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●『最澄と天台の国宝』その2「展示物」
妹の家からは比叡山がまともに見え、東へ真っ直ぐに車で10数分も走れば山への登り口に到達出来る。



●『最澄と天台の国宝』その2「展示物」_d0053294_1275655.jpg京都市内に住む者にとっては、そんな身近な山が日本の仏教の母山とはさして思えないところがあるが、それでも鴨川のほとりに佇んで向こう側に比叡山を眺めると、周りの小高い丘と言った山並みから一際高くそびえていて、どことなく神秘的な雰囲気が伝わって来る。京都の手頃な大きさの街にはぴったりのサイズの山なのだ。これがアララト山ほどの標高があれば京都は今のような街になっていなかった気がする。坂本生まれの最澄にとっては標高848メートルの比叡山は自分の庭先にある最も高い山だった。そこに籠もって修行するような気になったのも、身近なところに適当な場所があった便利さが大きいのではないだろうか。最澄以前にも修行僧が比叡山を縦横に踏破して生活していたはずだが、山を越えればすぐに京都という便利さもあって、比叡山は目立った修行の場になったと思う。京都府下に比叡山より高い山として丹波丹後に3つ4つあり、滋賀では比良山地に1000メートルを越す山もあるが、高ければそれだけ修行の場によいということはないだろう。あまりに人里から離れ過ぎると、仙人の度が過ぎて、一般人とは無縁のどうでもよい勝手な存在になる。人が多く住む町が近くにあり、また仏教を庇護する天皇が住む場所に出来るだけに近いことが比叡山を仏教の山とした。山に籠もって過酷な修行を積んだ僧侶は、それだけでもありがたい存在で特別の能力を身につけた者とみなされることは昔も今もあまり変わらず、身分の高い皇族や貴族の人々がたとえば病に罹った時、修行を経験した僧侶に何らかの手助けをしてもらいたいと思うのも当然だ。そして、実際山に籠もって何年も修行した僧侶は町中のごみごみした空気とは無縁に心身ともに鍛え、薬草の知識やあるいは他人に対して精神的な支えになるような気迫といったものを持っていたであろうから、皇族や貴族階級と密接に関係を持つに至ったのはよく理解出来る。ギヴ・アンド・テイク的な関係がそこにはある。仏教も派閥があるから、僧侶は自分が信ずるものを拡大化させるための方策をいろいろと考え、権力のある者と結びつく。
 京都にもし比叡山がなければ最澄はどこで修行したことだろう。それに滋賀群を根拠とする渡来人系の最澄が坂本に生まれなければ天台宗はどうなっていたか。前者に関しては、東山三十六峰のもっと低い山に籠もったであろうが、そうなれば迫力に欠けて、最澄の霊験ももっと減じていて、天台宗は大きくならなかったかもしれない。比叡山は峻厳な山ではないがそれほど京都市内からは目立つ。また後者に関しては、坂本が最澄を生まなくても、その代わりとなるような別の人物を別の場所が生んだはずだ。結局は腐敗の噂が強かった奈良仏教に対抗して出るべくして出た人物で、それが最澄という名前で呼ばれている人であるだけのことだ。歴史に「もし」はないから、比叡山や最澄があって天台宗が今に続き、そして1200年記念の特別展覧会が京都国立博物館で開催されている。これは改めて考えてみてもすごい。そして素朴に思うことは、次に同じような展覧会が開かれるのはまた100年後のことかどうかだが、実は1986年に京都国立博物館は『比叡山開創1200年記念 比叡山と天台の美術』という展覧会を開催しているし、1994年には奈良国立博物館が『比叡山・世界遺産登録記念 比叡山・高野山名宝展』を開いている。つまり、けっこう比叡山の名宝展は観る機会があるということになる。だが、それでも今回のように大規模なものは2、30年に1回あればいい方であろう。そのためもあって仏教美術にあまり関心のない人でも観ておいた方がよい。仏像や仏画に興味がない人でも、それらが彫刻であり、絵画であることを思えば単に抹香臭いで片づけられない魅力を持ったものとして見えて来る。宗教で育まれた造形が世俗的な美術に影響を与えることは多々あるし、日本の宗教美術を考える時、仏教が最も豊かなな実りをもたらしたことは紛れない事実であって、これまたもし日本に仏教が渡来していなければ日本の美術はどうなっていたことかと思う。だが、現在の仏教とその美術を考えると、仏教がどのような状態にあるのかわかるような気がする。こうした展覧会で展示されるのは国宝や重文といったありがたい、そして何百年も前のモノであるのは常識となっているが、もし何百年後かにまた『最澄と天台の国宝展』が開催された時、相変わらず同じように古いモノを並べているとしたならば、それはもう仏教がその何百年の間、何も新しい造形を生む能力がなかったことを示し、完全に過去の遺物と化していることを無残にもさらけ出していることにてなるだろう。今回の展覧会では最後の部屋に蘆雪の『蝶夢騎牛図押絵貼屏風』が展示されていた。江戸時代後期の京都の絵師の作品が天台宗の寺に保存されているのは不思議でも何でもないし、それが今では寺の宝になっているのもいいことだ。だが、それはいずれ開催されるだろう蘆雪展に展示するのはいいとしても、天台宗に深く関係する美術品とは趣をことにするものであって、「こういう作品も天台系の寺にはあります」という宣伝になっているだけで、かなり違和感があった。だが、この蘆雪の絵の展示が示すものは大きい。それは何百年か後に『最澄と天台の国宝展』が開催された時、寺がその何百年かに所蔵した、天台とはほとんど何の関係もないような美術品が並べられるであろうという想像だ。そして実際その動きはもうとっくに始まっている。建仁寺法堂の龍の天井絵や、東寺のあちこちの建物に描かれている、写真を思わせる装飾的な日本画がそれで、そうした現代の作品がやがて寺の宝になって行くでのであろう。だが、そうした作品は仏教の強い信仰の中から生まれたものではないし、その分ほとんどありがたみが感じられない。先の蘆雪の屏風も仏教に関係した作品とは言えないし、寺がただ有名画家の作品を保存しているだけではほとんど意味がない。
 ここには信仰心という問題が大きく横たわっている。確かに今でも人々は神社仏閣にお参りするが、信仰ということと造形作業の問題をどのように関係させて造形家が日々仕事をしているかとなると、今ではほとんど個人の勝手なひとつの選択肢としてのみ信仰という項目が存在しているに過ぎない時代に思える。たとえば明治生まれの河井寛次郎の陶芸ならば、まだ濃厚に信仰心が生きているが、同じように明治に生まれていてもモダニズム一辺倒の文脈にあるような今竹七郎には仏教的要素の片鱗もないように見える。その意味から推して、今回の展覧会にしても全く関心のない人もまた多いはずで、さらに言えば天台宗が1200年経っていようが1300年経とうが、どうでもよいと思う人もあるだろう。こうした人々の仏教への無関心も仏教の教えの中にそもそも予言されていた、つまり織り込み済みのことであって、仏教側では何らそうした人々の無関心にも動揺しないという思いがあるのかもしれないが、今後日本がどのように転んで行き、どのように仏教、あるいは新しい宗教を扱うのか、興味のあるところだ。また、こうした想像をさせるところが仏教には内在していて、今回も展示されていたが、たとえば比叡山の元からいる神と新しい仏教との折り合いを当時の人々はうまくつけた。「日吉山王曼荼羅」がそれだ。20歳の最澄が比叡山に入った時にはすでに地主神の大山咋神(くいのかみ)と三輪山から迎えられた大己貴神(おおなむちのかみ)が座していて、前者を小比叡神、後者を大比叡神と呼んで、霊山を守護する神という意味の「山王」という尊称で人々は崇拝して来た。その後、平安末期までに各地の有名な神々が勧請されて、山王21社の体系が出来上がるが、「仏が人々を救うために神の姿を借りて現われた」という本地垂迹説の考えに沿って、大比叡が釈迦、小比叡が薬師というように、21社に本地仏が当てられて山王の神は「日吉(ひえ)山王権現」と呼ばれるようになった。これら神と仏の小宇宙を絵画化したのが「日吉山王曼荼羅」だが、仏教以前の信仰とどう折り合いをつけるか、なかなか昔の日本人はうまい考えをしたものだと思う。新しいものがやって来たといって、それまでにあった古いものをすっかり処分してしまわず、うまく融合させるところに人々の逞しい想像力と包容力を思うが、これと同じようなことが今後何百年の間にまた別の形で生じないとも限らない。その望みもあって新興宗教が相変わらず盛んに出現しているのかもしれない。
 国立博物館は部屋がたくさんあって、しかもどの部屋もうす暗いため、全部をつぶさに観て回るのはかなりのエネルギーがいる。本館だけでそうであるから、常設展示をしている別館にまで回る気力は最近はほとんどなくなった。館内のどこかに洒落たカフェ・テラスでもあればいいのだが、あるにはあってもやや離れていて、しかも狭い。かといって一旦敷地の外に出て食事でもするとまた入館料を支払う必要がある。それに博物館近辺には食事をするまともな場所があまりなく、博物館へ行く時は一種の覚悟で気を引き締める。さて、天台の声明を最初から最後まで聴いたことは以前に書いた。その後すぐに本館に言って展示を観た。ここで忘れずに書いておこう。最初の部屋の中央のガラス・ケースには滋賀観音寺蔵の「伝教大師坐像」が収まっていた。重要文化財、高さ66センチでさほど大きくはない。鎌倉時代、1224年の作という。最澄没後400年経っている。そのためどれだけ実物に近いのかどうかわららないが、現存する最澄像としては最も古いもので、この像の顔を一応は信用するしかない。ふっくらとした顔で、横顔がよい。弘法大師とは違って最澄の肖像はごくわずかしかなく、他の肖像彫刻はみなこの重文とはかなり面貌が違っていて、全く別人と言ってよい。また最澄の顔をうかがう絵としては、兵庫の一乗寺に伝わる国宝の「聖徳太子及天台高僧像」のうちの1点があり、最澄像の基本となっている。先の彫刻はこの平安時代の絵を元にしたものかもしれない。両目を静かに閉じてなかなか印象深い表情で、最澄のイメージとしてはふさわしく、この絵のイメージが再生産され続けて最澄像が今に伝わっている。最澄は日本の天台宗の開祖だが、天台宗は中国の隋に始まった。だが、最澄は中国天台だけではなく、円宗、真言密教、大乗戒、達磨禅の4つの教えを兼学することを旨とした。円宗は法華経を土台にして「一切が菩薩であり、一切が成仏出来る」という一乗思想で、日本天台の教義の基礎となった。これに秘教行法により人々の願いをかなえる密教と、菩薩として生きるための戒めの菩薩戒、達磨大師の禅の教えを混ぜたものが最澄の天台宗で、ここにもいかにもいいものは何でも摂取する日本人独特の感性があるように思える。最澄は奈良時代に最も栄えていた法相宗の学僧と何度も論争しており、最澄が亡くなるまで続いて決着を見なかった。奈良仏教は自分たちこそ釈迦の教えを正しく伝えるものであると思っていたし、一方で新しい信念に燃えていた最澄は、奈良の華厳仏教より古い隋の時代の仏教を掲げることで聖徳太子の教えを継ごうとしたから、このような似た新旧の勢力の争いはどんな分野にでも見られる。
 勉強熱心な最澄が桓武天皇から任ぜられて中国に留学したのはわずか9か月で、その間に前述の4つの教えを学んで帰って来たが、真言密教を充分に学んで来なかったことに不満を持っていた。空海は最澄より七歳年下で、天皇の寵愛のない存在であったのに、唐に20年の留学を命じられ、帰国して天皇に提出した目録には最澄が見たことのない密教教典が記載されていた。最澄は空海から灌頂を受けてまでも密教を学ぼうとするが、空海は書物を読むだけでは密教の秘儀を知ることは出来ず、自分のもとに来て修行せよと伝え、天台よりも真言の方が優れた仏教であると論戦を挑むようになる。10月末の読売新聞に大きく出ていたが、牡丹で有名な長岡の乙訓寺は最澄と空海が親しく交わった場所という。この寺には牡丹の写生で何度も行ったことがあるが、そんな古い歴史があるとは知らなかった。記事を少し引用する。「高雄山寺に居を定めた空海は、2年後の811年から乙訓寺の別当に任ぜられる。翌年10月、以前から空海が請来した経論の借用書写を申し入れるなど親交を結んでいた最澄は乙訓寺に空海を訪ねて一泊し、この時、二人の間に初めて『灌頂』の授法が確約される。それは二人の親交がピークに達した瞬間だった。翌11月、高雄山寺に戻った空海が灌頂を授けた人の中に、最澄の名も見える」。このあたりの最澄と空海のやり取りは壮絶な人間ドラマとして見える。最澄がどれほど空海が持ち帰った新しい真言密教の教典を見たかったか、その思いは痛いほどわかる。日本では空海しか知らない最先端の知識であり、空海にいくら頭を下げてでもそれを見たいと思うのは人の心で、それを出し惜しみするのではないが、哀れにも乞う最澄の心中を思って、修行が大切と言う空海の思いも何となくわかる気もする。このような対立は形を変えて今の学者やあるいは好事家の間にも数限りなく繰り返されていることだろう。モノや知識を巡る貪欲な摂取合戦は永遠のものだ。さて、最澄は自分が生きている間には僧になるための戒を受ける大乗戒壇を延暦寺に設立する夢をかなえることが出来ず、奈良仏教の反対に破れた無念の思いで世を去ったと言ってよい。だが、死後すぐに大乗戒壇の設置はかない、また円仁(慈覚大師)、円珍(智証大師)、良源(慈恵大師)、源信(恵心僧都)など門弟たちがよく育った。空也、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、一遍などもみな後継者、あるいは何らかのつながりを持っていて、いかに最澄の天台が日本の仏教の母体になったかがわかる。今回はそうした門弟に関する資料も当然多く展示されたが、京都国立博物館は1年半かけて京都の60あまりの天台系寺院の文化財を調査し、今回は新発見になったものも含めての展示となった。1986年の『比叡山と天台の美術』で出品されたものと共通するものがかなり多かったが、これは仕方がない。それに20年も経てば、新世代が登場しているので、全く同じ内容の展示であってもかまわないほどだ。
 だが、特筆すべき展示はあった。いくつかかあるがふたつだけ書いておこう。まずチラシやチケットに印刷されている比叡山横川中堂本尊の『聖観音菩薩立像』だ。これは重文指定されているが、横川中堂の住職でさえ、いつもガラス・ケース越しにしかも間近では拝めないものが、今回はガラス越しではない状態で博物館中央の天井の高い部屋に展示された。こういう現地を訪れてもめったに観ることがかなわないものに接することが出来るのはやはりありがたい。同じような意味で滋賀坂本の聖衆来迎寺の『六道絵』の展示が挙げられる。1986年は10幅だけの展示であったのが、今回は15点全部が並んだ。これもまためったにない機会だ。今年8月16日に聖衆来迎寺に行ったことや、この鎌倉時代に描かれた『六道絵』が源信の著作に因むことは以前にブログに書いた。聖衆来迎寺ではこの国宝の2点のみが、7、8メートルも離れた場所から見ることが出来た。今回はガラス越しとはいえ、もっと間近に展示され、山吹色のまだ新しい表装裂で統一された大幅が部屋の両脇の壁一面にずらりと並ぶ様子はまことに壮観であった。だが、眼鏡を持って行くのを忘れたため、細部がほとんどわからなかった。これでは自宅で豪華本の図版を眺めている方がよほどよくわかった。それが残念だったが、それでも聖衆来迎寺で見た100年ほど前の模写とは違って、古色を帯びた色合いはさすがに風格があった。展示室に入って左側の陳列ケースのちょうど半ばあたりに「人道不浄相」がかかっていたが、よく見ると、画面下方に二体横たわっているほとんど骸骨と化した死体に群がる白い蛆虫の列がほとんど見えない。それは胡粉で描かれているが、表装を近年新たにした時に洗われたため、うすくなってしまったものに違いない。この絵は、画面上の桜の花びらが風に散るところや、画面中央両脇の紅葉する楓、あるいは松といった自然の中で、烏や犬によって女性の死体が徐々に骨になって行くいくつかの様子を1枚の絵に合成しているが、蛆虫の白い隊列はその中でも最も印象深いものであっただけに、目立たなくなったのはまことに惜しい。絵の保存のために表具し直すのは必要だが、絵具が落ちてしまうのはどうか。もっとも、筆者が所有する豪華本の図版でも蛆虫の胡粉の大半は剥落しており、今から30年ほど前の撮影段階ですでに胡粉の膠がかなり劣化していたであろうと推察される。絵もまた時間という蛆虫に蝕まれるのはいたし方がない。日本の仏教はどうだか…。
by uuuzen | 2005-11-09 23:51 | ●展覧会SOON評SO ON
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