島であればいいのに、東大阪市の辺鄙なところにある本館だ。これも前に書いたが、地下鉄の中央線の東の最終駅である長田から次の荒本の最寄りだ。長田から向こうは近鉄は相互乗り入れしていて、1駅分払わねばならない。それで京都からの交通費は2000円ほどになる。芸大図書館であれば交通費は不要だが、わが家から病院まで自転車で走り、その駐輪場から歩くと4000歩だ。正確には4300歩ほどだが、きつい坂道でしかも殺風景なので歩く気はしない。司書は規則にしたがって筆者に利用出来ないことを告げただけだが、帰宅して確認すると、同図書館のホームページは、芸大というセンスを重視すべき大学であるにもかかわらず、お世辞にもわかりやすいとは言えない。それに、確かに筆者の訪れた日は利用出来ないとあったが、誰もが真っ先に見る、そしてそれしか見ない開館カレンダーには、利用可能とはっきりと記されている。つまり、当日は普段のホームページ仕様では利用可で、その普段どおりはそのままにして、画面の最下段に利用出来ない期間であることを小さな文字で書いてあった。○は○ではないということだ。帰宅後にそのことを確認し、図書館に電話してホームページの矛盾する記述を伝え、筆者と同じように間違う人がいる可能性があることを言ってやった。大きな図書館ではなし、筆者が見たい本はすぐそばにあったはずで、しかも筆者が見たい時間は2分とかからない。それくらいは融通を利かせてくれてもいいと思うが、決まりは決まりということだろう。それはわかっている。その決まりは時と場合により、融通が利くではないか。筆者が訪れた時は筆者と司書のふたりしか館内にいなかった。館内と言えばおおげさで、教室くらいの大きさもない。筆者と司書しか知らないのであれば、1冊くらい見せてくれてもいいのではないか。それが無理ならば、中から錠をかけ、しかも「本日は利用不可」の札でもぶら下げるべきではないか。そうでないから中に入って司書に訊ねたが、その途端に『なぜ入って来たのですか?』という顔をされ、また実際そのように言われもした。ともかく、融通の利かない司書という印象を持ったので、同じ図書館に往復8600歩を費やす気になれなかった。そこで荒本の図書館に行くしかない。目指す本は古書で安ければ2000円で買える。だが、ネットの「日本の古本屋」にはない。気長に待てば入荷するような本だが、気長に待てない。そこで、荒本の府立図書館に行って来たが、それは先月下旬のことで、写真を撮って来たのでそれを近日中に載せる。このことは何を意味しているか。目的がかなえられずに遠回りをし、その過程で目につくものがあったということだ。犬も歩けば棒に当たるで、たまには災難もあるが、災難に遭えば今度は塞翁の馬の故事を思い出せばよい。人間はそのように悪いことに遭遇すると、腹立たしさもあって、何か得ることもあったではないかと思いたくなる。そうでなければ落ち込むばかりで、楽しくないからだ。○が○でない場合があることを知っているが、次に別の○があることを思いたいのだ。荒本の府立図書館に行って写真を撮って来たことは、そうした○と言えるほどのことではないが、ブログの1日のネタになるほどには○で、そのささやかな○を見つけたいと思うほどに、1月中旬の芸大図書館での司書の応対はカチンと来た。
さて、今日はもう22日で、「○は○か」のシリーズを投稿する頃になっている。昨日でもよかったが、天王寺のイルミナージュが遅れるのはまずいかと考えた。「○は○か」は今日で20回目で、もうそんなになるかいう気がする。撮りためた写真がまだ10回分ほどはあるだろう。そのうちにまた写すので、当分は続けられる。このようにシリーズをたくさん作ると、投稿は楽だ。だが、新たなシリーズに見えて、その芽はブログを初めて5年以内にどれもあったものだ。それに気づいたのは、目下作っている年度ごとの投稿一覧ページだ。現在2012年5月まで終わっているが、改めてこれまでの投稿を順に眺めて行くと、現在やっていることの萌芽が出尽くしていることがわかる。これは、人間は変化するようでいて、本質が変わらないことを示している。自分では全く新しい何かを始めたと有頂天になっていても、それへの関心は昔に持っていたはずで、それに気づかない。一昨日は切株の写真を3枚載せた。その外形はきれいな円形ではない。それがそれぞれの木の辿って来た個性だろう。きれいな○ではないので○ではないかと言えば、どのようにひしゃげた切株の外形であっても、年輪はどの縁から数えても同じで、経験した年数は確実に記録されている。その意味では、例外はなく、全くの○だ。それはさておき、今日の3枚の写真は、1月中旬、芸大図書館に向けて往復8600歩を費やした中で見かけたもので、殺風景だと言いながら、何か写すべきものはあるだろうとの予感があって、カメラを持参した。それで2月に荒本に行った時と同じように、ブログ用の写真を得た。これは、図書館行きの本来の目的は○ではなかったが、ささやかでも今日の投稿に利用出来る写真が得られた点では○だ。駄目でも元を取るというのは人間の性だと思うが、大阪生まれは特にその傾向が強いかもしれない。今日の最初の写真は、大型古書店だろうか、ゲーム機も置いているような倉庫タイプの建物の側面だ。そこにロボットの顔のように見える丸窓がふたつ並び、内部に蛍光灯が点っていた。それがジャック・タチの『ぼくの伯父さん』の一場面を思い出させ、殺風景な道のりの途中で筆者をほんのわずかに微笑ませた。2,3枚目は帰りがけに見かけて撮った。マンションの壁だ。そこに写真のような大きな丸い穴が開けられていることはさほど珍しくはないようで、ほかの街でも見かけ、写真を撮ってある。だが、この国道9号線沿いのマンションは、内部の樹木がどんどんと成長して丸い穴から飛び出ている。それが面白いので撮った。飛び出た樹木は陽射しを浴びやすくなって、これからは成長は加速化するはずだが、歩道にもっとせり出すと苦情が出て、その時はばっさりと根元から切られて切株状態になるだろう。勢いよく成長出来る、これは○だなと思っていると、途端に急死だ。樹木も人も同じで、成長が目覚ましくなればもう危機が迫っている。それでも樹木も人も勢いに乗った時は恐いもの知らずで、どんどん伸びる。伸び悩み続けて少しも目立たないまま死を迎えるよりはるかにいいと言えるかもしれないが、どのような樹木でも際限なく伸びるかと言えばそうではない。身のほどというものがある。では今日の2,3枚目の写真の樹木はどれほどまで伸び続ける木なのか。2本は同じ木で、桐の種子のようなものが見えているが、1月には写真のように葉を多くつけてはいないだろう。桐なら15メートルから20メートルほどには伸びるし、また成長が早いから、マンションの管理人がうっかりしている間に大きな丸い穴から歩道へと伸び出したのだろう。だが、4月下旬から5月にかけて淡い紫色の花をたくさん咲かせて見栄えはよい。切られずにどんどん伸びてほしいものだ。太閤さんの象徴でもある桐を切株にしてしまうと、関西では祟りがあるかもしれない。切った方が○と思っても、物事はほかにも影響し、○ではなかったと思えることになり得る。そんなことを言えば、何が○で○でないかわからないではないかと言われそうだが、人生とはそういうものだ。○と思えば○、そうでないと思えばそうでない。であるので、○と思うのがよい。芸大図書館で目指す本を見せてもらえれば、荒本まで行かずに済んだが、人生は何度も遠回りしながら、その過程で収穫がある。その寄り道のようなことが人生の大部分を占めていると言ってよく、寄り道出来ている間は無事であり、それは○ということだ。今夜も玄関の錠前をしっかいかけたことを確認し、○な気持ちになって床に就く時間になった。